ミラクルオンスクリーン。林海象の処女作
2005年7月7日 映画夏が近くなると思い出すことが二つあります。一つはレース
ファンとして鈴鹿の八耐のこと。もう一つは名古屋で真夏に
公開された林海象の初監督作品の『夢見るように眠りたい』
という映画のことです。ともに夏場に美しさと激しさ、愛や
情熱を感じさせてくれたある意味賜物ですね。今回はレース
ではなくてインプレッシブな映画について書いてみます。
私の高校時代によく出かけていた映画館にシネマスコ−レが
あります。ここで他の都市に先駆けて林海象という初めて
監督作品を作り世に出した作品をこの映画館はロードショー
公開して世の映画ファンに問いました。
何となく気になるポスターに全く当時無名だった俳優を
使い低予算というか貧予算で情熱と根性で作りあげた短い
時間のそれも白黒の作品。ハリウッド好き、アクション映画
やスターによる作品が好きな人は絶対に見ないであろう
作品でした。(本当に500万円で作ったのでしょうか)
まぁ、当時から私は何でもござれで見ていて、そして名古屋人
ということもあって、大予算で素晴らしい作品や芸術、商品
を作れるのは当たり前。安い予算でいいものを作れるのが
素晴らしいことであると低価格高品質を求めるけちな名古屋人
的な発想を抱きながら名古屋駅の西側にくそ暑い名古屋の
真夏に自転車で出かけました。
そこで見た作品というのは、美しさと気高さと映画に対する
胸いっぱいの思いと情念と苦しみと喜びなどが奇跡的に美しい
ハーモニーを奏でた低予算高品質白黒明治ロマンラブストーリー
でした。
作品の内容に触れるとストーリーを書いてしまうことになるので
ここでは触れませんがフランソワ・トリュフォーのような
映画に対する思いと名古屋人の製造業の人のような低予算での
やりくりとが時にピアニッシモ、あるときはフォルティッシモ、
ある局面ではメッツォフォルテで奏でられた流麗さと力強さを
共に有する作品でした。
思わずラストシーンでは泣いてしまいましたね。
この作品を作るには予算や状況など決して恵まれていた
わけではなく産みの苦しみを味わっていたようでしたが、
その苦しみを乗り越えて生まれた作品は奇跡を起こしました。
映画やテレビでは無名で劇場での仕事の多かった佐野史郎が
作品が当たったらギャラをもらえるという条件でこの撮影に
臨み、公開後多くの人に評価され世界中の映画ファンに愛され
た作品の興行収入から10万円もらったそうです。
そして林海象は映像作家として映画、プロモーションビデオ
などの仕事を続けて現在に至っています。
お金がないから、チャンスがないからとできない理由を探して
しまう前に体を動かし、頭を働かせ、やりたいことをやるんだ
という強い意志を持ち、あきらめが悪かった彼に多くの人が
協力し、作品が完成し、名古屋という堅実さや保守性が強い
土地において優れた作品やマイナーな作品を届ける努力を
続けてきたシネマスコ−レという映画館から他の都市に先駆けて
この作品を映画ファンに届けて林海象の処女作の素晴らしさを
流通させたことというのは私の胸を打ちました。
素晴らしいものを届けたいとかあきらめが悪いことが美しい
ことであること、環境をできない理由にしないことや有形
無形問わずに応援してくれる人がこの世に存在すること、
そしてやりたいことをやること、ものごとを持続させること
の重要性などが奇跡を起こしキャリアアップを生み出すことを
教えてくれた名古屋独特の蒸し暑い夏の日のことをこと
あるごとに思い出してしまう夏の前の私です。
ファンとして鈴鹿の八耐のこと。もう一つは名古屋で真夏に
公開された林海象の初監督作品の『夢見るように眠りたい』
という映画のことです。ともに夏場に美しさと激しさ、愛や
情熱を感じさせてくれたある意味賜物ですね。今回はレース
ではなくてインプレッシブな映画について書いてみます。
私の高校時代によく出かけていた映画館にシネマスコ−レが
あります。ここで他の都市に先駆けて林海象という初めて
監督作品を作り世に出した作品をこの映画館はロードショー
公開して世の映画ファンに問いました。
何となく気になるポスターに全く当時無名だった俳優を
使い低予算というか貧予算で情熱と根性で作りあげた短い
時間のそれも白黒の作品。ハリウッド好き、アクション映画
やスターによる作品が好きな人は絶対に見ないであろう
作品でした。(本当に500万円で作ったのでしょうか)
まぁ、当時から私は何でもござれで見ていて、そして名古屋人
ということもあって、大予算で素晴らしい作品や芸術、商品
を作れるのは当たり前。安い予算でいいものを作れるのが
素晴らしいことであると低価格高品質を求めるけちな名古屋人
的な発想を抱きながら名古屋駅の西側にくそ暑い名古屋の
真夏に自転車で出かけました。
そこで見た作品というのは、美しさと気高さと映画に対する
胸いっぱいの思いと情念と苦しみと喜びなどが奇跡的に美しい
ハーモニーを奏でた低予算高品質白黒明治ロマンラブストーリー
でした。
作品の内容に触れるとストーリーを書いてしまうことになるので
ここでは触れませんがフランソワ・トリュフォーのような
映画に対する思いと名古屋人の製造業の人のような低予算での
やりくりとが時にピアニッシモ、あるときはフォルティッシモ、
ある局面ではメッツォフォルテで奏でられた流麗さと力強さを
共に有する作品でした。
思わずラストシーンでは泣いてしまいましたね。
この作品を作るには予算や状況など決して恵まれていた
わけではなく産みの苦しみを味わっていたようでしたが、
その苦しみを乗り越えて生まれた作品は奇跡を起こしました。
映画やテレビでは無名で劇場での仕事の多かった佐野史郎が
作品が当たったらギャラをもらえるという条件でこの撮影に
臨み、公開後多くの人に評価され世界中の映画ファンに愛され
た作品の興行収入から10万円もらったそうです。
そして林海象は映像作家として映画、プロモーションビデオ
などの仕事を続けて現在に至っています。
お金がないから、チャンスがないからとできない理由を探して
しまう前に体を動かし、頭を働かせ、やりたいことをやるんだ
という強い意志を持ち、あきらめが悪かった彼に多くの人が
協力し、作品が完成し、名古屋という堅実さや保守性が強い
土地において優れた作品やマイナーな作品を届ける努力を
続けてきたシネマスコ−レという映画館から他の都市に先駆けて
この作品を映画ファンに届けて林海象の処女作の素晴らしさを
流通させたことというのは私の胸を打ちました。
素晴らしいものを届けたいとかあきらめが悪いことが美しい
ことであること、環境をできない理由にしないことや有形
無形問わずに応援してくれる人がこの世に存在すること、
そしてやりたいことをやること、ものごとを持続させること
の重要性などが奇跡を起こしキャリアアップを生み出すことを
教えてくれた名古屋独特の蒸し暑い夏の日のことをこと
あるごとに思い出してしまう夏の前の私です。
チェコ人ライダーのヤロスラブ・フーレシュが自殺を図り、
搬送先の病院で生涯を終えてから約一年になります。私と彼とは
サーキットで会えばチェコ語であいさつしてイタリア語で会話する
ような仲でした。
彼の死に関して背景に色々なことが言われました。家族の関係の
こと、ライダー人生の未来のことなどが主たるものですが、前者に
関しては奥さんはずっと口を閉ざしていました。家庭内の問題に
関することは問題が存在したのかを含めてわかりません。
後者に関しては、オフシーズンのことを業界関係者やネット情報
などである程度知っていましたが、痛みを感じるものがありました。
彼はチームエリットでグランプリの125ccクラスに出走した
がっていましたが、これが却下されてしまいました。その理由は
統括団体がこのクラスの参戦に年齢による縛りをかけて、若年
ライダーによる入門クラスにしようという考え方が陰を落として
いたようでした。
私は世界選手権でライダーが能力や才能を競うのに年齢による
区分けをするべきではないと思っていますが、そう考えている私は
何の政治力もない素浪人でして、レース業界の偉い人というのは
年齢制限を推し進めることに努力を惜しまなかったですね。
彼はこの125ccクラスでの参戦をあきらめて、カワサキの
スーパーバイクマシンでドイツ選手権参戦に向けて動き始めて
これが実現するかに思えましたが、直前で白紙になってしまいました。
結局、彼は世界耐久選手権をオーストリアホンダと共に戦うこと
になりましたが、ブルノでのテストでクラッシュして全治三ヶ月
という診断を受けて前半戦を走ることができずに過ごし、その後
誕生日に首吊り自殺を図りました。
全てのことを業界的な政治的なことに結びつけるつもりはありません。
しかしながら、かつてのグランプリのように125ccという
クラスが十代からベテランライダーまで、年齢に関係なく参戦
できていたら彼がシーズン前に就職活動に苦しむこともなかった
ことでしょう。ライダーが走れるか走れないかは世界選手権に
おいては年齢ではなくてラップタイムで測定すべきだというのが
私の持論です。チームエリットでの125ccクラス参戦を拒否
されたのが彼の人生を縮める導火線になったのではないかと思う
私です。
彼の緊急入院と死を知ってから私はプラハから日本に戻って
きましたが、アリタリアの機内で平原綾香の『ジュピター』と
一青窈の『ハナミズキ』を聴いていて色々な思いがこみ上げてきて
涙が止まらなくなりました。彼女達の美しい歌声と共にこの二曲の詞が強く
胸を打ち、彼の生前の姿や彼が125ccクラスでの参戦を
否定されてからの動きを想像してとても悲しいやりきれない気持ちに
なりました。
パリダカの創始者で亡くなって何年も経つのに
今だに尊敬を集めているティエリー・サビーヌの言葉に
『冒険の扉を開くのは君だ。君が望むなら連れて行こう。』という
のがあります。
あの言葉の持つ力と来る者を拒まず、実力というものさしで
果実を得られるのか、モーリタニア砂漠で苦しみを味わうのかを
測定していたパリダカは今もって私を魅了していますが、
それは年齢を参戦許可の判断材料に使っていないことがあります。
年齢が若かろうがそうでなかろうが走れる環境を用意できた人は
走ることができて、モーリタニアの悪魔をぶち破り、ダカールに
たどり着いたライダーやドライバーを称えるあり方は正しいと
信じています。
搬送先の病院で生涯を終えてから約一年になります。私と彼とは
サーキットで会えばチェコ語であいさつしてイタリア語で会話する
ような仲でした。
彼の死に関して背景に色々なことが言われました。家族の関係の
こと、ライダー人生の未来のことなどが主たるものですが、前者に
関しては奥さんはずっと口を閉ざしていました。家庭内の問題に
関することは問題が存在したのかを含めてわかりません。
後者に関しては、オフシーズンのことを業界関係者やネット情報
などである程度知っていましたが、痛みを感じるものがありました。
彼はチームエリットでグランプリの125ccクラスに出走した
がっていましたが、これが却下されてしまいました。その理由は
統括団体がこのクラスの参戦に年齢による縛りをかけて、若年
ライダーによる入門クラスにしようという考え方が陰を落として
いたようでした。
私は世界選手権でライダーが能力や才能を競うのに年齢による
区分けをするべきではないと思っていますが、そう考えている私は
何の政治力もない素浪人でして、レース業界の偉い人というのは
年齢制限を推し進めることに努力を惜しまなかったですね。
彼はこの125ccクラスでの参戦をあきらめて、カワサキの
スーパーバイクマシンでドイツ選手権参戦に向けて動き始めて
これが実現するかに思えましたが、直前で白紙になってしまいました。
結局、彼は世界耐久選手権をオーストリアホンダと共に戦うこと
になりましたが、ブルノでのテストでクラッシュして全治三ヶ月
という診断を受けて前半戦を走ることができずに過ごし、その後
誕生日に首吊り自殺を図りました。
全てのことを業界的な政治的なことに結びつけるつもりはありません。
しかしながら、かつてのグランプリのように125ccという
クラスが十代からベテランライダーまで、年齢に関係なく参戦
できていたら彼がシーズン前に就職活動に苦しむこともなかった
ことでしょう。ライダーが走れるか走れないかは世界選手権に
おいては年齢ではなくてラップタイムで測定すべきだというのが
私の持論です。チームエリットでの125ccクラス参戦を拒否
されたのが彼の人生を縮める導火線になったのではないかと思う
私です。
彼の緊急入院と死を知ってから私はプラハから日本に戻って
きましたが、アリタリアの機内で平原綾香の『ジュピター』と
一青窈の『ハナミズキ』を聴いていて色々な思いがこみ上げてきて
涙が止まらなくなりました。彼女達の美しい歌声と共にこの二曲の詞が強く
胸を打ち、彼の生前の姿や彼が125ccクラスでの参戦を
否定されてからの動きを想像してとても悲しいやりきれない気持ちに
なりました。
パリダカの創始者で亡くなって何年も経つのに
今だに尊敬を集めているティエリー・サビーヌの言葉に
『冒険の扉を開くのは君だ。君が望むなら連れて行こう。』という
のがあります。
あの言葉の持つ力と来る者を拒まず、実力というものさしで
果実を得られるのか、モーリタニア砂漠で苦しみを味わうのかを
測定していたパリダカは今もって私を魅了していますが、
それは年齢を参戦許可の判断材料に使っていないことがあります。
年齢が若かろうがそうでなかろうが走れる環境を用意できた人は
走ることができて、モーリタニアの悪魔をぶち破り、ダカールに
たどり着いたライダーやドライバーを称えるあり方は正しいと
信じています。
最高の妥協は最適な到達点
2005年7月5日 日常いい料理人というのが自分の味とか世界にのめりこんで
しまい、様々なアイデアを出して、素晴らしい料理を作る
ことがあっても、お客さんからは待たされる時間や料金、
求めているものの方向性の違いなどがあって、いい料理
でありながら受け入れられないことがあります。
まぁ、本人がこれが最高の料理だと思って作っても、
自己満足に終わって、お金を稼ぐことができないという
ことですね。
同じようなことというのをバイクのレースの世界でも感じる
ことがあります。
私がかつて身近でまともに見ていたケースですと、担当の
エンジニアが『これがいい。こうすれば速く走れる。』と
思いセットアップしたバイクが、彼の経験の想定外の状況
では機能することなくライダーにとって乗りにくいバイクの
セットアップとなっていたことがありました。
そして、そのチーフエンジンニアというのはそれまで
実績を積んでいただけに周りは進言したり、違う
方向性のことを薦めたりできずに、外から見ている人に
とってはこのエンジニアが担当しているライダーと
チームメイトが同じマシン、タイヤ、サスペンションを
使っているのにタイムも順位も違いすぎて、ライダーの能力
がないと思われてしまったなんてことがありました。
今年のSBKのヴァレンシアで私はグイドッティにインタビュー
したのですが、そこで彼は今年のトロイ・コーサーの好調さ
について『いいバランス』ということを話していました。
ライダーが元世界王者だから速いのは当然ですが、同時に
車体を担当する側とエンジンサイドのスペシャリストが
絶対的に自分が正しいという考え方で他社の意見を認めない
という考え方ではなく、お互いがいいと思うところをぶつけて
妥協点を探り、それが最適なセットアップの到達点であると
思っていて、それを実践しているからいいライダーにいい
マシンを提供できて強さを発揮できているんだと話して
くれました。
まぁ、昨年の宇井陽一君とサスペンションエンジニアとの
衝突とかカワサキSBKでの柳川さんという速いライダーがその
速さを証明しようにも担当のサスペンションエンジニアの
頑固な考え方とその考えを推し進めることによってライダー
の実力がスポイルされてしまった姿を見ていると偉い人の考
えで成績が出ないことを避ける
ためには複数のスタッフで他の分野の担当者の言葉に耳を
傾けて時に自分の最高のアイデアも少し引っ込める人が
いると結果的にチームとしていいマシンを作るのではないか
と思いますね。
エンジニアが最高だとかこれは速いと思っていてもライダー
が乗る気持ちになれないものだと速さを発揮できないわけで
料理人がおいしいと思ったものでも、あまりに凝りすぎて
素材のおいしさを感じられずにおいしさを実感できない
と受け入れられないですからね。
立場や肩書きなど関係なく一般消費者の動向や好みを
キャッチしようとしている企業には前述のエンジニアのような
ことを破壊してしまおうという考え方が根付いていると
思う私です。
しまい、様々なアイデアを出して、素晴らしい料理を作る
ことがあっても、お客さんからは待たされる時間や料金、
求めているものの方向性の違いなどがあって、いい料理
でありながら受け入れられないことがあります。
まぁ、本人がこれが最高の料理だと思って作っても、
自己満足に終わって、お金を稼ぐことができないという
ことですね。
同じようなことというのをバイクのレースの世界でも感じる
ことがあります。
私がかつて身近でまともに見ていたケースですと、担当の
エンジニアが『これがいい。こうすれば速く走れる。』と
思いセットアップしたバイクが、彼の経験の想定外の状況
では機能することなくライダーにとって乗りにくいバイクの
セットアップとなっていたことがありました。
そして、そのチーフエンジンニアというのはそれまで
実績を積んでいただけに周りは進言したり、違う
方向性のことを薦めたりできずに、外から見ている人に
とってはこのエンジニアが担当しているライダーと
チームメイトが同じマシン、タイヤ、サスペンションを
使っているのにタイムも順位も違いすぎて、ライダーの能力
がないと思われてしまったなんてことがありました。
今年のSBKのヴァレンシアで私はグイドッティにインタビュー
したのですが、そこで彼は今年のトロイ・コーサーの好調さ
について『いいバランス』ということを話していました。
ライダーが元世界王者だから速いのは当然ですが、同時に
車体を担当する側とエンジンサイドのスペシャリストが
絶対的に自分が正しいという考え方で他社の意見を認めない
という考え方ではなく、お互いがいいと思うところをぶつけて
妥協点を探り、それが最適なセットアップの到達点であると
思っていて、それを実践しているからいいライダーにいい
マシンを提供できて強さを発揮できているんだと話して
くれました。
まぁ、昨年の宇井陽一君とサスペンションエンジニアとの
衝突とかカワサキSBKでの柳川さんという速いライダーがその
速さを証明しようにも担当のサスペンションエンジニアの
頑固な考え方とその考えを推し進めることによってライダー
の実力がスポイルされてしまった姿を見ていると偉い人の考
えで成績が出ないことを避ける
ためには複数のスタッフで他の分野の担当者の言葉に耳を
傾けて時に自分の最高のアイデアも少し引っ込める人が
いると結果的にチームとしていいマシンを作るのではないか
と思いますね。
エンジニアが最高だとかこれは速いと思っていてもライダー
が乗る気持ちになれないものだと速さを発揮できないわけで
料理人がおいしいと思ったものでも、あまりに凝りすぎて
素材のおいしさを感じられずにおいしさを実感できない
と受け入れられないですからね。
立場や肩書きなど関係なく一般消費者の動向や好みを
キャッチしようとしている企業には前述のエンジニアのような
ことを破壊してしまおうという考え方が根付いていると
思う私です。
ウィンブルドンを制したフェデラーがスイスに帰国。
そして、国民にあいさつしていましたが、これがとんでもない
お祭り騒ぎでした。警察の先導で町の中心に着き、ドイツ語で
市民の皆さんにあいさつしましたが、何だかアイスホッケー
世界選手権決勝の翌日のプラハを思わせるようなムードを
テレビの映像から感じました。
まぁ、当然と言えば当然ですね。スイス人の皆さんが幸せ
そうな顔をしていたのが印象的でしたが、求められるもの
がとてつもなく大きいだけに、大変だなとも思った私でした。
そして、国民にあいさつしていましたが、これがとんでもない
お祭り騒ぎでした。警察の先導で町の中心に着き、ドイツ語で
市民の皆さんにあいさつしましたが、何だかアイスホッケー
世界選手権決勝の翌日のプラハを思わせるようなムードを
テレビの映像から感じました。
まぁ、当然と言えば当然ですね。スイス人の皆さんが幸せ
そうな顔をしていたのが印象的でしたが、求められるもの
がとてつもなく大きいだけに、大変だなとも思った私でした。
ci sono candidati per olimpiade nel 2012
avevo sentito la possibilita’ a parigi londra anche
a new york e madrid
mentre navigando internet sempre io sento qualche mancanza
per le queste notizie cioe’ la citta’ a cui interessa
fare olimpiade invece non leggo tanti informazione
le citta’ dove volevano olimpiade anche paralimpiade
i giornalista a cui non interessa lo sport degli handicapatti o no?
secondo me buona citta’ vorrebbe dire per me
piu’ facile girare rimanere viaggiare per tutti
cioe’ anche per gli handicapatti anziani e stranieri
nel 1988 a seul c’era l’olimpiade e paralimpiade
quello periodo non ci sono andato al capitale di
corea del sud
nel2002 ci sono andato e mi sembrava che sia altre citta’
cioe’ era paralimpiade a seul nel 1988 pero’ mancavano
tanti l’asensori scali mobili ai posti pubblici
non potevo pensare mai di citta’ dove c’era paralimpiade
la stessa cosa sentivo a barcelona mancano tantissimi
era difficile girare per gli handicapatti ed anziani
sopratutto il metro era incredibile girare per disabili
ancora non so dove ci sara paralimpiade nel 2012
quando andavo a londra dove la citta’ piu’ difficile
girare per gli handicapatti il ferrovie nazionale
difficile salire su treno perche’ sono troppi alti
capitale di ex soviet come va? il comunismo sempre
pensava di pari per tutti poi era olimpiade e
paralimpiade nel 1980 hanno gia tenuto tanti stadi
ma ci sono sistema per gli anziani ed handicapatti
volevo saperlo
comunque buona citta’ per l’olimpiade e paralimpiade
significa "la citta’ piu’ facile girare rimanere per
tutti non solo non handicapatti ed anziani"
avevo sentito la possibilita’ a parigi londra anche
a new york e madrid
mentre navigando internet sempre io sento qualche mancanza
per le queste notizie cioe’ la citta’ a cui interessa
fare olimpiade invece non leggo tanti informazione
le citta’ dove volevano olimpiade anche paralimpiade
i giornalista a cui non interessa lo sport degli handicapatti o no?
secondo me buona citta’ vorrebbe dire per me
piu’ facile girare rimanere viaggiare per tutti
cioe’ anche per gli handicapatti anziani e stranieri
nel 1988 a seul c’era l’olimpiade e paralimpiade
quello periodo non ci sono andato al capitale di
corea del sud
nel2002 ci sono andato e mi sembrava che sia altre citta’
cioe’ era paralimpiade a seul nel 1988 pero’ mancavano
tanti l’asensori scali mobili ai posti pubblici
non potevo pensare mai di citta’ dove c’era paralimpiade
la stessa cosa sentivo a barcelona mancano tantissimi
era difficile girare per gli handicapatti ed anziani
sopratutto il metro era incredibile girare per disabili
ancora non so dove ci sara paralimpiade nel 2012
quando andavo a londra dove la citta’ piu’ difficile
girare per gli handicapatti il ferrovie nazionale
difficile salire su treno perche’ sono troppi alti
capitale di ex soviet come va? il comunismo sempre
pensava di pari per tutti poi era olimpiade e
paralimpiade nel 1980 hanno gia tenuto tanti stadi
ma ci sono sistema per gli anziani ed handicapatti
volevo saperlo
comunque buona citta’ per l’olimpiade e paralimpiade
significa "la citta’ piu’ facile girare rimanere per
tutti non solo non handicapatti ed anziani"
premier tavernier
2005年7月4日 映画dopo aver visto il grande maestro
lui cambiava la mia vita
questa volta vado scrivere la sceana importante con il
regista francese
mentre ebbe 15anni io fui stato a nagoya dove fui nato
un giorno il francese venne a nagoya con il suo film
"dimanche a la’ compagne"
dopo aver finito il suo film fu intervista fra il regista
e gli appasionati del film poi potei vederlo pero’ al quello
periodo io non fui capace di parlare mai francese
e mi avesti detto"merci" pero’ non ebbi capito
mai
questa opportunita’ mi ando’ avere interessa imparare francese farmi capire i film
in giappone all’universita’dobbiamo imparare 2 lingue
uno e’ inglese senza dubbio poi io dovetti studiare una
lingua su 4 lingue
furono russo tedesco cinese e francese
mia motivazione depende i film e il motociclismo
cosi ebbi deciso di imparare francese
dopo aver finito il mio studio della sociologia
ebbi lavorato all’albergo poi quando fui libero studiassi
francese e anche italiano perche’ mia motivazione
furono i film e il motociclismo
seconda volta venne il francese in giappone pero’ non fu
opportunita’ a nagoya quindi fui andato a yokohama
per"la festa dei film francesi a yokohama"
al quello periodo vidi il suo film "L627"
poi fu bella opportunita’ discutere fra lui e gli
appasionati dei film
per questo fui andato a vederlo e parlassi con lui
e ebbe confesso la mia cambia
"voglio dire ’enchante’ pero’ oggi seconda volta vederti
la prima volta a nagoya e oggi seconda volta qui a yokohama vederti"
"dopo aver visto a mia citta’ nagoya cominciavo studiare vostra lingua pero’ ora posso parlare italiano meglio di francese"
"pero’ devo ringraziarti tanto perche’ mi faceva imparare
francese percio’ parlo con i piloti italiani e francesi
tanti meccanici i giornalista’ e telecronista italiani
e francesi"
" avevano capito chi e’ yasu
oramai sono abbastanza famoso al circuit se non cominciassi
mai imparare francese non imaginavo mai di imparare
italiano
sentivo qualche speciale quando venivi a
nagoya e cominciavo francese hai cambiato la mia vita’
e mi ha insegnato che significa ’la vita e’ bella!"
ebbe sorriso il grande maestro poi subito
il francese che viene da
lione cominciassi parlare italiano con me
(parla benissimo italiano!!)
fu bel tempo e il grande divertimento
dopo il suo film "L627" ancora lui sempre e’ speciale
e non ebbe perso sua motivazione e ebbe vinto il grand
prix al festa di berlino
invece io ebbe finito il mio lavoro all’albergo vicino
alla stazione di nagoya e imparassi italiano a rimini
fui interpreter per il pilota giapponese al mondo
di superbike anche per i marchi giapponesi italiani
ecc ecc
se avesse visto terza volta cosa sara nato
casa avra’ distrutto casa avra’ avuto nessuno non
puo’ pronosticare mai
pero’ io sempre sento qualcosa speciale dei film
di bertrand tavernier
lui ancora molto determinato da creare il film
e io sempre sento desiderio e grande voglia
da scrivere e parlare qualcosa anche in italiano
in giapponese
quando vedevo a yokohama l’appasionata del suo film
mi diceva "il primo giapponese che parla italiano
con bertrand tavernier" adesso tanti mi chiamano
"romagnolo giapponese" "fantagista delle lingue"
fra grande maestro francese che parla italiano
e il romagnolo giapponese parla il dialetto nagoya e
rimini cosa avranno cosa ci saranno
spero di vederlo presto!!
lui cambiava la mia vita
questa volta vado scrivere la sceana importante con il
regista francese
mentre ebbe 15anni io fui stato a nagoya dove fui nato
un giorno il francese venne a nagoya con il suo film
"dimanche a la’ compagne"
dopo aver finito il suo film fu intervista fra il regista
e gli appasionati del film poi potei vederlo pero’ al quello
periodo io non fui capace di parlare mai francese
e mi avesti detto"merci" pero’ non ebbi capito
mai
questa opportunita’ mi ando’ avere interessa imparare francese farmi capire i film
in giappone all’universita’dobbiamo imparare 2 lingue
uno e’ inglese senza dubbio poi io dovetti studiare una
lingua su 4 lingue
furono russo tedesco cinese e francese
mia motivazione depende i film e il motociclismo
cosi ebbi deciso di imparare francese
dopo aver finito il mio studio della sociologia
ebbi lavorato all’albergo poi quando fui libero studiassi
francese e anche italiano perche’ mia motivazione
furono i film e il motociclismo
seconda volta venne il francese in giappone pero’ non fu
opportunita’ a nagoya quindi fui andato a yokohama
per"la festa dei film francesi a yokohama"
al quello periodo vidi il suo film "L627"
poi fu bella opportunita’ discutere fra lui e gli
appasionati dei film
per questo fui andato a vederlo e parlassi con lui
e ebbe confesso la mia cambia
"voglio dire ’enchante’ pero’ oggi seconda volta vederti
la prima volta a nagoya e oggi seconda volta qui a yokohama vederti"
"dopo aver visto a mia citta’ nagoya cominciavo studiare vostra lingua pero’ ora posso parlare italiano meglio di francese"
"pero’ devo ringraziarti tanto perche’ mi faceva imparare
francese percio’ parlo con i piloti italiani e francesi
tanti meccanici i giornalista’ e telecronista italiani
e francesi"
" avevano capito chi e’ yasu
oramai sono abbastanza famoso al circuit se non cominciassi
mai imparare francese non imaginavo mai di imparare
italiano
sentivo qualche speciale quando venivi a
nagoya e cominciavo francese hai cambiato la mia vita’
e mi ha insegnato che significa ’la vita e’ bella!"
ebbe sorriso il grande maestro poi subito
il francese che viene da
lione cominciassi parlare italiano con me
(parla benissimo italiano!!)
fu bel tempo e il grande divertimento
dopo il suo film "L627" ancora lui sempre e’ speciale
e non ebbe perso sua motivazione e ebbe vinto il grand
prix al festa di berlino
invece io ebbe finito il mio lavoro all’albergo vicino
alla stazione di nagoya e imparassi italiano a rimini
fui interpreter per il pilota giapponese al mondo
di superbike anche per i marchi giapponesi italiani
ecc ecc
se avesse visto terza volta cosa sara nato
casa avra’ distrutto casa avra’ avuto nessuno non
puo’ pronosticare mai
pero’ io sempre sento qualcosa speciale dei film
di bertrand tavernier
lui ancora molto determinato da creare il film
e io sempre sento desiderio e grande voglia
da scrivere e parlare qualcosa anche in italiano
in giapponese
quando vedevo a yokohama l’appasionata del suo film
mi diceva "il primo giapponese che parla italiano
con bertrand tavernier" adesso tanti mi chiamano
"romagnolo giapponese" "fantagista delle lingue"
fra grande maestro francese che parla italiano
e il romagnolo giapponese parla il dialetto nagoya e
rimini cosa avranno cosa ci saranno
spero di vederlo presto!!
すぐれたエンタメに分かりやすさが必要だ
2005年7月3日 スポーツアメリカのプロレス団体であり、世界で事業規模としては
一番のWWEが現在日本で大会を開いています。
私は現場で見たことはないのですが、アメリカという国の
大きさとかあの国ならではの多様性に対するアジャストと
いうものを感じますね。
WWEというのはハリウッド映画であると私は考えている
のですが、言語が英語だけで成り立っているわけでもなく、
多くの民族が集まってできている国において、多くの予算を
使ってわかりやすく肉体言語と映像を使って試合をあおる
ビデオを作製し、これを流す。そして、彼らの思う格好いい
レスラーを用意して(これがまぁ、筋骨隆々のヘビー級で
白人であることが多いのですが)汚い反則攻撃をする悪役
に耐えて観客や会場のヒートが沸点に到達してから反撃
していく。また、ディーバと呼ばれるリングを彩る女性
レスラーというのはきわどい水着を着て、ナイスバディを
見せ付ける。
格闘技の部分のガチンコ性を薄めてアメリカの客やテレビ視聴者
に対して必要とされるエンターテイメント性を付加させて、
さらに主役や脇役、善玉、悪玉レスラーのためにサイドスト
ーリーを加えて演じていくというのは見る前にわかりやすさ
を提供しています。
実際の世界経済や国際政治において、かつてのソ連という
わかりやすい敵がいなくなった今日、白と黒をはっきり
わかれさせて、ヘビー級の人間がぶつかりあい、ストレス
を発散させたり、楽しむことができるのがWWEのプロレス
である気がします。
ウィンブルドンの女子の決勝を見ていて、同じアメリカ人
同士だし、どちらかが飛びぬけて強いわけでもないし、
芝生のプレイだと長いラリーが多くならないしということで
興味を持てない人はヨーロッパの大陸側では多かった気が
しますが、そう考えるとスポーツが興行とかエンタメと
いう括りで考えられるならば、違ったカラーのプレイスタイル、
異なる国籍や民族、年齢や背景が違うと見る側にとって
どちらかのプレイヤーに感情移入しやすくて、視聴率も
伸びる気がしますね。
まぁ、私はWWEの色々な意味での
パワーを感じますが、あんなナチュラルさを感じさせない
肉体(男子のレスラーもディーバのお姉ちゃんも)での
ぶつかり合いを見るよりか、ブラジル人対日本人や
ロシア人対クロアチア人のキャラクターの立ったもの同士の
真剣勝負を見るほうが楽しいのですね。真剣勝負の中に
エンタメのレスリングにある分かりやすさを同時に感じる
こともできますからね。
一番のWWEが現在日本で大会を開いています。
私は現場で見たことはないのですが、アメリカという国の
大きさとかあの国ならではの多様性に対するアジャストと
いうものを感じますね。
WWEというのはハリウッド映画であると私は考えている
のですが、言語が英語だけで成り立っているわけでもなく、
多くの民族が集まってできている国において、多くの予算を
使ってわかりやすく肉体言語と映像を使って試合をあおる
ビデオを作製し、これを流す。そして、彼らの思う格好いい
レスラーを用意して(これがまぁ、筋骨隆々のヘビー級で
白人であることが多いのですが)汚い反則攻撃をする悪役
に耐えて観客や会場のヒートが沸点に到達してから反撃
していく。また、ディーバと呼ばれるリングを彩る女性
レスラーというのはきわどい水着を着て、ナイスバディを
見せ付ける。
格闘技の部分のガチンコ性を薄めてアメリカの客やテレビ視聴者
に対して必要とされるエンターテイメント性を付加させて、
さらに主役や脇役、善玉、悪玉レスラーのためにサイドスト
ーリーを加えて演じていくというのは見る前にわかりやすさ
を提供しています。
実際の世界経済や国際政治において、かつてのソ連という
わかりやすい敵がいなくなった今日、白と黒をはっきり
わかれさせて、ヘビー級の人間がぶつかりあい、ストレス
を発散させたり、楽しむことができるのがWWEのプロレス
である気がします。
ウィンブルドンの女子の決勝を見ていて、同じアメリカ人
同士だし、どちらかが飛びぬけて強いわけでもないし、
芝生のプレイだと長いラリーが多くならないしということで
興味を持てない人はヨーロッパの大陸側では多かった気が
しますが、そう考えるとスポーツが興行とかエンタメと
いう括りで考えられるならば、違ったカラーのプレイスタイル、
異なる国籍や民族、年齢や背景が違うと見る側にとって
どちらかのプレイヤーに感情移入しやすくて、視聴率も
伸びる気がしますね。
まぁ、私はWWEの色々な意味での
パワーを感じますが、あんなナチュラルさを感じさせない
肉体(男子のレスラーもディーバのお姉ちゃんも)での
ぶつかり合いを見るよりか、ブラジル人対日本人や
ロシア人対クロアチア人のキャラクターの立ったもの同士の
真剣勝負を見るほうが楽しいのですね。真剣勝負の中に
エンタメのレスリングにある分かりやすさを同時に感じる
こともできますからね。
NHKのウィンブルドン中継に都議会選挙速報が入るのは
2005年7月3日 TVウィンブルドンの男子シングルス決勝が雨で少し中断されている
のでPCの前に座ることにしました。
生放送でロンドン郊外から中継しているウィンブルドンですが、
この中継の途中に今日行われた東京都議会選挙の速報番組が
入り、試合の途中に東京からの映像に変わりました。
これは私は不満ですね。
そもそも、私は名古屋人でして、国政選挙だったらともかく、
東京の議会の勢力図のことに興味がない。強い興味を抱いているのは
東京とその周辺地域で居住している人達だけではないでしょうか。
NHKというのは全国津々浦々で見られるような国からのサポート
やら法律の形態で成り立っている組織で、東京だけでなく全国で
見ている人が放送局ですが、北海道の端とか沖縄の離島の人に
対してまで、あるいは私のような名古屋人にまでウィンブルドンの
決勝の大会のナンバーワンシードとナンバーツーシードによる
最終日の中継をしている中に東京都の議会の選挙を東京のスタジオ
からするのが正しいあり方であるとは思えません。
私はそういう一地方の議会の選挙速報は字幕による情報提供か雨
で中断されている時にのみやって欲しいと思いますね。他の地方で
ウィンブルドンの決勝を楽しみにしている人に対して失礼な話
だと思います。
のでPCの前に座ることにしました。
生放送でロンドン郊外から中継しているウィンブルドンですが、
この中継の途中に今日行われた東京都議会選挙の速報番組が
入り、試合の途中に東京からの映像に変わりました。
これは私は不満ですね。
そもそも、私は名古屋人でして、国政選挙だったらともかく、
東京の議会の勢力図のことに興味がない。強い興味を抱いているのは
東京とその周辺地域で居住している人達だけではないでしょうか。
NHKというのは全国津々浦々で見られるような国からのサポート
やら法律の形態で成り立っている組織で、東京だけでなく全国で
見ている人が放送局ですが、北海道の端とか沖縄の離島の人に
対してまで、あるいは私のような名古屋人にまでウィンブルドンの
決勝の大会のナンバーワンシードとナンバーツーシードによる
最終日の中継をしている中に東京都の議会の選挙を東京のスタジオ
からするのが正しいあり方であるとは思えません。
私はそういう一地方の議会の選挙速報は字幕による情報提供か雨
で中断されている時にのみやって欲しいと思いますね。他の地方で
ウィンブルドンの決勝を楽しみにしている人に対して失礼な話
だと思います。
fabien foret ritorna al vincitore?
2005年7月3日 スポーツal questa stagione di supersport sempre i piloti del team
winston ten kate dominano le gare dal primo round al
gara di misano
pero’ al circuit di rimini fabien foret faceva bella gara
e poteva vininare a sebestien charpentier
lui ritorna al vincitore o no? sempre i piloti della
winston ten kate mi fa sentire la delusione
credo che sia buon pilota fabien foret sulla moto di super
sport infatti quando lui girava su cbr con la squadra
olandese faceva grade guerra con fujiwara fino all’ultimo
periodo e vinceva e conquistato il titolo mondiale
pero’ dalla gara di qatar manca qualcosa e bisogna
qualcosa
una volta andavo all’ufficio di lightspeed kawasaki
parlavo con davide bulega e ho chiesto "chi e’ il migliore
pilota sulla moto supersport"
lui subito mi ha detto"credo...foret"
mentre girava al campionato supersport e poteva vederlo sulla pista e davide bulega credeva che fosse il migliore pilota fabien foret
poi lui vinceva mondiale poi cambiava la moto
e un anno girava sulla kawasaki ninja
era difficile stagione pero’ a misano adreatico lui
vinceva e qualche volta poteva girare col gruppo top
invece altri kawasakista non poteva girare come lui
poi anche sulla yamaha girava abbastanza bene
la moto cambiava pero’ sua velocita’ era stesso
cosi la moto il pneumatico la sospensione cambiavano
lui poteva girare ai migliori
il talento c’e’ per questo la sqaudra poteva preparare
i materiali come fabien voleva lui poteva girare
come charpentier e fujiwara
winston ten kate dominano le gare dal primo round al
gara di misano
pero’ al circuit di rimini fabien foret faceva bella gara
e poteva vininare a sebestien charpentier
lui ritorna al vincitore o no? sempre i piloti della
winston ten kate mi fa sentire la delusione
credo che sia buon pilota fabien foret sulla moto di super
sport infatti quando lui girava su cbr con la squadra
olandese faceva grade guerra con fujiwara fino all’ultimo
periodo e vinceva e conquistato il titolo mondiale
pero’ dalla gara di qatar manca qualcosa e bisogna
qualcosa
una volta andavo all’ufficio di lightspeed kawasaki
parlavo con davide bulega e ho chiesto "chi e’ il migliore
pilota sulla moto supersport"
lui subito mi ha detto"credo...foret"
mentre girava al campionato supersport e poteva vederlo sulla pista e davide bulega credeva che fosse il migliore pilota fabien foret
poi lui vinceva mondiale poi cambiava la moto
e un anno girava sulla kawasaki ninja
era difficile stagione pero’ a misano adreatico lui
vinceva e qualche volta poteva girare col gruppo top
invece altri kawasakista non poteva girare come lui
poi anche sulla yamaha girava abbastanza bene
la moto cambiava pero’ sua velocita’ era stesso
cosi la moto il pneumatico la sospensione cambiavano
lui poteva girare ai migliori
il talento c’e’ per questo la sqaudra poteva preparare
i materiali come fabien voleva lui poteva girare
come charpentier e fujiwara
mentre abitavo a rimini per imparare italiano
vedevo tanti motolini e moto italiane tanto
poi sentivo grande campanilismo in italia
quando leggevo motosprint loro non scirivono mai mai mai
"il pilota italiano"
sempre preferiscono
"il pilota pesarese= valentino rossi"
"il pilota romano= max biaggi"
anche quando si chiamano le case
hanno scritto
casa di noale cioe’ aprilia
si chiama borgo san panigale cioe’ ducati
quindi bimota si chiama casa riminese
questa piccola casa si trova al quartiere industiare
solo una volta ci sono andato vedere loro fabbrica
dove si sono solo 50 persone lavoravano
questa casa cominciava la grande sfida nel mondiale superbike
col pilota australiano che si chiama anthony gobert
quello periodo tante gigante pertecipavano al campionato
mondiale con bravissimi piloti
le case giapponesi erano honda yamaha suzuki e kawasaki
gli italiani ducati ed aprilia c’erano con la forma
ufficiale
la casa riminese lavorava tanto e tanti appaionati delle gare
pensavano che fosse il pilota speciale loro anthony
gobert pero’ non andava bene e le risulta’ erano povero
ai primi round
non potevano vedere belle pronostiche pero’ arrivava
la gara in australia dove girava tanto anthony
girava al campionato australiano prima di arrivare al campionato
mondiale
anthony aveva gia capito tutte parte della questa pista
solamente questa sua esperienza era la cosa positiva
perche’ mancava velocita’ massimo e competitivita’ della
loro moto
nessuno non pensava mai di scommettere su anthony con la sua
bimota e tutti appasionati delle gare credeva che
avrebbe vinto il pilota delle altre casa giapponese
oppure quella italiana
pero’ il dio del motociclismo preparava il sogno per
una casa e il pilota e anche portava il incubo per non
vincitore
cominciava piovere e condizione della pista era difficilissimo
e tutti piloti e gli ingeniere credeva di
giusto set up di moto e il pneumatico
era difficile da decidere tutti materiali per tutti uomini
e arrivava il tempo della gara
tempo difficile buttava via la grande differenza fra anthony
gobert con la sua bimota e tutti altri piloti su altre moto
il pilota australiano girava benissimo e tutti altri
non poteva essere i protagonista dietro di anthony
il cielo piangeva anthony ha sorriso
e tutti altri non poteva guidare la moto come lui faceva
con bimota tanti appasionati vedevano il super giro di anthony
davanti ai giganti honda yamaha suzuki kawasaki
ducati ed aprilia c’era solamente la casa riminese
il marchio che hanno solo 50 persone aveva prodotto
la moto che girava il piu’ veloce’
ha sucesso la grande vittoria della piccola casa
la casa riminese ha preso tutto io ho preso
il lambrusco e la piadina con la felicita’
io ero romagnolo sentivo zeppo di felicita
e grande appaionata di moto e cinema
e potevo vedere il capolavoro della moto di rimini
dove fu nato il federico fellini
sulla pista di philippe island
ci furono "la strada" "la dolce vita" e dopo la gara
ci fu "l’intervista"
ancora non posso dimenticare il capolavoro di casa di rimini
dove fu nato il grande federico fellini
il pilota australiano con la moto riminese
mi faceva sentire la bellissima colaborazione come
il fellini con la musica di nino rota
vedevo tanti motolini e moto italiane tanto
poi sentivo grande campanilismo in italia
quando leggevo motosprint loro non scirivono mai mai mai
"il pilota italiano"
sempre preferiscono
"il pilota pesarese= valentino rossi"
"il pilota romano= max biaggi"
anche quando si chiamano le case
hanno scritto
casa di noale cioe’ aprilia
si chiama borgo san panigale cioe’ ducati
quindi bimota si chiama casa riminese
questa piccola casa si trova al quartiere industiare
solo una volta ci sono andato vedere loro fabbrica
dove si sono solo 50 persone lavoravano
questa casa cominciava la grande sfida nel mondiale superbike
col pilota australiano che si chiama anthony gobert
quello periodo tante gigante pertecipavano al campionato
mondiale con bravissimi piloti
le case giapponesi erano honda yamaha suzuki e kawasaki
gli italiani ducati ed aprilia c’erano con la forma
ufficiale
la casa riminese lavorava tanto e tanti appaionati delle gare
pensavano che fosse il pilota speciale loro anthony
gobert pero’ non andava bene e le risulta’ erano povero
ai primi round
non potevano vedere belle pronostiche pero’ arrivava
la gara in australia dove girava tanto anthony
girava al campionato australiano prima di arrivare al campionato
mondiale
anthony aveva gia capito tutte parte della questa pista
solamente questa sua esperienza era la cosa positiva
perche’ mancava velocita’ massimo e competitivita’ della
loro moto
nessuno non pensava mai di scommettere su anthony con la sua
bimota e tutti appasionati delle gare credeva che
avrebbe vinto il pilota delle altre casa giapponese
oppure quella italiana
pero’ il dio del motociclismo preparava il sogno per
una casa e il pilota e anche portava il incubo per non
vincitore
cominciava piovere e condizione della pista era difficilissimo
e tutti piloti e gli ingeniere credeva di
giusto set up di moto e il pneumatico
era difficile da decidere tutti materiali per tutti uomini
e arrivava il tempo della gara
tempo difficile buttava via la grande differenza fra anthony
gobert con la sua bimota e tutti altri piloti su altre moto
il pilota australiano girava benissimo e tutti altri
non poteva essere i protagonista dietro di anthony
il cielo piangeva anthony ha sorriso
e tutti altri non poteva guidare la moto come lui faceva
con bimota tanti appasionati vedevano il super giro di anthony
davanti ai giganti honda yamaha suzuki kawasaki
ducati ed aprilia c’era solamente la casa riminese
il marchio che hanno solo 50 persone aveva prodotto
la moto che girava il piu’ veloce’
ha sucesso la grande vittoria della piccola casa
la casa riminese ha preso tutto io ho preso
il lambrusco e la piadina con la felicita’
io ero romagnolo sentivo zeppo di felicita
e grande appaionata di moto e cinema
e potevo vedere il capolavoro della moto di rimini
dove fu nato il federico fellini
sulla pista di philippe island
ci furono "la strada" "la dolce vita" e dopo la gara
ci fu "l’intervista"
ancora non posso dimenticare il capolavoro di casa di rimini
dove fu nato il grande federico fellini
il pilota australiano con la moto riminese
mi faceva sentire la bellissima colaborazione come
il fellini con la musica di nino rota
questo anno le gare di sbk e’ molto interessante e
sento tanto il grande divertimento gli ultimi anni credevo
che fosse meglio pero’ mi sembrava che fosse quasi mono
marca ducati pero’ da qatar cominciava vincere la suzuki
con ex campione del mondo troy corser e il nuovo pilota
giapponese yukio kagayama
poi ritornano le case giapponesi honda yamaha suzuki e
kawasaki poi ci sono tanti piloti che salgono sul moto
ufficiale
per questo mi facevano ricordare superbike mondiale come
negli anni 90 c’erano gradi gare dalla prima tappa
fino all’ultimo
fino al round di misano adreatico ci sono tanti vincitori
corser kagayama corona alstare suzuki su suzuki 1000gsxk5
laconi toseland ducati fila su ducati 999
vermulen winston tenkate honda su honda cbr1000
poi un kawasakista walker ancora non vince pero’ lui
andava bene con kawasaki ninja
belle gare con i tanti protagonista
mi fanno sentire bene
pero’ io sento tantissimo la grande mancanza
negli anni 90 la yamaha r7 era molto competitiva
il pilota giapponese faceva belle gare
tanti appasionati a cui piaceva tipo foto copy
dopo aver comprato loro 750 della iwata
poi compravano replica di pilota che viene da nagoya
possiamo vedere belle gare ai tanti posti del mondo
e siamo contenti delle gare nel 2005
pero’ manca qualcosa
cioe’ manca velocita’ dell’yamaha 1000 e talento di haga
prima di primo appuntamento a qatar mentre vedevo il
test in spagna e qatar credevo che fosse competitiva
le moto della yamaha infatti cordoso abe gimbert
ed anche pitt ed haga su r1
invece ancora manca la vittoria dei piloti della yamaha
al circuit ai tanti posti del mondo davanti alla televisione
davanti al computar sentiamo tanto questa mancanza
le gare di sbk nel 2005 credo che sia meglio del quello
di 2004 pero’ penso che non sia migliore
mi sembrano che siano i film di fellini senza la musica di
nino lota
avrei impressione che siano i cinema di kurosawa senza il
telecamera di kazuo miyagawa
quando ritorna al gruppo di vincitori il pilota di nagoya
penso che sara il film di fellini con la musica di
nino lota
credo che sara il cinema di kurosawa con la telecamera
di kazuo miyagawa
il mondo di superbike mondiale manca la vittoria di noriyuki haga
la gara di superbike bisogna la velocita’ di pilota di nagoya
tanti appasionati delle gare voleva la velocita’ del suo
yamaha r1
non solo i giapponesi e neanche non solo romagnolo giapponese tanti appasionati del mondo sentono
tanto e sperano che ritorna lui con qualche roba speciale
e suo agonismo
sento tanto il grande divertimento gli ultimi anni credevo
che fosse meglio pero’ mi sembrava che fosse quasi mono
marca ducati pero’ da qatar cominciava vincere la suzuki
con ex campione del mondo troy corser e il nuovo pilota
giapponese yukio kagayama
poi ritornano le case giapponesi honda yamaha suzuki e
kawasaki poi ci sono tanti piloti che salgono sul moto
ufficiale
per questo mi facevano ricordare superbike mondiale come
negli anni 90 c’erano gradi gare dalla prima tappa
fino all’ultimo
fino al round di misano adreatico ci sono tanti vincitori
corser kagayama corona alstare suzuki su suzuki 1000gsxk5
laconi toseland ducati fila su ducati 999
vermulen winston tenkate honda su honda cbr1000
poi un kawasakista walker ancora non vince pero’ lui
andava bene con kawasaki ninja
belle gare con i tanti protagonista
mi fanno sentire bene
pero’ io sento tantissimo la grande mancanza
negli anni 90 la yamaha r7 era molto competitiva
il pilota giapponese faceva belle gare
tanti appasionati a cui piaceva tipo foto copy
dopo aver comprato loro 750 della iwata
poi compravano replica di pilota che viene da nagoya
possiamo vedere belle gare ai tanti posti del mondo
e siamo contenti delle gare nel 2005
pero’ manca qualcosa
cioe’ manca velocita’ dell’yamaha 1000 e talento di haga
prima di primo appuntamento a qatar mentre vedevo il
test in spagna e qatar credevo che fosse competitiva
le moto della yamaha infatti cordoso abe gimbert
ed anche pitt ed haga su r1
invece ancora manca la vittoria dei piloti della yamaha
al circuit ai tanti posti del mondo davanti alla televisione
davanti al computar sentiamo tanto questa mancanza
le gare di sbk nel 2005 credo che sia meglio del quello
di 2004 pero’ penso che non sia migliore
mi sembrano che siano i film di fellini senza la musica di
nino lota
avrei impressione che siano i cinema di kurosawa senza il
telecamera di kazuo miyagawa
quando ritorna al gruppo di vincitori il pilota di nagoya
penso che sara il film di fellini con la musica di
nino lota
credo che sara il cinema di kurosawa con la telecamera
di kazuo miyagawa
il mondo di superbike mondiale manca la vittoria di noriyuki haga
la gara di superbike bisogna la velocita’ di pilota di nagoya
tanti appasionati delle gare voleva la velocita’ del suo
yamaha r1
non solo i giapponesi e neanche non solo romagnolo giapponese tanti appasionati del mondo sentono
tanto e sperano che ritorna lui con qualche roba speciale
e suo agonismo
林由美香の死に触れて
2005年7月1日 映画映画好きの女性にはほとんど知られていない、そして
映画好きの男性にもほとんど知られていない、そして
90年台にアダルトビデオを見ていた人は知っていて、
衰退が続くピンク映画の世界では関係者、ファンにとても
愛されていた林由美香さんがお亡くなりになりました。
突然の訃報に言葉を失いました。まだ三十五歳だったそうです。
私にとって林由美香という女優はスクリーンの人でした。
彼女が世の中に出てきたアダルトビデオという分野では
私の好みとは違い、彼女の作品に触れることはほとんど
なかったのですが、彼女がアダルトビデオの世界の中で
異色作とされ、当時不倫関係にあった平野勝之監督と
自転車で北海道旅行する『わくわく不倫旅行』(劇場公開
された時のタイトルは『由美香』)という私小説が作品化
されたような映像に出ていたときの印象。そして、彼女が
時代に取り残されたようなメディアであるピンク映画という
分野でずっと作品に出続けていたこと、その中で予算や
製作日数、人やものに非常に枷というか、縛りというか、
厳しさがある世界の中で貴重な役割や難しい役をやって
いたことなどが印象に残っています。
なぜ彼女はこのピンク映画という世界に居続けたのだろうか。
70年台から80年台半ばまではいわゆる成人映画というのが
メジャーな映画会社がやれないことを性を描くという決まりごと
を守ることで作ることができ、そこで経験を積み、感性を
磨くことができた映画監督や脚本家、撮影スタッフなどが
にっかつロマンポルノというフィールドというセリエBというか
メジャーリーグに上がる前の3Aのような役割を果たし、
他の映画会社やテレビの世界に行くことができた(多くでは
ないが、少なくもない。この日本の映画の成人から一般という
ルートの特殊性は世界でもまれなものであり、我々が森田
や周防といった監督の作品の中で美しいロケ撮影の実に
素晴らしい映像を目にできるのは彼らが少ない予算でスタジオ
が使えずにロケで女性や時に男性を美しく撮ることを経験
してきたからだ)
しかし、アダルトビデオという個人が女性の裸を好きな時に
リモコンを片手に好きな場面を見る様式で見ることができる
ようになってにっかつは倒産に向かい、多くの成人向け映画館
は閉鎖、閉館となり、バブル期においてはかつての小屋は
大きく姿を変えていった。
そして、今日においてはDVDでより好きなシーンの検索が
楽になり、またネット配信などが進んでいる中で裸をめぐる
環境が大きく動いている中で、テレビの画面やPCのディスプレイ
でなく、映画館、それも成人向けというのは難しい環境にある。
そんな観客数も外的要因も厳しい中で彼女はアダルトビデオ
出身でありながら、いわゆるポルノ映画に出演し続けた。
ビデオカセットの人ではなく、スクリーンに人であり続けた
のが彼女だった。
一度会ってみて話をしてみたかった人が女優
林由美香でした。
映画に対する愛情なのか、それとも表現者として業界内で
人気があったからなのか、それとも何か他の理由があったから
なのかわかりませんが、彼女はピンク映画というフィールドに
居続けました。そして決して日本の映像文化のメインストリーム
に出てくることはなかったのですが、女優として生き続け
ました。
女流ピンク映画監督による吉行由美による新作が彼女にとって
の遺作となってしまいましたが、一部の映画ファン、ピンク
映画ファンに絶賛された『たまゆら』という作品を見たく
なった私です。(この作品の詳細は以下で)
http://www.argopictures.jp/lineup/tamamono.html
http://www.movienet.co.jp/movie/opus01/tamamono/
心からご冥福を祈ります。
映画好きの男性にもほとんど知られていない、そして
90年台にアダルトビデオを見ていた人は知っていて、
衰退が続くピンク映画の世界では関係者、ファンにとても
愛されていた林由美香さんがお亡くなりになりました。
突然の訃報に言葉を失いました。まだ三十五歳だったそうです。
私にとって林由美香という女優はスクリーンの人でした。
彼女が世の中に出てきたアダルトビデオという分野では
私の好みとは違い、彼女の作品に触れることはほとんど
なかったのですが、彼女がアダルトビデオの世界の中で
異色作とされ、当時不倫関係にあった平野勝之監督と
自転車で北海道旅行する『わくわく不倫旅行』(劇場公開
された時のタイトルは『由美香』)という私小説が作品化
されたような映像に出ていたときの印象。そして、彼女が
時代に取り残されたようなメディアであるピンク映画という
分野でずっと作品に出続けていたこと、その中で予算や
製作日数、人やものに非常に枷というか、縛りというか、
厳しさがある世界の中で貴重な役割や難しい役をやって
いたことなどが印象に残っています。
なぜ彼女はこのピンク映画という世界に居続けたのだろうか。
70年台から80年台半ばまではいわゆる成人映画というのが
メジャーな映画会社がやれないことを性を描くという決まりごと
を守ることで作ることができ、そこで経験を積み、感性を
磨くことができた映画監督や脚本家、撮影スタッフなどが
にっかつロマンポルノというフィールドというセリエBというか
メジャーリーグに上がる前の3Aのような役割を果たし、
他の映画会社やテレビの世界に行くことができた(多くでは
ないが、少なくもない。この日本の映画の成人から一般という
ルートの特殊性は世界でもまれなものであり、我々が森田
や周防といった監督の作品の中で美しいロケ撮影の実に
素晴らしい映像を目にできるのは彼らが少ない予算でスタジオ
が使えずにロケで女性や時に男性を美しく撮ることを経験
してきたからだ)
しかし、アダルトビデオという個人が女性の裸を好きな時に
リモコンを片手に好きな場面を見る様式で見ることができる
ようになってにっかつは倒産に向かい、多くの成人向け映画館
は閉鎖、閉館となり、バブル期においてはかつての小屋は
大きく姿を変えていった。
そして、今日においてはDVDでより好きなシーンの検索が
楽になり、またネット配信などが進んでいる中で裸をめぐる
環境が大きく動いている中で、テレビの画面やPCのディスプレイ
でなく、映画館、それも成人向けというのは難しい環境にある。
そんな観客数も外的要因も厳しい中で彼女はアダルトビデオ
出身でありながら、いわゆるポルノ映画に出演し続けた。
ビデオカセットの人ではなく、スクリーンに人であり続けた
のが彼女だった。
一度会ってみて話をしてみたかった人が女優
林由美香でした。
映画に対する愛情なのか、それとも表現者として業界内で
人気があったからなのか、それとも何か他の理由があったから
なのかわかりませんが、彼女はピンク映画というフィールドに
居続けました。そして決して日本の映像文化のメインストリーム
に出てくることはなかったのですが、女優として生き続け
ました。
女流ピンク映画監督による吉行由美による新作が彼女にとって
の遺作となってしまいましたが、一部の映画ファン、ピンク
映画ファンに絶賛された『たまゆら』という作品を見たく
なった私です。(この作品の詳細は以下で)
http://www.argopictures.jp/lineup/tamamono.html
http://www.movienet.co.jp/movie/opus01/tamamono/
心からご冥福を祈ります。
電車男はあのキャスティングだから良かったのか
2005年6月30日 映画映画版の電車男を見てきました。主演が山田孝之と
中谷美紀。この二人が実にリアリティがありましたね。
そこで思ったのが、かつての『逆噴射家族』でのキレて
しまうお父さん役の小林克也さんのこと。克也さんという
のはラジオのイメージとテレビ朝日系列のベストヒット
usaでの印象が強かっただけにすごく、あの映画でのキレた
親父の役というのはものすごく強烈なものがありました。
あの作品以来、しばらくの間克也さんに同じような役の
オファーが続いたようです。それに対して、それをある時は
受けて、ある時は断っていたようですが、作り手やお客が
求めるものと本人がやりたいことの間にギャップが存在した
ようです。
最近で言えば小沢真珠に対してバラエティに出演していても
東海テレビ製作の昼のドラマの時のようなセリフを言うように
頼まれてしまい、本人も応えていますが、何だか色々な可能性
を秘めている女優さんなのに(私は彼女はコメディアンヌ
の才能があると思う。)『この役立たずの豚。』とか
『あのイノシシ野郎』というフレーズばかり言わされていて
もったいない気がしてしまいます。
電車男の中における山田孝之というのは実にいい演技をして
いたと思うのですが、ひょっとしたら、この当たり役を
目にした映画やテレビの業界関係者が同じような役ばかり
求めていってしまうのではないか。仕事の選択の幅がせば
まってしまうのではないのかなという気がしましたね。
私などは岡本信人さんや石黒賢さんに悪役をさせてみたい
とか、八名信夫さんに気のいい親父の役をやってもらいたい
などと考えたりするのですが、岡本さんにはまじめだが
気の弱いサラリーマン、石黒さんは真面目でさわやかな好青年、
八名さんはマフィアの役ばかりやっている印象が強く、
はまり役である一方、違ったカラーが出せるチャンスが
ないような気がします。
電車男での山田孝之と中谷美紀は確かによかったし、あの
二人だから、いい作品に仕上がり、リアリティとファンタジー
が混在したいびつさと素直さが混在した恋愛映画になった
と思うのですが、他の役者さんがやるとどうなったのかな
という感想も有している私です。
中谷美紀。この二人が実にリアリティがありましたね。
そこで思ったのが、かつての『逆噴射家族』でのキレて
しまうお父さん役の小林克也さんのこと。克也さんという
のはラジオのイメージとテレビ朝日系列のベストヒット
usaでの印象が強かっただけにすごく、あの映画でのキレた
親父の役というのはものすごく強烈なものがありました。
あの作品以来、しばらくの間克也さんに同じような役の
オファーが続いたようです。それに対して、それをある時は
受けて、ある時は断っていたようですが、作り手やお客が
求めるものと本人がやりたいことの間にギャップが存在した
ようです。
最近で言えば小沢真珠に対してバラエティに出演していても
東海テレビ製作の昼のドラマの時のようなセリフを言うように
頼まれてしまい、本人も応えていますが、何だか色々な可能性
を秘めている女優さんなのに(私は彼女はコメディアンヌ
の才能があると思う。)『この役立たずの豚。』とか
『あのイノシシ野郎』というフレーズばかり言わされていて
もったいない気がしてしまいます。
電車男の中における山田孝之というのは実にいい演技をして
いたと思うのですが、ひょっとしたら、この当たり役を
目にした映画やテレビの業界関係者が同じような役ばかり
求めていってしまうのではないか。仕事の選択の幅がせば
まってしまうのではないのかなという気がしましたね。
私などは岡本信人さんや石黒賢さんに悪役をさせてみたい
とか、八名信夫さんに気のいい親父の役をやってもらいたい
などと考えたりするのですが、岡本さんにはまじめだが
気の弱いサラリーマン、石黒さんは真面目でさわやかな好青年、
八名さんはマフィアの役ばかりやっている印象が強く、
はまり役である一方、違ったカラーが出せるチャンスが
ないような気がします。
電車男での山田孝之と中谷美紀は確かによかったし、あの
二人だから、いい作品に仕上がり、リアリティとファンタジー
が混在したいびつさと素直さが混在した恋愛映画になった
と思うのですが、他の役者さんがやるとどうなったのかな
という感想も有している私です。
ファビアン・フォレの反撃はなるのか
2005年6月28日 スポーツイタリアのチームで働いたり、仕事をした人にとって
イタリアでのレースというのは特別なものであるのは
間違いありません。私もこのことは痛いほど幸福と不幸せを
感じたことがありました。そんなイタリアのリミニ郊外の
ミザノアドレアティコで行われたスーパーバイク世界選手権
のサンマリノラウンドで久しぶりにいい結果を残したのが
チームメガバイクでCBRを駆って参戦しているファビアン・
フォレでした。今回は彼について考えてみました。
かつてダヴィデ・ブレガがライダーとして走っていたときの
こと。現在はチームライトスピードカワサキのチームマネー
ジャーである彼がスーパースポート世界選手権を二年だけ
走っていた時期がありました。その時にレッジョエミリア
から30分ほどバスで行った町の彼のオフィスで話していた
時に私が『今スーパースポートクラスで一緒に走ってみて
速いと思えるのは誰だ』と質問したところ、返ってきた答え
がフォレの名前でした。まぁ、一緒に走っているライダーと
いうのはあまりライバルのことをよく言わないというか
言いたくないのですが、素直に彼の名前が出てきたのに少々
驚いた覚えがあります。
私も彼の才能は成績から考えて当然だろうなと思ったのですが、
彼のナチュラルな速さを理解したのは彼がカワサキで
走って勝ったミザノアドレアティコでの時でした。
その前の年に彼はテンカーテホンダ、ピレリタイヤという
パッケージングで藤原を破り世界王者になったのですが、
その翌年、いいオファーを受けてカワサキ陣営に移りました。
ホンダCBR&ピレリからカワサキニンジャ&ダンロップという
チェンジで新しい冒険になったのですが、同じパッケージ
で走った他のカワサキスタは中団グループでバトルするのが
やっとという状況の中、彼はコンスタントに他のカワサキ
ユーザーより速く、そしてミザノアドレアティコでは優勝を
さらっていきました。
この時に速いライダーは何に乗らせても速いし、ポジティブ
な条件がそろえば、マシン的にパッケージ的に苦しくとも
ライダーの腕で勝つことができるということをまるで
ベネトン時代のシューマッハーが強い強いウィリアムズ
ルノーのドライバーを打ちのめしたように見せてくれました。
めぐり合わせが悪かったり、バッドラックと出くわしたりと
苦しいシーズンを送っていた彼ですが、このフランス人は
カワサキでもヤマハでも腕がさび付くことはなく、速さと
確実さを有しているライダーです。今回のミザノアドレアティコ
での二位で何かをつかんで今季三番目のこのカテゴリーの
ウィナーになり、タイトル戦線をかき回してほしいと
思っています。
イタリアでのレースというのは特別なものであるのは
間違いありません。私もこのことは痛いほど幸福と不幸せを
感じたことがありました。そんなイタリアのリミニ郊外の
ミザノアドレアティコで行われたスーパーバイク世界選手権
のサンマリノラウンドで久しぶりにいい結果を残したのが
チームメガバイクでCBRを駆って参戦しているファビアン・
フォレでした。今回は彼について考えてみました。
かつてダヴィデ・ブレガがライダーとして走っていたときの
こと。現在はチームライトスピードカワサキのチームマネー
ジャーである彼がスーパースポート世界選手権を二年だけ
走っていた時期がありました。その時にレッジョエミリア
から30分ほどバスで行った町の彼のオフィスで話していた
時に私が『今スーパースポートクラスで一緒に走ってみて
速いと思えるのは誰だ』と質問したところ、返ってきた答え
がフォレの名前でした。まぁ、一緒に走っているライダーと
いうのはあまりライバルのことをよく言わないというか
言いたくないのですが、素直に彼の名前が出てきたのに少々
驚いた覚えがあります。
私も彼の才能は成績から考えて当然だろうなと思ったのですが、
彼のナチュラルな速さを理解したのは彼がカワサキで
走って勝ったミザノアドレアティコでの時でした。
その前の年に彼はテンカーテホンダ、ピレリタイヤという
パッケージングで藤原を破り世界王者になったのですが、
その翌年、いいオファーを受けてカワサキ陣営に移りました。
ホンダCBR&ピレリからカワサキニンジャ&ダンロップという
チェンジで新しい冒険になったのですが、同じパッケージ
で走った他のカワサキスタは中団グループでバトルするのが
やっとという状況の中、彼はコンスタントに他のカワサキ
ユーザーより速く、そしてミザノアドレアティコでは優勝を
さらっていきました。
この時に速いライダーは何に乗らせても速いし、ポジティブ
な条件がそろえば、マシン的にパッケージ的に苦しくとも
ライダーの腕で勝つことができるということをまるで
ベネトン時代のシューマッハーが強い強いウィリアムズ
ルノーのドライバーを打ちのめしたように見せてくれました。
めぐり合わせが悪かったり、バッドラックと出くわしたりと
苦しいシーズンを送っていた彼ですが、このフランス人は
カワサキでもヤマハでも腕がさび付くことはなく、速さと
確実さを有しているライダーです。今回のミザノアドレアティコ
での二位で何かをつかんで今季三番目のこのカテゴリーの
ウィナーになり、タイトル戦線をかき回してほしいと
思っています。
スーパーバイクに足りないもの
2005年6月27日 スポーツ今年のSBKのシーズンというのはコーサーの素晴らしい立ち上がり
から始まり、ラコニとドゥカティの反撃の中盤戦を迎えています。
実にエキサイティングでファンタスティックなシーズンであり、
選手権だと思うのですが、何かが欠けている気がします。
私が現場で、ネットで内側から、外側から今季のレースを
見ていて思うこと。それは芳賀紀行という最もエキサイティング
でホットなライダー。堅実さが特徴の名古屋で生まれて育ち
ながらスリリングな走りを見せてくれる彼が実力を100%
出しているレース、気力も体力も出し切って誰よりも早く
チェッカーフラッグを受けるレース、上位集団でライバルたち
とこれぞバトルだと叫ぶことができる戦闘、他のライダーや
メカニックがあきらめてしまうような強さと速さというもの
が今まで見られることなく今に至っています。
コーサー、ラコニ、ヴァーミューレン、トーズランド、加賀山
の五人が今季のSBKで勝利を奪っていますが、そこに芳賀の
名前がないのはある種の欠落感を感じてしまいます。
何かニーノ・ロータの音楽のないフェデリコ・フェッリーニ
の映画や宮川一夫のカメラのない黒澤明のようなもので
悪くはないがスペシャルでない映像作品のようです。
フェッリーニの映画にニーノ・ロータの甘みと美しさの
ある音楽が必要だったように、黒澤の傑作に宮川の丁寧で
奥行きのあるカメラが不可欠だったようにSBKのシーズンに
は芳賀のエキサイティングでファンタスティックな走りが
必要不可欠です。
何が足りないのか、何が欠けてるのか、何をすべきなのか、
ヤマハ、チーム、メカニック、各種サプライヤー、スタッフの
皆さんは必死になって考え動いていると思います。
そんな努力が実を結んでほしいと思っている私です。
私にとっても世界中のレースファンにとっても最もファンキー
な名古屋人のファンタスティックな走りと勝利が今季の
SBKにおいておおいに欠落しています。彼がトップグループ
でコーサーやラコニ、加賀山、ヴァーミューレンと競り合
う時、SBKのレースはニーノ・ロータの音楽のあるフェッリー
ニの映画、宮川一夫のカメラのある黒澤の作品になりえるこ
とでしょう。
から始まり、ラコニとドゥカティの反撃の中盤戦を迎えています。
実にエキサイティングでファンタスティックなシーズンであり、
選手権だと思うのですが、何かが欠けている気がします。
私が現場で、ネットで内側から、外側から今季のレースを
見ていて思うこと。それは芳賀紀行という最もエキサイティング
でホットなライダー。堅実さが特徴の名古屋で生まれて育ち
ながらスリリングな走りを見せてくれる彼が実力を100%
出しているレース、気力も体力も出し切って誰よりも早く
チェッカーフラッグを受けるレース、上位集団でライバルたち
とこれぞバトルだと叫ぶことができる戦闘、他のライダーや
メカニックがあきらめてしまうような強さと速さというもの
が今まで見られることなく今に至っています。
コーサー、ラコニ、ヴァーミューレン、トーズランド、加賀山
の五人が今季のSBKで勝利を奪っていますが、そこに芳賀の
名前がないのはある種の欠落感を感じてしまいます。
何かニーノ・ロータの音楽のないフェデリコ・フェッリーニ
の映画や宮川一夫のカメラのない黒澤明のようなもので
悪くはないがスペシャルでない映像作品のようです。
フェッリーニの映画にニーノ・ロータの甘みと美しさの
ある音楽が必要だったように、黒澤の傑作に宮川の丁寧で
奥行きのあるカメラが不可欠だったようにSBKのシーズンに
は芳賀のエキサイティングでファンタスティックな走りが
必要不可欠です。
何が足りないのか、何が欠けてるのか、何をすべきなのか、
ヤマハ、チーム、メカニック、各種サプライヤー、スタッフの
皆さんは必死になって考え動いていると思います。
そんな努力が実を結んでほしいと思っている私です。
私にとっても世界中のレースファンにとっても最もファンキー
な名古屋人のファンタスティックな走りと勝利が今季の
SBKにおいておおいに欠落しています。彼がトップグループ
でコーサーやラコニ、加賀山、ヴァーミューレンと競り合
う時、SBKのレースはニーノ・ロータの音楽のあるフェッリー
ニの映画、宮川一夫のカメラのある黒澤の作品になりえるこ
とでしょう。
SBKサンマリノラウンドSBKレース1&2
2005年6月27日 スポーツSBKのミザノアドレアーティコで行われたサンマリノラウンドが
終わりました。第一レースがニヒート制になったのですが、
これがラコニ、ヴァーミューレン、コーサーという表彰台のメンバー
で終わりました。
第二レースというのは何もトラブルなく、終わりましたが、これも
第一レースと同じメンバーでの表彰台となりました。
ということでこの名前こそサンマリノですが、イタリアで行われた
非常に重要なレースをレジス・ラコニはダブルウィンで終えました。
開幕戦のカタール、オーストラリア、スペインと三大会、六レース
を終えた時にはトロイ・コーサーとスズキというパッケージは
アンビータブルな存在でしたが、モンツァ以降コーサー&スズキと
ラコニ&ドゥカティの差というのは明らかに少なくなってきて
います。
ラコニのことは私は95年の鈴鹿から知っていますが、非常に
アグレッシブな走りと速く走りたいという強い欲望を持った
ファイターだと理解しています。その彼が恐ろしいまでの集中力と
研ぎ澄まされた神経でモンツァの第二レースでコーサーを抑えこみ、
トップを走行し、何が何でもコーサーに先行させない走りと
マシンのいいところを100%引き出しオーストラリア人の先行
逃げ切りを阻み、タイヤのライフが終わるまでトップを快走し、
打倒コーサーに名乗りを上げたあのモンツァでのレースから
何かが大きく変わりました。
シルバーストーンでの第一レースの優勝。そして、このミザノ
アドレアーティコというドゥカティというメーカーにとって重要な
レースでのダブルウィンというのは今年のSBKシーズンの前半での
見なれた序列をぶち破り、新しい波を作り出すことでしょう。
シーズンはまだ終わっていません。そして、絶対というのは
レースの世界では有り得ません。あきらめが悪く、シビアな状況
でもその中で出来うる限りの最良のタイムや順位を得ようとする
フランス人は世界チャンピオンにふさわしい速さと精神性を有して
いると思います。追いかけるラコニ、そして追われるコーサー、
この二人にホンダのリッターバイクを用いて攻撃の手を休めること
なく戦いを挑むヴァーミューレンの激しくファンタスティックな
シーズンはどんなラストシーンをクリエイトするのか、何が
生まれ、何が壊れるのか胸一杯の思いを抱きながら見ていきたい
と思っています。
終わりました。第一レースがニヒート制になったのですが、
これがラコニ、ヴァーミューレン、コーサーという表彰台のメンバー
で終わりました。
第二レースというのは何もトラブルなく、終わりましたが、これも
第一レースと同じメンバーでの表彰台となりました。
ということでこの名前こそサンマリノですが、イタリアで行われた
非常に重要なレースをレジス・ラコニはダブルウィンで終えました。
開幕戦のカタール、オーストラリア、スペインと三大会、六レース
を終えた時にはトロイ・コーサーとスズキというパッケージは
アンビータブルな存在でしたが、モンツァ以降コーサー&スズキと
ラコニ&ドゥカティの差というのは明らかに少なくなってきて
います。
ラコニのことは私は95年の鈴鹿から知っていますが、非常に
アグレッシブな走りと速く走りたいという強い欲望を持った
ファイターだと理解しています。その彼が恐ろしいまでの集中力と
研ぎ澄まされた神経でモンツァの第二レースでコーサーを抑えこみ、
トップを走行し、何が何でもコーサーに先行させない走りと
マシンのいいところを100%引き出しオーストラリア人の先行
逃げ切りを阻み、タイヤのライフが終わるまでトップを快走し、
打倒コーサーに名乗りを上げたあのモンツァでのレースから
何かが大きく変わりました。
シルバーストーンでの第一レースの優勝。そして、このミザノ
アドレアーティコというドゥカティというメーカーにとって重要な
レースでのダブルウィンというのは今年のSBKシーズンの前半での
見なれた序列をぶち破り、新しい波を作り出すことでしょう。
シーズンはまだ終わっていません。そして、絶対というのは
レースの世界では有り得ません。あきらめが悪く、シビアな状況
でもその中で出来うる限りの最良のタイムや順位を得ようとする
フランス人は世界チャンピオンにふさわしい速さと精神性を有して
いると思います。追いかけるラコニ、そして追われるコーサー、
この二人にホンダのリッターバイクを用いて攻撃の手を休めること
なく戦いを挑むヴァーミューレンの激しくファンタスティックな
シーズンはどんなラストシーンをクリエイトするのか、何が
生まれ、何が壊れるのか胸一杯の思いを抱きながら見ていきたい
と思っています。
SBKサンマリノラウンドSSまたしてもシャーペンティエ
2005年6月26日 スポーツホンダ勢の強さに迫る走りを予選で見せてくれた
ヤマハ、ドゥカティといった今季今までひとつの勝利も
得ていないメーカーとチーム、ライダーがどんな戦いを
見せてくれるのか気になったレースでしたが、またしても
シャーペンティエが勝利を得ました。まぁ、強いなぁという
言葉が率直に出てきますね。
二位を得たのは藤原ではなくてメガバイクホンダのフォレ
でした。今年あまりいいことがなかった彼ですが、今回の
彼は予選からも調子がよくて、決勝でも前半はトップを走行
するレース展開。シャーペンティエに抜かれても、必死に
食らいついてチャンスを狙った彼でしたがシャーペンティエ
に襲い掛かることができずに僅差の二位となりました。
三位が藤原。先のことを考えると二位ではなくて三位だった
ことが響くかもしれません。
四位、五位がヤマハジャーマニーの二人、カーテン、パークス
と続き、地元でワイルドカード参戦のサンナが六位と健闘。
スズキのフォレス、カワサキのアントネッロ、ミッリョラー
ティ、ラウスレートと続いてここまでがトップ10でした。
初日のヒーローに、次世代のイタリア人はどうなったのかと
気になっていたのですが、ナンネッリ、ファブリッツィオ
に二人はレース開始すぐにヘルメットを脱ぎました。
ナンネッリはクラッシュだったようです。
シャーペンティエの強さとようやく輝きを取り戻した
フォレの健闘が光ったレースでした。フォレに対する私の
評価に関しては時を改めて書こうと思っています。
ヤマハ、ドゥカティといった今季今までひとつの勝利も
得ていないメーカーとチーム、ライダーがどんな戦いを
見せてくれるのか気になったレースでしたが、またしても
シャーペンティエが勝利を得ました。まぁ、強いなぁという
言葉が率直に出てきますね。
二位を得たのは藤原ではなくてメガバイクホンダのフォレ
でした。今年あまりいいことがなかった彼ですが、今回の
彼は予選からも調子がよくて、決勝でも前半はトップを走行
するレース展開。シャーペンティエに抜かれても、必死に
食らいついてチャンスを狙った彼でしたがシャーペンティエ
に襲い掛かることができずに僅差の二位となりました。
三位が藤原。先のことを考えると二位ではなくて三位だった
ことが響くかもしれません。
四位、五位がヤマハジャーマニーの二人、カーテン、パークス
と続き、地元でワイルドカード参戦のサンナが六位と健闘。
スズキのフォレス、カワサキのアントネッロ、ミッリョラー
ティ、ラウスレートと続いてここまでがトップ10でした。
初日のヒーローに、次世代のイタリア人はどうなったのかと
気になっていたのですが、ナンネッリ、ファブリッツィオ
に二人はレース開始すぐにヘルメットを脱ぎました。
ナンネッリはクラッシュだったようです。
シャーペンティエの強さとようやく輝きを取り戻した
フォレの健闘が光ったレースでした。フォレに対する私の
評価に関しては時を改めて書こうと思っています。
SBKサンマリノラウンド STK600
2005年6月26日 スポーツアンダー20で行われているスーパーバイク世界選手権の
併催レースのストック600ですが、すでに結果が出ました。
優勝がヤマハR6を駆るコルティ。二位がCBR600のティベリオ
でした。
つまり、またもやこの二人が表彰台のてっぺんと二番目を
占めました。
このマシンによる差が出にくいカテゴリーのレースで
この二人のタイムや走りは抜きん出ています。三位以降の
ライダーを置き去りにして二人だけがアナザープラネットでの
戦いを今回も演じました。
今年のこのクラスは最終戦までこの二人が主役となり、
どちらかが王者になることは間違いないでしょう。
それほどまでに速さと強さ、そして素晴らしい将来性を
有していると思います。
三年後が楽しみなこの若い二人がどんなレースを見せてくれる
のか楽しみです。
併催レースのストック600ですが、すでに結果が出ました。
優勝がヤマハR6を駆るコルティ。二位がCBR600のティベリオ
でした。
つまり、またもやこの二人が表彰台のてっぺんと二番目を
占めました。
このマシンによる差が出にくいカテゴリーのレースで
この二人のタイムや走りは抜きん出ています。三位以降の
ライダーを置き去りにして二人だけがアナザープラネットでの
戦いを今回も演じました。
今年のこのクラスは最終戦までこの二人が主役となり、
どちらかが王者になることは間違いないでしょう。
それほどまでに速さと強さ、そして素晴らしい将来性を
有していると思います。
三年後が楽しみなこの若い二人がどんなレースを見せてくれる
のか楽しみです。
ピレリ日本法人の社長の事故
2005年6月25日 日常各新聞社、通信社、ポータルサイトでの報道などで
すでにご存知の方もいらっしゃると思いますが、ピレリの
日本法人の社長が交通事故で犠牲になった方が息を引き取り
ました。
色々な意味でショッキングでしたね。様々な部分で大きな
影響が出ると思います。日本という国においてはブリヂストン、
ダンロップ、横浜といった日本メーカーの技術力、販売力、
政治力が強く、また日本の消費者になじみというか、強い
ブランドイメージがあり、同じタイヤメーカーでもピレリ
というのはどうしても日本の各メーカー、そしてグッドイヤー
やミシュランといったメーカーに後方から追いかける立場
であったはずです。
警察発表、活字情報のみで色々なことを表明するのは
危険なので今のところ個人的な感想というのはピレリ
が苦しい立場になったとしか言えません。
実際犠牲者の方が亡くなってしまったこと、日本で陣頭指揮
をしていた人が様々なしばりが出てくることというのは悪い
流れが出てくるのは確実です。ピレリというブランドに対して
いいイメージがあるだけにとても残念なニュースです。
すでにご存知の方もいらっしゃると思いますが、ピレリの
日本法人の社長が交通事故で犠牲になった方が息を引き取り
ました。
色々な意味でショッキングでしたね。様々な部分で大きな
影響が出ると思います。日本という国においてはブリヂストン、
ダンロップ、横浜といった日本メーカーの技術力、販売力、
政治力が強く、また日本の消費者になじみというか、強い
ブランドイメージがあり、同じタイヤメーカーでもピレリ
というのはどうしても日本の各メーカー、そしてグッドイヤー
やミシュランといったメーカーに後方から追いかける立場
であったはずです。
警察発表、活字情報のみで色々なことを表明するのは
危険なので今のところ個人的な感想というのはピレリ
が苦しい立場になったとしか言えません。
実際犠牲者の方が亡くなってしまったこと、日本で陣頭指揮
をしていた人が様々なしばりが出てくることというのは悪い
流れが出てくるのは確実です。ピレリというブランドに対して
いいイメージがあるだけにとても残念なニュースです。
ミザノのフィオレンティーノ
2005年6月24日 スポーツ私の第二のふるさとであるリミニから12キロ先のミザノ
アドレアーティコで始まりましたスーパーバイク世界選手権
のサンマリノラウンド。私は名古屋でお仕事で現場にいません。
これがありきたりのレースウィークだったらともかく、
まっとうじゃないリザルトを目にしています。本当に私の
いる場所はここではなくて、アウトドローモサンタモニカだと
思いますが、やりたいことができないのがつらいです。
SBKの一回目のフリー走行のラコニの好調ぶりとトーズランド
の復調、そして、意外ではあるが当然とも言えるカワサキの
ウォーカー、ブセイの順位。そしてヴィッツィエッロの
頑張り(昨日電話で話しましたけど、元気そうでした)
生で現場で見て、この私がブログで書きたいことや
ライダーに聞いてみたいことが山ほどあります。
一回目の公式予選はコーサーがトップでこれは今季のまっとうな
ありようだと思いますが、彼の背後にはノイキルフナー、ラ
コニ、ムジェリッジ、トーズランド、キリ、加賀山とここまで
一秒以内です。どうなることやら。
SSではコラーディの代打にボンテンピが走ったり、カワサキの
600のアントネッロ、帰って来たイタリア選手権チャンプ
のミッリョラーティの健闘、ワイルドカード参戦のサンナ
とゴイの注目すべきタイムなど色々なトピックがあるのですが
何といっても初日トップタイムを奪ったのがイタリアのレース
でイタリアのドゥカティに乗り、イタリアのチームで戦う
ジャンルカ・ナンネッリがあの強くて速くてアンビータブルな
ウィンストンテンカーテホンダのシャーペンティエと藤原
の二人や世界チャンピオンのフォレ、好調のヤマハジャーマニー
のカーテンとパークスを従えて暫定ポールポジションを
奪っています。
あの一日にSBK二レース、SSを戦い初めて世界選手権でトップ
を走行し、逃げるウィンストンテンカーテの藤原とシャーペン
ティエに迫り、キャリア初の表彰台を決めてモンツァのヒー
ローとなったもう若くはないフィレンツェ人のナンネッリが
ドゥカティで初日トップですよ。私は聞きたいこと、話したい
ことがアメリカの軍事予算なみにあります。そして、ここで発
表したいこともマイク・タイソンの負債額ほどありますが、
残念ながら今の私にできることは限りがあります。
ミザノのフィオレンティーノが彼の頭同様輝く様子を
見たい。そしてそれを私がレポートしたい。リミニなまり
のイタリア語で話しかけて、フィレンツェなまりの言葉で
返す言葉を聞きたい。やりたいことができないこと、
現場にいないこと、私の力不足のこと、私を包み込む環境
や条件といったものが少なくとも今はよくないことを実感
しています。
それにしても楽しみな週末になりそうです。
アドレアーティコで始まりましたスーパーバイク世界選手権
のサンマリノラウンド。私は名古屋でお仕事で現場にいません。
これがありきたりのレースウィークだったらともかく、
まっとうじゃないリザルトを目にしています。本当に私の
いる場所はここではなくて、アウトドローモサンタモニカだと
思いますが、やりたいことができないのがつらいです。
SBKの一回目のフリー走行のラコニの好調ぶりとトーズランド
の復調、そして、意外ではあるが当然とも言えるカワサキの
ウォーカー、ブセイの順位。そしてヴィッツィエッロの
頑張り(昨日電話で話しましたけど、元気そうでした)
生で現場で見て、この私がブログで書きたいことや
ライダーに聞いてみたいことが山ほどあります。
一回目の公式予選はコーサーがトップでこれは今季のまっとうな
ありようだと思いますが、彼の背後にはノイキルフナー、ラ
コニ、ムジェリッジ、トーズランド、キリ、加賀山とここまで
一秒以内です。どうなることやら。
SSではコラーディの代打にボンテンピが走ったり、カワサキの
600のアントネッロ、帰って来たイタリア選手権チャンプ
のミッリョラーティの健闘、ワイルドカード参戦のサンナ
とゴイの注目すべきタイムなど色々なトピックがあるのですが
何といっても初日トップタイムを奪ったのがイタリアのレース
でイタリアのドゥカティに乗り、イタリアのチームで戦う
ジャンルカ・ナンネッリがあの強くて速くてアンビータブルな
ウィンストンテンカーテホンダのシャーペンティエと藤原
の二人や世界チャンピオンのフォレ、好調のヤマハジャーマニー
のカーテンとパークスを従えて暫定ポールポジションを
奪っています。
あの一日にSBK二レース、SSを戦い初めて世界選手権でトップ
を走行し、逃げるウィンストンテンカーテの藤原とシャーペン
ティエに迫り、キャリア初の表彰台を決めてモンツァのヒー
ローとなったもう若くはないフィレンツェ人のナンネッリが
ドゥカティで初日トップですよ。私は聞きたいこと、話したい
ことがアメリカの軍事予算なみにあります。そして、ここで発
表したいこともマイク・タイソンの負債額ほどありますが、
残念ながら今の私にできることは限りがあります。
ミザノのフィオレンティーノが彼の頭同様輝く様子を
見たい。そしてそれを私がレポートしたい。リミニなまり
のイタリア語で話しかけて、フィレンツェなまりの言葉で
返す言葉を聞きたい。やりたいことができないこと、
現場にいないこと、私の力不足のこと、私を包み込む環境
や条件といったものが少なくとも今はよくないことを実感
しています。
それにしても楽しみな週末になりそうです。