冬になると思い出す長野五輪のアイスホッケー
2005年1月27日 スポーツウィンタースポーツは苦手な私が唯一楽しんで見るスポーツが
アイスホッケーです。そして、長野オリンピックでのチェコチーム
のことを思い出します。
チェコ人のライダーやテニスプレイヤーと話していて、自分の
やっているスポーツ以外で好きなスポーツというと、決まって
アイスホッケーとサッカーと言われます。実際、私もプラハで
スパルタプラハ、スラヴィアプラハのゲームを何度も見て、この
国の人は本当にアイスホッケーが好きだなと思いましたし、
小さな町でもアイスアリーナはあって、二部リーグや少年のチーム
があって、プレイしています。やる人口も多く、見る人もたくさん
いるのが、チェコという国でのアイスホッケーの姿です。
そんな国技のアイスホッケーのチェコ代表が長野に乗りこんで、
予選をクリアして、決勝リーグに突入。準々決勝をアメリカと
戦い、ミリオンダラープレイヤー達のチームを相手に3−1で
勝ちあがり、準決勝は優勝候補のカナダ。ファイナルピリオド
残り一分ほどまで2−1でリードしてこのまま行くかに思いきや
ゴールを許し、2−2になり、延長に入り、カナダ有利の
試合展開ながらも良く守り切り、ペナルティショット戦へ。
このスリリングなPS戦を制して、大本命のカナダを破り決勝へ。
そして、決勝はロシア。チェコ人というのは歴史的な経緯から
ドイツ人とロシア人が大嫌いなのですが、そのロシアを相手に
ゴールドメダルを争うことになり、一月のプラハの広場に大型
スクリーンが設置され、時差の関係で朝早いパブリックビューに
なったにも関わらずチェコ人が自国の勝利と金メダル、そして
大嫌いなロシア人の敗北を願い大声援を送りました。
(日本人がアテネ五輪を見ていたときに寝不足になりましたが
チェコ人が長野五輪を見ていたときは早起きになりました。
私に友人のデヴィド・ハヴェルは朝五時起きだったそうです。)
時差八時間ある極東での試合はチェコが先制。しかし、追加点を
奪えず、逆にロシアの攻勢に守備的な展開を強いられる展開と
なりました。
プラハで、ブルノで、オストラバで、ピルゼニュで、そしてチェコ
全土の応援と長野に駆けつけたチェコ人の応援を背に懸命の戦いを
見せたチェコチーム。ロシアの大攻勢はシュート30本を超える
ものとなりましたが、体を張った守備でゴールを許さず、1−0で
チェコが勝利。
この瞬間、長野のチェコ人、そしてプラハの一月の朝というくそが
着くほど寒い中応援していたチェコ人は大爆発しました。
人口一千万ほどの小国が優勝候補のアメリカ、大本命のカナダ、
そして、高く評価されていたロシアをぶち破り世界で一番の国に
なりました。それも大嫌いなロシアを破ってです。
私は当時イタリアにいましたが、できることなら長野かプラハに
いて喜びを分かちあいたかったですね。寒いのが嫌いな私ですが
チェコビールを朝から飲みながらでかいスクリーンでチェコチーム
を応援するのはきっとイタリアでピエール・フランチェスコ・キリ
を声援するようにファンタスティックで、ゴージャスなことでしょう。
毎年一月になると長野五輪のチェコの金メダルを思い出す私です。
(彼らがプラハルズィニェ空港に戻った時に日の丸に闘魂とか
必勝と書いてある鉢巻きをしていましたが、当時のバーツラフ・
ハヴェル大統領の出迎えを受けた時の写真を見たら、その鉢巻き
は逆になっていたなぁ)
アイスホッケーです。そして、長野オリンピックでのチェコチーム
のことを思い出します。
チェコ人のライダーやテニスプレイヤーと話していて、自分の
やっているスポーツ以外で好きなスポーツというと、決まって
アイスホッケーとサッカーと言われます。実際、私もプラハで
スパルタプラハ、スラヴィアプラハのゲームを何度も見て、この
国の人は本当にアイスホッケーが好きだなと思いましたし、
小さな町でもアイスアリーナはあって、二部リーグや少年のチーム
があって、プレイしています。やる人口も多く、見る人もたくさん
いるのが、チェコという国でのアイスホッケーの姿です。
そんな国技のアイスホッケーのチェコ代表が長野に乗りこんで、
予選をクリアして、決勝リーグに突入。準々決勝をアメリカと
戦い、ミリオンダラープレイヤー達のチームを相手に3−1で
勝ちあがり、準決勝は優勝候補のカナダ。ファイナルピリオド
残り一分ほどまで2−1でリードしてこのまま行くかに思いきや
ゴールを許し、2−2になり、延長に入り、カナダ有利の
試合展開ながらも良く守り切り、ペナルティショット戦へ。
このスリリングなPS戦を制して、大本命のカナダを破り決勝へ。
そして、決勝はロシア。チェコ人というのは歴史的な経緯から
ドイツ人とロシア人が大嫌いなのですが、そのロシアを相手に
ゴールドメダルを争うことになり、一月のプラハの広場に大型
スクリーンが設置され、時差の関係で朝早いパブリックビューに
なったにも関わらずチェコ人が自国の勝利と金メダル、そして
大嫌いなロシア人の敗北を願い大声援を送りました。
(日本人がアテネ五輪を見ていたときに寝不足になりましたが
チェコ人が長野五輪を見ていたときは早起きになりました。
私に友人のデヴィド・ハヴェルは朝五時起きだったそうです。)
時差八時間ある極東での試合はチェコが先制。しかし、追加点を
奪えず、逆にロシアの攻勢に守備的な展開を強いられる展開と
なりました。
プラハで、ブルノで、オストラバで、ピルゼニュで、そしてチェコ
全土の応援と長野に駆けつけたチェコ人の応援を背に懸命の戦いを
見せたチェコチーム。ロシアの大攻勢はシュート30本を超える
ものとなりましたが、体を張った守備でゴールを許さず、1−0で
チェコが勝利。
この瞬間、長野のチェコ人、そしてプラハの一月の朝というくそが
着くほど寒い中応援していたチェコ人は大爆発しました。
人口一千万ほどの小国が優勝候補のアメリカ、大本命のカナダ、
そして、高く評価されていたロシアをぶち破り世界で一番の国に
なりました。それも大嫌いなロシアを破ってです。
私は当時イタリアにいましたが、できることなら長野かプラハに
いて喜びを分かちあいたかったですね。寒いのが嫌いな私ですが
チェコビールを朝から飲みながらでかいスクリーンでチェコチーム
を応援するのはきっとイタリアでピエール・フランチェスコ・キリ
を声援するようにファンタスティックで、ゴージャスなことでしょう。
毎年一月になると長野五輪のチェコの金メダルを思い出す私です。
(彼らがプラハルズィニェ空港に戻った時に日の丸に闘魂とか
必勝と書いてある鉢巻きをしていましたが、当時のバーツラフ・
ハヴェル大統領の出迎えを受けた時の写真を見たら、その鉢巻き
は逆になっていたなぁ)
スズキのSBKは勝てるのか
2005年1月26日 スポーツかつてチームアルスタースズキがキリのライディングで
かなり世界タイトルに近づいたことがありました。
その後、しばしの低迷と世界選手権における活動停止を
経て、05年世界選手権に元世界チャンプのトロイ・コーサー
と昨年イギリス選手権を戦っていた加賀山というラインナップで
打倒ドゥカティ、ホンダ、ヤマハ、カワサキに打ってでました。
先週のテストに関する報道から感じたことを今日は書いてみます。
真夏のオーストラリアのフィリップアイランドでのテスト。
05年型のスズキのリッターバイクを駆ったトロイ・コーサー
ですが、タイムと報道を目にして「どえりゃあ速いがや」と
モニターを見て名古屋弁で叫んでしまいました。
そして、日本語で書かれた報道ではほとんど触れていませんが、
イタリアのHPを見ていて納得しましたね。
今季のコーサーはスズキのマシンでグイドッティと組みます。
彼のことを知っていたとしたら、相当コアなレースファンか
芳賀やコーサーのファンだと思います。
このエンジニアというのは彼が97年ステーファノ・ペルジーニ
と共に世界GPの250ccでナストロアッズーロアプリリア
で働いていた時から会えば話をするような仲なのですが、いつだった
か彼は「もし、話があって機会があれば日本のメーカーなりチーム
で働いてみたいなぁ」ということを口にしていました。
ずっとアプリリアのチーム(世界GPの250でペルジーニや
バッタイーニと仕事をしていた後にSBK)で働いていたので
そんなことを考えているとは思っていなかった私にとっては意外な
言葉でした。
その彼は250のチームの後、アプリリアがRSVミッレでSBK
に参戦することになり、ここで実戦と開発の担当となりました。
このヴェネツィアのメーカーがSBK参戦二年目となり迎えた
ライダーがトロイ・コーサーでした。
RSVミッレが強そうで速そうに見えたあの時、コーサーと
グイドッティは組んでいました。
コーサーがかつてのいい時期のコンビネーションを求めて引っ
張ってきたのか、アプリリアのMOTOGPがなくなりグイドッティ
が就職活動して拾われたのか、経験と知識のあるエンジニアを
スズキやアルスターが求めたのかわかりませんが、とにかく
コーサー&グイドッティというコンビが復活しました。
そして、他のメーカーやチーム、ライダーが驚くタイム。
04年型のスズキと05年型はかなり違うというか全く違うという
話が出てきています。同じなのはモデル名や型番ぐらいのようです。
(同じような例は03年型と04年型のヤマハのR1が全然違って
ひどく驚いたということがありましたが、斬新な変化に比例して
戦闘力がかなりアップしたようでした。)
正常発展ではなく、エンジニアやメーカーが速さを求めて、様々な
マテリアルやアイデアを盛りこんで出来たマシンのようで実際
この目で見るのが楽しみです。
またグイドッティはSBKの方が好きだということを話していた
ので(走っていた立場やライダーと共に戦っていた立場とすると
やはり加藤大治郎のようなことが起きた時にレースがストップ
することなく進めて危険な状態のライダーを担架で運んで救急車に
乗せてしまうMOTOGPより、危険を感じたらレースをストップ
して倒れたライダーの所のすぐそばに救急車を走らせて緊急な
医療を施すSBKの方を当然ながら好みますね。)モチベーション
も上がっていることでしょう。
基本性能が高いレベルであれば、コーサー&グイドッティのことです。
トーズランド、ラコニ、芳賀、キリ、ヴァーミューレン、ボストロム
といった世界の列強にぶつかっていけることでしょう。
来月の開幕が楽しみです。
かなり世界タイトルに近づいたことがありました。
その後、しばしの低迷と世界選手権における活動停止を
経て、05年世界選手権に元世界チャンプのトロイ・コーサー
と昨年イギリス選手権を戦っていた加賀山というラインナップで
打倒ドゥカティ、ホンダ、ヤマハ、カワサキに打ってでました。
先週のテストに関する報道から感じたことを今日は書いてみます。
真夏のオーストラリアのフィリップアイランドでのテスト。
05年型のスズキのリッターバイクを駆ったトロイ・コーサー
ですが、タイムと報道を目にして「どえりゃあ速いがや」と
モニターを見て名古屋弁で叫んでしまいました。
そして、日本語で書かれた報道ではほとんど触れていませんが、
イタリアのHPを見ていて納得しましたね。
今季のコーサーはスズキのマシンでグイドッティと組みます。
彼のことを知っていたとしたら、相当コアなレースファンか
芳賀やコーサーのファンだと思います。
このエンジニアというのは彼が97年ステーファノ・ペルジーニ
と共に世界GPの250ccでナストロアッズーロアプリリア
で働いていた時から会えば話をするような仲なのですが、いつだった
か彼は「もし、話があって機会があれば日本のメーカーなりチーム
で働いてみたいなぁ」ということを口にしていました。
ずっとアプリリアのチーム(世界GPの250でペルジーニや
バッタイーニと仕事をしていた後にSBK)で働いていたので
そんなことを考えているとは思っていなかった私にとっては意外な
言葉でした。
その彼は250のチームの後、アプリリアがRSVミッレでSBK
に参戦することになり、ここで実戦と開発の担当となりました。
このヴェネツィアのメーカーがSBK参戦二年目となり迎えた
ライダーがトロイ・コーサーでした。
RSVミッレが強そうで速そうに見えたあの時、コーサーと
グイドッティは組んでいました。
コーサーがかつてのいい時期のコンビネーションを求めて引っ
張ってきたのか、アプリリアのMOTOGPがなくなりグイドッティ
が就職活動して拾われたのか、経験と知識のあるエンジニアを
スズキやアルスターが求めたのかわかりませんが、とにかく
コーサー&グイドッティというコンビが復活しました。
そして、他のメーカーやチーム、ライダーが驚くタイム。
04年型のスズキと05年型はかなり違うというか全く違うという
話が出てきています。同じなのはモデル名や型番ぐらいのようです。
(同じような例は03年型と04年型のヤマハのR1が全然違って
ひどく驚いたということがありましたが、斬新な変化に比例して
戦闘力がかなりアップしたようでした。)
正常発展ではなく、エンジニアやメーカーが速さを求めて、様々な
マテリアルやアイデアを盛りこんで出来たマシンのようで実際
この目で見るのが楽しみです。
またグイドッティはSBKの方が好きだということを話していた
ので(走っていた立場やライダーと共に戦っていた立場とすると
やはり加藤大治郎のようなことが起きた時にレースがストップ
することなく進めて危険な状態のライダーを担架で運んで救急車に
乗せてしまうMOTOGPより、危険を感じたらレースをストップ
して倒れたライダーの所のすぐそばに救急車を走らせて緊急な
医療を施すSBKの方を当然ながら好みますね。)モチベーション
も上がっていることでしょう。
基本性能が高いレベルであれば、コーサー&グイドッティのことです。
トーズランド、ラコニ、芳賀、キリ、ヴァーミューレン、ボストロム
といった世界の列強にぶつかっていけることでしょう。
来月の開幕が楽しみです。
ヤマハフィリップアイランドテスト
2005年1月25日 スポーツ今回は久しぶりにレースの話を。
日本とは季節が逆のオーストラリアのフィリップアイランド
でヤマハのR1を駆る最もファンキーな名古屋人の芳賀と
私はそれほど評価していませんが、業界的には認められて
いて今季ヤマハでSBKフル参戦となったピットがテスト
走行していました。
テストの最中、芳賀はライディングする上でのポジション
をベストのものに合わせたりするのに必死になっていたという
ことでした。まぁ、本当に初めて乗るんだなという感じですね。
一方のピットは昨年にスペインでのテストで走っていました
から、芳賀が感じたようなことはなかったのでしょう。
準備というのは、とりわけ二月の終わりに開幕のSBKの場合
重要だと思われます。
写真を見たところ、芳賀にはYAMAHAの文字にプラスして
ロゴが大きく胸のところに描かれていました。
それに対してピットにはロゴはなく、YAMAHAの文字のみ。
芳賀とヤマハのSBKというと、R7でフォガティ、コシンスキー、
コーサー、キリ、エドワーズ、ベイリスと他のメーカーの
群雄と熾烈な争いを展開していた印象があり、ヤマハの
マシンをひときわ印象強くしていたのが彼だったと思います。
彼はSBKのアプリリアやGPのレッドブルヤマハ500、昨年は
レネゲードドゥカティを走らせた経験もありますが、何枚
か彼の走っている写真を並べてみても、強く印象に残るのは
ヤマハのSBKをやり、ドゥカやホンダのライダーとバトルを
展開していた時の写真ですね。これは私だけでなく、世界中の
レースファンもきっと感じていることでしょう。
あのYAMAHAの文字と共につけられているあのヤマハのロゴの
大きさが磐田やモンツァ近くのスタッフのビッグウェルカムと
いうか、ビッグカムバックと言っているように見えてきます。
そして、そのロゴの大きさが、そのまま彼に対する期待の
値というか、栄光に対する渇望や欲望をあらわしているよう
にも思えます。
昨年の耐久選手権、イタリア選手権のSBKを制したのは
ヤマハのR1でした。世界選手権の最終戦のフランスで
予選二回を誰よりも速く走ったのはセバスチャン・ジャンベール
のヤマハのリッターバイクでした。
基本性能のよさや戦闘力の高さはすでに証明されている
と思います。
ヤマハの50周年、磐田のメーカーのフラッグシップモデル、
優れたライダー、期待は膨らみます。ホンダ、カワサキが
マシンが増え、スズキも戻ってきました。競争の激しく
なりますが、そんな条件でチャンピオンになればライダー
もマシンも高い価値を持って評価されるでしょう。
来月のカタールの開幕が楽しみです。
お楽しみはこれからだ。
日本とは季節が逆のオーストラリアのフィリップアイランド
でヤマハのR1を駆る最もファンキーな名古屋人の芳賀と
私はそれほど評価していませんが、業界的には認められて
いて今季ヤマハでSBKフル参戦となったピットがテスト
走行していました。
テストの最中、芳賀はライディングする上でのポジション
をベストのものに合わせたりするのに必死になっていたという
ことでした。まぁ、本当に初めて乗るんだなという感じですね。
一方のピットは昨年にスペインでのテストで走っていました
から、芳賀が感じたようなことはなかったのでしょう。
準備というのは、とりわけ二月の終わりに開幕のSBKの場合
重要だと思われます。
写真を見たところ、芳賀にはYAMAHAの文字にプラスして
ロゴが大きく胸のところに描かれていました。
それに対してピットにはロゴはなく、YAMAHAの文字のみ。
芳賀とヤマハのSBKというと、R7でフォガティ、コシンスキー、
コーサー、キリ、エドワーズ、ベイリスと他のメーカーの
群雄と熾烈な争いを展開していた印象があり、ヤマハの
マシンをひときわ印象強くしていたのが彼だったと思います。
彼はSBKのアプリリアやGPのレッドブルヤマハ500、昨年は
レネゲードドゥカティを走らせた経験もありますが、何枚
か彼の走っている写真を並べてみても、強く印象に残るのは
ヤマハのSBKをやり、ドゥカやホンダのライダーとバトルを
展開していた時の写真ですね。これは私だけでなく、世界中の
レースファンもきっと感じていることでしょう。
あのYAMAHAの文字と共につけられているあのヤマハのロゴの
大きさが磐田やモンツァ近くのスタッフのビッグウェルカムと
いうか、ビッグカムバックと言っているように見えてきます。
そして、そのロゴの大きさが、そのまま彼に対する期待の
値というか、栄光に対する渇望や欲望をあらわしているよう
にも思えます。
昨年の耐久選手権、イタリア選手権のSBKを制したのは
ヤマハのR1でした。世界選手権の最終戦のフランスで
予選二回を誰よりも速く走ったのはセバスチャン・ジャンベール
のヤマハのリッターバイクでした。
基本性能のよさや戦闘力の高さはすでに証明されている
と思います。
ヤマハの50周年、磐田のメーカーのフラッグシップモデル、
優れたライダー、期待は膨らみます。ホンダ、カワサキが
マシンが増え、スズキも戻ってきました。競争の激しく
なりますが、そんな条件でチャンピオンになればライダー
もマシンも高い価値を持って評価されるでしょう。
来月のカタールの開幕が楽しみです。
お楽しみはこれからだ。
かつておしんを見ていた人は何を
2005年1月23日 日常NHKの朝の連続ドラマというのは固定された層に人気が
あるものですが、かつて「おしん」というドラマが大変な
ブームになりました。
子供の頃から苦労して、大変な思いをした女性の一生を
描きつづけたものですが、これが日本人の多くに受け入れられ
たわけです。
私はあの時の状況というのが、何だか嫌でしたね。世の中には
実際に大変しんどい思いをしている人というのも存在しています。
為替相場や株価が10%変動しただけでどえらい思いをする人も
いますし、自分の会社がつぶれたり、取引先がおかしくなった
だけでも影響というのは大きいです。
また、大国の利益誘導によって、生活苦になる国だって存在
しますし、アメリカという国がやっていることでひどい目にあって
いる人だってたくさんいます。(まぁ、アメリカ人というのは
本当に嫌われていますね。ホワイトハウスと多国籍企業、
アメリカ資本抜きに現今の世界は成り立たないのでしょうが、
横暴がひどいと感じている人は多いですね。)
そして、地震に災害。おしんというドラマは実際に体感する
ことがないのでしょうが、自然の力で全てを失ってしまった
人もいますし、家族や友人、知人をなくした人、観光で収入を
得るエリアなのに、美しいビーチや宿泊施設をなくした人も
いるでしょう。
そんなとんでもない被害にあった人の気持ちをおしんを見て、
「おしんがかわいそう。」なんて口にしていながら、平和な世の中
で架空のストーリーに涙していた人はどう捕らえているのだろうか
と素朴な疑問を持ってしまう私です。
私はおしんを見ていた人は作り事の悲惨なストーリーをかわいそうと
言いながら楽しんでいたように思えて仕方なくて、地震や
津波のリアルな悲しみや人々の悲しみを考えて、銀行に営業時間に
行く暇がないので、コンビニのレジ横に小銭を入れています。
収入があればシューマッハーのように寄付したり、津波で
被害のあった観光地に行って、その場で消費活動して、観光業で
食べている人に日銭を稼がせてあげたいと思いますが、その
お金がないことに自分のできることの限界を感じます。
あるものですが、かつて「おしん」というドラマが大変な
ブームになりました。
子供の頃から苦労して、大変な思いをした女性の一生を
描きつづけたものですが、これが日本人の多くに受け入れられ
たわけです。
私はあの時の状況というのが、何だか嫌でしたね。世の中には
実際に大変しんどい思いをしている人というのも存在しています。
為替相場や株価が10%変動しただけでどえらい思いをする人も
いますし、自分の会社がつぶれたり、取引先がおかしくなった
だけでも影響というのは大きいです。
また、大国の利益誘導によって、生活苦になる国だって存在
しますし、アメリカという国がやっていることでひどい目にあって
いる人だってたくさんいます。(まぁ、アメリカ人というのは
本当に嫌われていますね。ホワイトハウスと多国籍企業、
アメリカ資本抜きに現今の世界は成り立たないのでしょうが、
横暴がひどいと感じている人は多いですね。)
そして、地震に災害。おしんというドラマは実際に体感する
ことがないのでしょうが、自然の力で全てを失ってしまった
人もいますし、家族や友人、知人をなくした人、観光で収入を
得るエリアなのに、美しいビーチや宿泊施設をなくした人も
いるでしょう。
そんなとんでもない被害にあった人の気持ちをおしんを見て、
「おしんがかわいそう。」なんて口にしていながら、平和な世の中
で架空のストーリーに涙していた人はどう捕らえているのだろうか
と素朴な疑問を持ってしまう私です。
私はおしんを見ていた人は作り事の悲惨なストーリーをかわいそうと
言いながら楽しんでいたように思えて仕方なくて、地震や
津波のリアルな悲しみや人々の悲しみを考えて、銀行に営業時間に
行く暇がないので、コンビニのレジ横に小銭を入れています。
収入があればシューマッハーのように寄付したり、津波で
被害のあった観光地に行って、その場で消費活動して、観光業で
食べている人に日銭を稼がせてあげたいと思いますが、その
お金がないことに自分のできることの限界を感じます。
水田竜子に見る歌謡曲に対する愛情
2005年1月21日 音楽もともと、ロックやポップを好んで聴いていた私ですが、
最近、演歌も聴くことがあります。今、一番気になっているのが
水田竜子さんですね。今回は彼女について書いてみたいと思います。
J−POPという言葉が世間に浸透して、CDの購買層というのが
ティーンから30歳ぐらいまでで、売れる曲と売れない曲という
ものがはっきりしてきた90年代。そして、その過程で外資系
のレコード会社が増えていった中、セールス的にはよくない
演歌歌手がかなりリストラされてしまいました。
かつてのような夜のヒットスタジオのような幅の広いジャンル
を一時間の枠の中で聞かせる番組が音楽の細分化と共に姿を消し、
決まった曲やタイアップなどでCFで流れる曲が幅を利かせる、
良し悪しは別にしてそんな時代を私は送っています。
そんな中、私が注目しているのが水田竜子さんですね。
彼女や彼女のブレーンが考えているのはかつての夜の
ヒットスタジオ的に色々な曲をお客さんに聞いてもらえる
土壌を作っているのではないかと思えます。
そんな歌謡曲というジャンルを水田竜子というフィルター
を通して表現しようとしている気がしますね。
露出度の高いドレスでポップな曲をやってみたり、かなりの
保守性を感じさせる演歌を歌ってみたり、日テレのものまね
番組に出て、自分の持ち歌とは違う歌を歌ってみたりなど
歌謡曲の歌手が70年代、80年代やっていたことをやっている
ような気がします。そして、そこには彼女の歌謡曲が幅を利かせて
いた時代や楽曲に対する愛情を感じます。
私は彼女のコンサートというのは残念ながらまだ行ったことが
ないのですが、きっと様々な曲を彼女のアンテナを通して
水田竜子の歌謡曲というジャンルに昇華させて歌い上げるような
気がします。もちろん、彼女もいわゆるJ−POPと呼ばれる
曲も聞くだろうし、ど演歌といわれる作品も聞いているとは
思います。今の音楽シーンの中でセールス的に成功している
J−POPの作品も、売れていない演歌の曲も同じに愛する
ことができ、それを深化させ、進化させることができ、
冒険や挑戦を続けて、いい意味で裏切ることができる人だから
(彼女の出演していたラジオ番組を聞いていたら、まさか耐え
忍ぶ女性の気持ちを歌うとは思えない)色々な曲を歌うことが
できると思います。
今、一番気になる女性歌手が彼女ですね。ひょっとしたら
歌手というより、男っぽい性格ながら、耐える女性や
一途な女性、勝気な女性を演じることができる女優なのかも
知れませんが。
最近、演歌も聴くことがあります。今、一番気になっているのが
水田竜子さんですね。今回は彼女について書いてみたいと思います。
J−POPという言葉が世間に浸透して、CDの購買層というのが
ティーンから30歳ぐらいまでで、売れる曲と売れない曲という
ものがはっきりしてきた90年代。そして、その過程で外資系
のレコード会社が増えていった中、セールス的にはよくない
演歌歌手がかなりリストラされてしまいました。
かつてのような夜のヒットスタジオのような幅の広いジャンル
を一時間の枠の中で聞かせる番組が音楽の細分化と共に姿を消し、
決まった曲やタイアップなどでCFで流れる曲が幅を利かせる、
良し悪しは別にしてそんな時代を私は送っています。
そんな中、私が注目しているのが水田竜子さんですね。
彼女や彼女のブレーンが考えているのはかつての夜の
ヒットスタジオ的に色々な曲をお客さんに聞いてもらえる
土壌を作っているのではないかと思えます。
そんな歌謡曲というジャンルを水田竜子というフィルター
を通して表現しようとしている気がしますね。
露出度の高いドレスでポップな曲をやってみたり、かなりの
保守性を感じさせる演歌を歌ってみたり、日テレのものまね
番組に出て、自分の持ち歌とは違う歌を歌ってみたりなど
歌謡曲の歌手が70年代、80年代やっていたことをやっている
ような気がします。そして、そこには彼女の歌謡曲が幅を利かせて
いた時代や楽曲に対する愛情を感じます。
私は彼女のコンサートというのは残念ながらまだ行ったことが
ないのですが、きっと様々な曲を彼女のアンテナを通して
水田竜子の歌謡曲というジャンルに昇華させて歌い上げるような
気がします。もちろん、彼女もいわゆるJ−POPと呼ばれる
曲も聞くだろうし、ど演歌といわれる作品も聞いているとは
思います。今の音楽シーンの中でセールス的に成功している
J−POPの作品も、売れていない演歌の曲も同じに愛する
ことができ、それを深化させ、進化させることができ、
冒険や挑戦を続けて、いい意味で裏切ることができる人だから
(彼女の出演していたラジオ番組を聞いていたら、まさか耐え
忍ぶ女性の気持ちを歌うとは思えない)色々な曲を歌うことが
できると思います。
今、一番気になる女性歌手が彼女ですね。ひょっとしたら
歌手というより、男っぽい性格ながら、耐える女性や
一途な女性、勝気な女性を演じることができる女優なのかも
知れませんが。
ペイパービューについて
2005年1月20日 TVWOWOW、NHK、スカパーなどは視聴料収入に
よって成り立っているテレビ局ですが。お金を払ってまでも
見たい番組について考えてみました。
私がWOWOWに加入していた理由は映画が好きであるという
理由もありますが、バイクの世界グランプリの全てのクラスの
ノーカット中継、F1のノーカット、リングスの独占放送、
サッカーのセリエA、そしてテニスのグランドスラムイベント
の中継(ウィンブルドンは除く)というのが強い動機になってい
ました。
しかし、世界グランプリはNHKBSに放送権が移り、F1
のノーカットもいつしか終わり、リングスは団体自体が休眠
ということになり、セリエAは札束をたくさん積んだスカパーに
移動ということになりました。
映画とテニスのグランドスラムイベントだけのために契約するという
ことは考えられなかったので、解約してそのままになっています。
スカパーに加入すればいいじゃないかと思う方もいらっしゃるかも
しれませんが、世界グランプリは未だに05年シーズンの放送は
どこになるのか不透明で現在発表がされていません。
スカパーという多チャンネルで色々な趣味を持っている人で
お金を払ってでも見たいというアンテナをつけることに面倒を
感じない人というのは世界グランプリを見たがっている人は
多いと思いますが、放送権料があまりに高くなると、当然
視聴料金に跳ね返ってくるわけで、ある程度の額で治まってくれ
ないと好きな人でもそこまでは払えないというエリアに入って
しまいますね。
イギリスという国は私は嫌いなのですが、オリンピックのような
国民的な注目イベントに関しては、無料か低料金で広く国民
各層に見てもらう必要があると考えていて、地上波で放送する
方向の法律があります。
お金を払ってまで見たいという層が多いというのはマーケット
として確立していていいものだと理解できるのですが、
その一方でお金持ちしか見られないというのは、当該のスポーツの
発展に対して壁になってしまう可能性もあります。
魅力的な番組をたくさん並べる一方でできるだけ視聴者の負担が
ない料金のあり方を求める私です。でも、オリンピックや
世界グランプリなどは放映権料を欲しがるばかりで安い値段で
多くに見てもらおうという考えを抱いていない気がする私です。
ヨーロッパ人は日本人は金持ちだからと思っているのでしょう。
よって成り立っているテレビ局ですが。お金を払ってまでも
見たい番組について考えてみました。
私がWOWOWに加入していた理由は映画が好きであるという
理由もありますが、バイクの世界グランプリの全てのクラスの
ノーカット中継、F1のノーカット、リングスの独占放送、
サッカーのセリエA、そしてテニスのグランドスラムイベント
の中継(ウィンブルドンは除く)というのが強い動機になってい
ました。
しかし、世界グランプリはNHKBSに放送権が移り、F1
のノーカットもいつしか終わり、リングスは団体自体が休眠
ということになり、セリエAは札束をたくさん積んだスカパーに
移動ということになりました。
映画とテニスのグランドスラムイベントだけのために契約するという
ことは考えられなかったので、解約してそのままになっています。
スカパーに加入すればいいじゃないかと思う方もいらっしゃるかも
しれませんが、世界グランプリは未だに05年シーズンの放送は
どこになるのか不透明で現在発表がされていません。
スカパーという多チャンネルで色々な趣味を持っている人で
お金を払ってでも見たいというアンテナをつけることに面倒を
感じない人というのは世界グランプリを見たがっている人は
多いと思いますが、放送権料があまりに高くなると、当然
視聴料金に跳ね返ってくるわけで、ある程度の額で治まってくれ
ないと好きな人でもそこまでは払えないというエリアに入って
しまいますね。
イギリスという国は私は嫌いなのですが、オリンピックのような
国民的な注目イベントに関しては、無料か低料金で広く国民
各層に見てもらう必要があると考えていて、地上波で放送する
方向の法律があります。
お金を払ってまで見たいという層が多いというのはマーケット
として確立していていいものだと理解できるのですが、
その一方でお金持ちしか見られないというのは、当該のスポーツの
発展に対して壁になってしまう可能性もあります。
魅力的な番組をたくさん並べる一方でできるだけ視聴者の負担が
ない料金のあり方を求める私です。でも、オリンピックや
世界グランプリなどは放映権料を欲しがるばかりで安い値段で
多くに見てもらおうという考えを抱いていない気がする私です。
ヨーロッパ人は日本人は金持ちだからと思っているのでしょう。
ピエール・フランチェスコ・キリというライダーについて
2005年1月19日 スポーツ昨年のスーパーバイク世界選手権での私の思うベストレース
の主人公だったピエール・フランチェスコ・キリ。イタリア
に限らず、世界中で愛されるフランキー・キリというライダー
について書いてみます。
多くの人からフランキーと呼ばれるこのボローニャ人のライダー
ですが、初めて私が会ったのは98年のイタリアのミザノでした。
当時の私はリミニでイタリア語を勉強していて、SBKのレースを
見に行った時に当時のドゥカティワークスのパドックのあたり
をうろついていたときに会ったのが初対面でした。
優勝が期待されたエミリアロマーニャ州のレースで転倒で
レースを落として、つらい気持ちだったのではないかと
思っていたのですが、簡単に気持ちを切り替えて、ファンサービス
をしていたのが彼でした。
その後、何度か会っているのですが、99年にスズキに移って
どうなるかと思われたのですが、雨の中オーストリアで素晴らしい
勝利を奪い、さらにドイツではドライコンディションで真っ向
勝負でフォガティに勝ち、彼の健在ぶりとスズキのマシンの良さ
を印象付けました。
その翌年、2000年シーズン。私はSBKのレースの現場に
いることが多かったのですが、彼の姿を見ていて驚いたのは
彼の好奇心の強さですね。
私と何気に日本の経済の話をしていたり、都市と地方の違いの
こと、私が学んでいた社会学のとりわけリゾートや自由時間の
問題を話していて時々、目が鋭くなり、高いレベルの質問をぶつける
ことがありました。
また、彼は株式投資が趣味でして、そういった分野に関する
意見や指摘というのは彼の口から聞いていて非常に深みを感じる
ことが多かったです。
この時に彼はスズキのマシンで相棒は藤原克昭だったのですが、
若さや体力ということに関しては当然若い藤原に分があったの
でしょうが、成績はずっとキリの方が上でした。
世の中の事象や出来事に関して強い興味を抱いていて(だから
こそ株をやれるのでしょうが)複雑だったり、錯綜している
状況の中から自分の得になることを探し出すとか、よくない状況下
の中でもその中でベストな利益を得ようというような発想と
いうのが彼の頭の中に常にあるのではないかと思います。
私が強く印象に残っているのが、この年の八月のイギリスでした。
この年の夏のブランズハッチでのレースで地元イギリス人
ライダーが予選、決勝共に大活躍したのですが、そんな中、
キリは金曜、土曜ともにマシンが仕上がらず凡庸な予選でした。
そして、藤原は予選17番手。
このサーキットはスズキのマシンが合っていないのかなという
印象を抱いたのですが、そんな厳しい予選のあと、日曜日の
第二レースでは悪い状況下の中でも自分のできるベストの
ライディングを披露し、苦しい中でも自分のできうる限りの
テクニックを使ったレースをして、何と三位表彰台を奪いました。
チーフエンジニアの今にも泣きそうな顔が実に印象的でしたね。
マシンやエンジニアスタッフでなく、ライダーの能力と腕と
戦略で取った表彰台でした。
あきらめが悪く、マシンがサーキットに合っていない状況でも
持っているマテリアルや才能、戦術、精神力、体力をフル稼働して
その時のベストの成績を得ようとする彼の姿は実に素晴らしい
と思います。
その彼が05年シーズンホンダのリッターバイクを駆ります。
プライベートドゥカといっていい体制からワークスドゥカ、
スズキ、サテライトのドゥカに移って、様々な誘いや交渉が
あった中でホンダのマシンを駆ることになった彼がどんな
レースをするのか楽しみです。
の主人公だったピエール・フランチェスコ・キリ。イタリア
に限らず、世界中で愛されるフランキー・キリというライダー
について書いてみます。
多くの人からフランキーと呼ばれるこのボローニャ人のライダー
ですが、初めて私が会ったのは98年のイタリアのミザノでした。
当時の私はリミニでイタリア語を勉強していて、SBKのレースを
見に行った時に当時のドゥカティワークスのパドックのあたり
をうろついていたときに会ったのが初対面でした。
優勝が期待されたエミリアロマーニャ州のレースで転倒で
レースを落として、つらい気持ちだったのではないかと
思っていたのですが、簡単に気持ちを切り替えて、ファンサービス
をしていたのが彼でした。
その後、何度か会っているのですが、99年にスズキに移って
どうなるかと思われたのですが、雨の中オーストリアで素晴らしい
勝利を奪い、さらにドイツではドライコンディションで真っ向
勝負でフォガティに勝ち、彼の健在ぶりとスズキのマシンの良さ
を印象付けました。
その翌年、2000年シーズン。私はSBKのレースの現場に
いることが多かったのですが、彼の姿を見ていて驚いたのは
彼の好奇心の強さですね。
私と何気に日本の経済の話をしていたり、都市と地方の違いの
こと、私が学んでいた社会学のとりわけリゾートや自由時間の
問題を話していて時々、目が鋭くなり、高いレベルの質問をぶつける
ことがありました。
また、彼は株式投資が趣味でして、そういった分野に関する
意見や指摘というのは彼の口から聞いていて非常に深みを感じる
ことが多かったです。
この時に彼はスズキのマシンで相棒は藤原克昭だったのですが、
若さや体力ということに関しては当然若い藤原に分があったの
でしょうが、成績はずっとキリの方が上でした。
世の中の事象や出来事に関して強い興味を抱いていて(だから
こそ株をやれるのでしょうが)複雑だったり、錯綜している
状況の中から自分の得になることを探し出すとか、よくない状況下
の中でもその中でベストな利益を得ようというような発想と
いうのが彼の頭の中に常にあるのではないかと思います。
私が強く印象に残っているのが、この年の八月のイギリスでした。
この年の夏のブランズハッチでのレースで地元イギリス人
ライダーが予選、決勝共に大活躍したのですが、そんな中、
キリは金曜、土曜ともにマシンが仕上がらず凡庸な予選でした。
そして、藤原は予選17番手。
このサーキットはスズキのマシンが合っていないのかなという
印象を抱いたのですが、そんな厳しい予選のあと、日曜日の
第二レースでは悪い状況下の中でも自分のできるベストの
ライディングを披露し、苦しい中でも自分のできうる限りの
テクニックを使ったレースをして、何と三位表彰台を奪いました。
チーフエンジニアの今にも泣きそうな顔が実に印象的でしたね。
マシンやエンジニアスタッフでなく、ライダーの能力と腕と
戦略で取った表彰台でした。
あきらめが悪く、マシンがサーキットに合っていない状況でも
持っているマテリアルや才能、戦術、精神力、体力をフル稼働して
その時のベストの成績を得ようとする彼の姿は実に素晴らしい
と思います。
その彼が05年シーズンホンダのリッターバイクを駆ります。
プライベートドゥカといっていい体制からワークスドゥカ、
スズキ、サテライトのドゥカに移って、様々な誘いや交渉が
あった中でホンダのマシンを駆ることになった彼がどんな
レースをするのか楽しみです。
マリア・シャラポワがモスクワ五輪誘致のPR活動を
2005年1月18日 スポーツすでに新聞やネットで報じられているように、マリア・シャラポワ
がロシア政府が誘致に動いているモスクワ五輪のためのPR活動に
協力することになりました。今回はこのことから想像したことを
書いてみます。
女子テニスの国別対抗戦のフェドカップの決勝の後に、ロシア人
プレイヤーが取材陣に「もし、シャラポワがロシアチームに
入るとしたら。」と尋ねられて「彼女は小さい頃からアメリカに
いてアメリカ人のメンタリティを有しているのよ。」と牽制する
ような発言をしていました。
まぁ、今のトップ10、トップ20にロシア人が半数近くいて
何だか80年台のデビスカップのスウェーデンのようになって
いるので(あの時にはヤリード、エドベリのダブルスが出場
できなかった代わりに出てきたのがヴィランデル、ニーストロム
のウィンブルドンのダブルス優勝ペアだったことがあった)
ライバル意識が強くて、変な緊張関係をもたらしてしまう
シャラポワをあえて使う必要はないと思いますが、
そんなシャラポーバを意識しているロシア人女子プレイヤーに
とってモスクワ五輪のPR活動をシャラポワがやるという
ニュースはどう受け止められたのでしょうか。
旧共産圏というのはオリンピックや国別対抗戦に対する意識が
すごく強いという気がします。そして、国を代表して戦うことに
対して強い誇りが感じられます。
その国で生まれて国を代表して世界一に導いたプレイヤー
でシャラポワ嫌いにとって政府レベルで誘致活動している
モスクワ五輪のPRパーソンにシャラポワが選ばれたこと
をどう感じているのでしょうか。
何で彼女なのかと思っているのかもしれません。いや、きっと
そうだという気がします。
プロレスのマッチメーカーがかつて「仲のいい連中で試合を
やらせてもいい試合にならない。仲の悪いもの同士をぶつける
と憎しみや意地が剥き出しになって、マット上がヒートして
見ているお客さんが喜ぶ熱のこもった試合になる。だから、
戦うレスラーが嫌がるマッチメークをしなければいけない。」
なんて話していたことがありました。
シャラポワがこのPR活動をするというニュースが入って
から私にとってオーストラリアンオープンの興味がさらに
わいてきました。
相手の苦手なところを突いて、相手を弱らせたり、不得手なところ
にボールを運んで自分の有利な態勢にしてたくさんポイントを
取って試合を支配するというテニスというスポーツには
かなり悪魔性を有したスポーツだと思います。
シャラポワ嫌いとシャラポワがぶつかってコートで何が
起きるのか、どんな悪魔性のぶつかり合いになるのか楽しみです。
あと気になったのは私は92年にソウル、97年にバルセロナ
に行ったことがありますが、この二つの都市を歩いてみて
ここは本当にパラリンピックのホストシティだったのかと
バリアフリーとは程遠い設備やシステムに驚きました。
モスクワはパラリンピックをやるのに相応しい町なのでしょうか。
誰かジャーナリストがシャラポワにモスクワが障害者が集う
世界規模のスポーツ大会をやるのにいい町なのか聞いて欲しい
ものです。
がロシア政府が誘致に動いているモスクワ五輪のためのPR活動に
協力することになりました。今回はこのことから想像したことを
書いてみます。
女子テニスの国別対抗戦のフェドカップの決勝の後に、ロシア人
プレイヤーが取材陣に「もし、シャラポワがロシアチームに
入るとしたら。」と尋ねられて「彼女は小さい頃からアメリカに
いてアメリカ人のメンタリティを有しているのよ。」と牽制する
ような発言をしていました。
まぁ、今のトップ10、トップ20にロシア人が半数近くいて
何だか80年台のデビスカップのスウェーデンのようになって
いるので(あの時にはヤリード、エドベリのダブルスが出場
できなかった代わりに出てきたのがヴィランデル、ニーストロム
のウィンブルドンのダブルス優勝ペアだったことがあった)
ライバル意識が強くて、変な緊張関係をもたらしてしまう
シャラポワをあえて使う必要はないと思いますが、
そんなシャラポーバを意識しているロシア人女子プレイヤーに
とってモスクワ五輪のPR活動をシャラポワがやるという
ニュースはどう受け止められたのでしょうか。
旧共産圏というのはオリンピックや国別対抗戦に対する意識が
すごく強いという気がします。そして、国を代表して戦うことに
対して強い誇りが感じられます。
その国で生まれて国を代表して世界一に導いたプレイヤー
でシャラポワ嫌いにとって政府レベルで誘致活動している
モスクワ五輪のPRパーソンにシャラポワが選ばれたこと
をどう感じているのでしょうか。
何で彼女なのかと思っているのかもしれません。いや、きっと
そうだという気がします。
プロレスのマッチメーカーがかつて「仲のいい連中で試合を
やらせてもいい試合にならない。仲の悪いもの同士をぶつける
と憎しみや意地が剥き出しになって、マット上がヒートして
見ているお客さんが喜ぶ熱のこもった試合になる。だから、
戦うレスラーが嫌がるマッチメークをしなければいけない。」
なんて話していたことがありました。
シャラポワがこのPR活動をするというニュースが入って
から私にとってオーストラリアンオープンの興味がさらに
わいてきました。
相手の苦手なところを突いて、相手を弱らせたり、不得手なところ
にボールを運んで自分の有利な態勢にしてたくさんポイントを
取って試合を支配するというテニスというスポーツには
かなり悪魔性を有したスポーツだと思います。
シャラポワ嫌いとシャラポワがぶつかってコートで何が
起きるのか、どんな悪魔性のぶつかり合いになるのか楽しみです。
あと気になったのは私は92年にソウル、97年にバルセロナ
に行ったことがありますが、この二つの都市を歩いてみて
ここは本当にパラリンピックのホストシティだったのかと
バリアフリーとは程遠い設備やシステムに驚きました。
モスクワはパラリンピックをやるのに相応しい町なのでしょうか。
誰かジャーナリストがシャラポワにモスクワが障害者が集う
世界規模のスポーツ大会をやるのにいい町なのか聞いて欲しい
ものです。
阪神淡路大震災の日にメディアを思う。
2005年1月17日 日常この日を迎えるとあのとんでもない地震を思い出します。
情報を発信する側である私が感じることを今日は書きます。
中学に入学して、しばらくのこと。クラスで何か
クラブなりサークルなりを作る話になった時に
ラジオに関してそういう集まりを作ればいいと深夜放送フリーク
だった私が話したことがありました。
賛同する方というのはほとんどいなかったですね。
中には「ラジオを持っていない人はどうするんだ。」
なんて話す人もいたくらいでした。
ラジオとか落語というのは、映像がない分、想像力を必要と
されるものだと思うのですが、ラジオでタレントが話したり
落語で噺家さんが演じているのを耳にして光景を思い浮かべる
のが私は好きでした。
ということで当然、ラジオが面白いものだと考えていましたし、
携帯できるメディアですぐにスイッチ一つで耳にすることが
できるというのは即時性を持って様々なことに触れることが
できる優位性を持っています。私がラジオの世界に走っていた
きっかけですね。中学から高校時代というのはラジオ中心の
生活だったと思います。
そんなニューメディアとは言えないラジオというメディアの
重要性を知らせてくれたのがあの震災だったと思います。
自然の怖さをまざざと見せつけられて、不安や悲しみや当時の
行政や村山内閣に対する怒りなどがあふれていた被災者の方々に
物資の配給場所や生活情報、様々な案内を行ったのがラジオという
メディアでした。
そして、音楽というものが傷ついた人々の心を安らげたり、
温めるということをリアルに教えてくれました。
名古屋人の私は何年も前から東海大地震の可能性を聞かされています。
確かにこれだけスーパー銭湯ができる場所というのは地震が起きる
可能性は高いだろうなと思います。そんな場所で暮らす私達に
色々なものを提供してくれるメディアであり、携帯できるメディア
がラジオだと思います。
名古屋人の多くが通勤通学に車を使っているのでラジオを聞いている
人口は多いと思いますが、カーラジオ以外にもあって欲しくない
有事のためにもっていてもいいと思いますね。ただ、携帯の多機能
化が進んだ今、チャージしきっている携帯を持っていた方が
いいと考える人が多いのかもしれませんが。
情報を発信する側である私が感じることを今日は書きます。
中学に入学して、しばらくのこと。クラスで何か
クラブなりサークルなりを作る話になった時に
ラジオに関してそういう集まりを作ればいいと深夜放送フリーク
だった私が話したことがありました。
賛同する方というのはほとんどいなかったですね。
中には「ラジオを持っていない人はどうするんだ。」
なんて話す人もいたくらいでした。
ラジオとか落語というのは、映像がない分、想像力を必要と
されるものだと思うのですが、ラジオでタレントが話したり
落語で噺家さんが演じているのを耳にして光景を思い浮かべる
のが私は好きでした。
ということで当然、ラジオが面白いものだと考えていましたし、
携帯できるメディアですぐにスイッチ一つで耳にすることが
できるというのは即時性を持って様々なことに触れることが
できる優位性を持っています。私がラジオの世界に走っていた
きっかけですね。中学から高校時代というのはラジオ中心の
生活だったと思います。
そんなニューメディアとは言えないラジオというメディアの
重要性を知らせてくれたのがあの震災だったと思います。
自然の怖さをまざざと見せつけられて、不安や悲しみや当時の
行政や村山内閣に対する怒りなどがあふれていた被災者の方々に
物資の配給場所や生活情報、様々な案内を行ったのがラジオという
メディアでした。
そして、音楽というものが傷ついた人々の心を安らげたり、
温めるということをリアルに教えてくれました。
名古屋人の私は何年も前から東海大地震の可能性を聞かされています。
確かにこれだけスーパー銭湯ができる場所というのは地震が起きる
可能性は高いだろうなと思います。そんな場所で暮らす私達に
色々なものを提供してくれるメディアであり、携帯できるメディア
がラジオだと思います。
名古屋人の多くが通勤通学に車を使っているのでラジオを聞いている
人口は多いと思いますが、カーラジオ以外にもあって欲しくない
有事のためにもっていてもいいと思いますね。ただ、携帯の多機能
化が進んだ今、チャージしきっている携帯を持っていた方が
いいと考える人が多いのかもしれませんが。
04年シーズンのSBKベストレース
2005年1月16日 スポーツ私が勝手に選ぶ04シーズンSBKベストレースは
四月のサンマリノラウンド(場所はイタリアのリミニ郊外の
ミザノアドレアティコ)の第二レースです。私がかつて住んで
いたリミニから12キロほど先のサーキットで行われたレース。
名古屋人にとっての第一のホームレースが鈴鹿であり、第二の
ホームレースはリミニなまりのイタリア語を話す私にとって
ミザノになります。
私にとって思い入れがあるサーキットですが、ボローニャの
メーカーのドゥカティ、ボローニャ人のピエール・フランチェスコ・
キリ、そしてペーザロ出身のマウロ・サンキーニなどにも
胸に秘めるものがありました。今回はこのレースをピックアップ
します。
正午から行われた第一レースは途中から雨が強くなり、トップ
を走っていたラコニのアピールでフィニッシュとなりました。
第二レースは午後三時半から。ダミーグリッド上はウェット。
しかし、雨が降って、それが強くなるのか、逆に止んで路面が
乾いていくのか、各チーム判断がわかれ、タイヤチョイスも
多くのライダーやエンジニアが最後の最後まで判断に悩み
スタートの時間が近づいてきた。
雨の可能性を考えたのがマウロ・サンキーニ、多くのライダー
がウェット、ドライ両方に対応できるタイヤチョイスになった。
スタートが切られ、路面から水しぶきが立ち上がる。第一レースの
後半のような映像のようだったが、そんなコンディションで
世界の列強を抜いて、トップに立ったのがマウロ・サンキーニ
だった。もともと、雨が得意で、イタリア選手権で何度もここを
走ったことのある彼がカワサキNINJAを駆って飛ばしていく。
第一レースも微妙なコンディションで雨の量が増してくる中
勇敢な走りで転倒するまで三位を走っていた彼がやはり雨の中
絶妙なマシンコントロールでトップに立ち、引き離していく。
カワサキがトップを走るのはいつ以来だろうか、マウロに今回
チャンスがあるのだろうか。そんなことを思っているうちに
雨粒がどんどん細くなり、そして止んできた。
次第に走行ラインがウェットからハーフウェットに、そして
ドライに近づいてくる。雨しぶきの量もそれに比例して少なくなり
とうとう見られないようになる。
こうなるとマウロは苦しくなる。レインタイヤを消費してしまい、
垂れたタイヤでドライ路面を走る羽目になりタイムがどんどん落ちて
いく。そんなマウロに対して、この日第一レースを制したフィラ
ドゥカティのラコニがタイムを上げてついにマウロを抜いていく。
成す術のないマウロはどんどん、タイムを落として中団グループに
飲みこまれていく。
第一レースを制し、チーム、メーカーの地元の同じエミリア
ロマーニャ州のレースでダブルウィンを狙ってラコニは快調に
飛ばしていく。
二位以下を十分に離して、磐石の態勢を築いた。レースを見ていた
お客さん、世界中のレースファンがそう思って、興味が中団
グループの争いに移りかけたレースの中盤から後半に入ろうとした
時に乾いた路面で誰よりも早いペースで走り出したライダーが
いた。ピエール・フランチェスコ・キリである。
このフランキー・キリは路面が完全にドライになると読み、
タイヤチョイス、マシンセッティングをフルドライ仕様に近い
形にしていたので雨の残る前半とハーフドライ、ハーフウェット
の中盤は我慢の走りを強いられていたのだが路面が完全に乾き
トップのラコニより2秒から3秒速いペースで攻勢に入った。
中団グループを抜き去り、ラコニとのディファレンスが周を追う
ごとに少なくなっていく。サーキットに緊張と興奮が包む。
一周目は十六番手あたりを走っていたキリが誰よりも深い
コーナーリングで、そして直線では最速でラコニに迫っていく。
そして、残り二周。キリの視界にラコニの姿が映った。
恐らくこのフランス人のライディングを見て、抜けることを
確信しただろう。
そして、変なリスクを犯すことなく、安全にラコニを抜きさり、
落ち着いてマシンをチェッカーまで運んで、四十歳にして、
04年シーズン初勝利を地元と言ってもいいミザノで挙げた。
その瞬間、彼のPSG1チームの喜びが爆発した。このチームの
所在地はサンマリノ。彼らにとっても重要なレースだったのだ。
パルクフェルメに戻り。ガッツポーズで応えるキリ。
何とも言えないいい笑顔をしていました。
雨が上がったピットレーンを歩き表彰台の前に行くと、PSG1
チームのマネージャー、そしてキリとかつて仕事をしていた
コロナアルスタースズキのバッタがいた。彼らも満足した表情
である。そして私も当然、キリの勝利を喜び、この二人のチーム
マネージャーのリクエストに応えてPSG1チームのスタッフと
表彰式でイタリア国歌を斉唱する。いつもより大きな声で歌って
いた私でした。
これでキリはポイントリーダーで一ヶ月後のモンツァに向かうこと
になった。
開幕前の新型のドゥカティになじめず転倒したりダンロップ育ちで
ピレリの特性にフィットできずに引退の危機を迎えていた時には考え
られない美しい勝利でした。表彰台でのドゥカティやピレリの
ロゴが実に鮮やかに見えました。自信を取り戻し納得できる
ライディングができればこうして素晴らしいレースを四十になっても
できることを彼は走りで証明しました。
そして表彰式の後、カワサキベルトッキのパドックの前を通ると
ぼろぼろになったレインタイヤを装着したマウロ・サンキーニ
のカワサキのマシンが。マウロはやるだけのことはやったようで
満足気でしたが、ウィナーにはなれなかったが、彼もこのレースを
盛り上げたヒーローでした。
あきらめが悪いことや望みを捨てないことが実に美しいことだと
思えたミザノでのレースでした。
四月のサンマリノラウンド(場所はイタリアのリミニ郊外の
ミザノアドレアティコ)の第二レースです。私がかつて住んで
いたリミニから12キロほど先のサーキットで行われたレース。
名古屋人にとっての第一のホームレースが鈴鹿であり、第二の
ホームレースはリミニなまりのイタリア語を話す私にとって
ミザノになります。
私にとって思い入れがあるサーキットですが、ボローニャの
メーカーのドゥカティ、ボローニャ人のピエール・フランチェスコ・
キリ、そしてペーザロ出身のマウロ・サンキーニなどにも
胸に秘めるものがありました。今回はこのレースをピックアップ
します。
正午から行われた第一レースは途中から雨が強くなり、トップ
を走っていたラコニのアピールでフィニッシュとなりました。
第二レースは午後三時半から。ダミーグリッド上はウェット。
しかし、雨が降って、それが強くなるのか、逆に止んで路面が
乾いていくのか、各チーム判断がわかれ、タイヤチョイスも
多くのライダーやエンジニアが最後の最後まで判断に悩み
スタートの時間が近づいてきた。
雨の可能性を考えたのがマウロ・サンキーニ、多くのライダー
がウェット、ドライ両方に対応できるタイヤチョイスになった。
スタートが切られ、路面から水しぶきが立ち上がる。第一レースの
後半のような映像のようだったが、そんなコンディションで
世界の列強を抜いて、トップに立ったのがマウロ・サンキーニ
だった。もともと、雨が得意で、イタリア選手権で何度もここを
走ったことのある彼がカワサキNINJAを駆って飛ばしていく。
第一レースも微妙なコンディションで雨の量が増してくる中
勇敢な走りで転倒するまで三位を走っていた彼がやはり雨の中
絶妙なマシンコントロールでトップに立ち、引き離していく。
カワサキがトップを走るのはいつ以来だろうか、マウロに今回
チャンスがあるのだろうか。そんなことを思っているうちに
雨粒がどんどん細くなり、そして止んできた。
次第に走行ラインがウェットからハーフウェットに、そして
ドライに近づいてくる。雨しぶきの量もそれに比例して少なくなり
とうとう見られないようになる。
こうなるとマウロは苦しくなる。レインタイヤを消費してしまい、
垂れたタイヤでドライ路面を走る羽目になりタイムがどんどん落ちて
いく。そんなマウロに対して、この日第一レースを制したフィラ
ドゥカティのラコニがタイムを上げてついにマウロを抜いていく。
成す術のないマウロはどんどん、タイムを落として中団グループに
飲みこまれていく。
第一レースを制し、チーム、メーカーの地元の同じエミリア
ロマーニャ州のレースでダブルウィンを狙ってラコニは快調に
飛ばしていく。
二位以下を十分に離して、磐石の態勢を築いた。レースを見ていた
お客さん、世界中のレースファンがそう思って、興味が中団
グループの争いに移りかけたレースの中盤から後半に入ろうとした
時に乾いた路面で誰よりも早いペースで走り出したライダーが
いた。ピエール・フランチェスコ・キリである。
このフランキー・キリは路面が完全にドライになると読み、
タイヤチョイス、マシンセッティングをフルドライ仕様に近い
形にしていたので雨の残る前半とハーフドライ、ハーフウェット
の中盤は我慢の走りを強いられていたのだが路面が完全に乾き
トップのラコニより2秒から3秒速いペースで攻勢に入った。
中団グループを抜き去り、ラコニとのディファレンスが周を追う
ごとに少なくなっていく。サーキットに緊張と興奮が包む。
一周目は十六番手あたりを走っていたキリが誰よりも深い
コーナーリングで、そして直線では最速でラコニに迫っていく。
そして、残り二周。キリの視界にラコニの姿が映った。
恐らくこのフランス人のライディングを見て、抜けることを
確信しただろう。
そして、変なリスクを犯すことなく、安全にラコニを抜きさり、
落ち着いてマシンをチェッカーまで運んで、四十歳にして、
04年シーズン初勝利を地元と言ってもいいミザノで挙げた。
その瞬間、彼のPSG1チームの喜びが爆発した。このチームの
所在地はサンマリノ。彼らにとっても重要なレースだったのだ。
パルクフェルメに戻り。ガッツポーズで応えるキリ。
何とも言えないいい笑顔をしていました。
雨が上がったピットレーンを歩き表彰台の前に行くと、PSG1
チームのマネージャー、そしてキリとかつて仕事をしていた
コロナアルスタースズキのバッタがいた。彼らも満足した表情
である。そして私も当然、キリの勝利を喜び、この二人のチーム
マネージャーのリクエストに応えてPSG1チームのスタッフと
表彰式でイタリア国歌を斉唱する。いつもより大きな声で歌って
いた私でした。
これでキリはポイントリーダーで一ヶ月後のモンツァに向かうこと
になった。
開幕前の新型のドゥカティになじめず転倒したりダンロップ育ちで
ピレリの特性にフィットできずに引退の危機を迎えていた時には考え
られない美しい勝利でした。表彰台でのドゥカティやピレリの
ロゴが実に鮮やかに見えました。自信を取り戻し納得できる
ライディングができればこうして素晴らしいレースを四十になっても
できることを彼は走りで証明しました。
そして表彰式の後、カワサキベルトッキのパドックの前を通ると
ぼろぼろになったレインタイヤを装着したマウロ・サンキーニ
のカワサキのマシンが。マウロはやるだけのことはやったようで
満足気でしたが、ウィナーにはなれなかったが、彼もこのレースを
盛り上げたヒーローでした。
あきらめが悪いことや望みを捨てないことが実に美しいことだと
思えたミザノでのレースでした。
ジャニーズ事務所のコンサートチケットについて
2005年1月15日 音楽ジャニーズのタレントのコンサートというのはとんでもない
プレミアム度が強いものだと思うのですが、かつてサイゾーという
雑誌に書いてあったことから色々と私が感じたことを書いてみ
ようと思います。
サイゾーの記事によれば、ジャニーズの人気のあるタレントの
コンサートチケットはファンクラブに入っている人達が優先的に
予約ができるらしいのですが、予約して抽選して当選してから
送金するのではなく、予約段階でお金を払わなければいけない
ということでした。
ここまでは私も納得できるのですが、抽選に漏れてチケットを
手にできなかった人達に対する返金が遅くて、相当待たされる
ことがあるらしい。
匿名で内情を話していたファンの一人は、その娘の兄弟が銀行に
勤めているらしく、その銀行員の話では、お金をプールして
それを投資してジャニーズ事務所は儲けようとしているらしい。
それが理由でマネーゲームをやっているうちは当然返金できない
ので、かなり返金に時間がかかるのではないか。と推察していま
した。
もし、それが事実だとしたら私の考えではそれをジャニーズ
事務所は標榜してもいいのではないかと思いますね。
資産を運用して、財務体質を強化して、それで、自社のタレントに
すぐれたレッスンをするとか、よりよい音楽やダンスの教育を
していくということはいいことだと思います。
ただ、そのことで当然お金がかかる。それは当然であるのですが、
ジャニーズのタレントのことが好きで決して安くない値段のチケット
を買おうとしてくれる人達というのはすぐれたパフォーマンスや
よりレベルの高い作品や舞台を求めているわけで、テレビの前で
ただ見ているという漫然としている視聴者ではなく、自らお金を
払って会場にまで行こうとする人たちというのはいいものを見たい
という気持ちが強いわけで、そういった思いを抱いている人達
に対してコンサートのチケットの抽選には漏れてしまったけれど、
少し預かっているお金から利益を出して、それを当該のタレントの
教育に当てるということであれば、それはファンの人達は納得
できると思います。
何もインフォメーションがなくて、返金が遅いという状況では
フラストレーションだけがたまり、不信感をジャニーズ事務所、
コンサートの主催者、後援する各企業に抱いてしまう結果になると
思います。
プレミアム度が強いものだと思うのですが、かつてサイゾーという
雑誌に書いてあったことから色々と私が感じたことを書いてみ
ようと思います。
サイゾーの記事によれば、ジャニーズの人気のあるタレントの
コンサートチケットはファンクラブに入っている人達が優先的に
予約ができるらしいのですが、予約して抽選して当選してから
送金するのではなく、予約段階でお金を払わなければいけない
ということでした。
ここまでは私も納得できるのですが、抽選に漏れてチケットを
手にできなかった人達に対する返金が遅くて、相当待たされる
ことがあるらしい。
匿名で内情を話していたファンの一人は、その娘の兄弟が銀行に
勤めているらしく、その銀行員の話では、お金をプールして
それを投資してジャニーズ事務所は儲けようとしているらしい。
それが理由でマネーゲームをやっているうちは当然返金できない
ので、かなり返金に時間がかかるのではないか。と推察していま
した。
もし、それが事実だとしたら私の考えではそれをジャニーズ
事務所は標榜してもいいのではないかと思いますね。
資産を運用して、財務体質を強化して、それで、自社のタレントに
すぐれたレッスンをするとか、よりよい音楽やダンスの教育を
していくということはいいことだと思います。
ただ、そのことで当然お金がかかる。それは当然であるのですが、
ジャニーズのタレントのことが好きで決して安くない値段のチケット
を買おうとしてくれる人達というのはすぐれたパフォーマンスや
よりレベルの高い作品や舞台を求めているわけで、テレビの前で
ただ見ているという漫然としている視聴者ではなく、自らお金を
払って会場にまで行こうとする人たちというのはいいものを見たい
という気持ちが強いわけで、そういった思いを抱いている人達
に対してコンサートのチケットの抽選には漏れてしまったけれど、
少し預かっているお金から利益を出して、それを当該のタレントの
教育に当てるということであれば、それはファンの人達は納得
できると思います。
何もインフォメーションがなくて、返金が遅いという状況では
フラストレーションだけがたまり、不信感をジャニーズ事務所、
コンサートの主催者、後援する各企業に抱いてしまう結果になると
思います。
世界選手権で成功しなかった日本人ライダーのこと
2005年1月13日 スポーツ武石伸也というライダーがスーパースポート世界選手権に
参戦した時期がありましたが、周囲の期待に応えることが
できずにシーズン中途にして、チームを離れました。
そのあたりのことについて今日は書いてみます。
ある日のこと、カストロールホンダのウェアを着たイギリス人
に聞かれたことがありました。
「グランプリの250ccの加藤や中野は日本から世界に
舞台を移しても、十分速くチャンピオンを狙える位置にいるのに
何故武石さんは駄目なのか。」
私の答えというのはいたってノーマルなものでした。
「日本人でとりわけ大きな企業のバックアップでやりたいこと
ができるという環境にあると、そのことに感謝するあまり、
自分が必要なモノ、得たいものがあっても、お世話になって
いる人や会社のことを考えるあまり、遠慮してしまうこと
というのはよくある。武石さんがホンダや多くのサプライヤー
に感謝しているあまり、自分の欲しいものや必要なものを
口に出せないことというのは考えられる。ひょっとして、
ホンダやチームの偉い人と自分が求めるマシンのセットアップ
や走りの方向性が違うとした時に、彼が自分の欲するもの
より、偉い人の考えるいいバイクのセットアップであるとか
開発の方向性を優先して、彼にとって乗りにくいバイクで
走っているなんてことはあるのではないのかな。」
さらに、私は彼の年齢について話しました。
「日本人がヨーロッパの国で過ごすというのは文化も風習も
あまりにも違いすぎて実に難しいことだと思う。イタリア語
がわかる私であっても大変なのに、家庭がある中、こうして
ヨーロッパに来て生活するというのはストレスがあるので
はないだろうか。彼が英語なりドイツ語がどれくらい話せる
かはわからないけれど。」
英語しか話さないイギリス人が納得したような顔を見せていた。
「私が思うに、日本人で世界を目指すなら少なくとも
25歳以下で世界に出ないと難しいと思う。また、私は
英語嫌いだが世界を転戦するライダーが
英語が話せないとレースの現場でも普段の生活でも自分の
言いたいことややりたいことを伝えることができずに
問題ばかり抱えると思う。自分の能力を発揮してやりたいことを
やって生活して、お金や名誉を得たいというのがライダーの
生理だと思う。そんなライダーという人種がマシンを
コントロールして世界で一番になりたいというのに自ら
考えていることを周りに理解してもらえるようにしない
というのはそれだけでストレスを感じることに
なるだろう。イタリアのチームでオールイタリアンで
やるのならともかくマルチナショナルなチームで働くなら
英語が話せないと駄目だと思う。」
後日、会ったこのイギリス人は
「武石さんにはかなりホンダからのプレッシャーを感じていた。
我々としてはできる限りのことをしたけれど、結局実を
結ばなかった。」と話していました。
与えられた道具や体制の中でできうる限りの結果を出さなければ
いけないライダーという職業ですが、単純にバイクを走らせる
以外に日本ではなく世界で走るためのモノやメンタルがなかった
のかなという気がしました。(その真逆がイタリアでレース
ファンに愛された上田昇だと思う。)
武石伸也というライダーは日本で重いバイクを使ったレースで
いいところを走っていたので、CBR600でどれくらい
走るのか楽しみにしていたのですが、非常に残念な結果に
なってしまいました。結果が出ないと周りの連中やスタッフも
若いライダーやヨーロッパ人を求めるので、結局シーズン
途中で他のライダーに場所を譲ることになってしまいましたね。
私が期待している日本人ライダーがいるのですが、英語が
話せなかったら、堅いことも下らないことも話せる英語と
日本語が話せる人の存在が必要だと思います。
イタリア語しか話せないイタリア人ライダーが私を探しだして、
通訳させる貪欲さというか、行動力が日本人ライダーにあるのか
わかりませんが。
参戦した時期がありましたが、周囲の期待に応えることが
できずにシーズン中途にして、チームを離れました。
そのあたりのことについて今日は書いてみます。
ある日のこと、カストロールホンダのウェアを着たイギリス人
に聞かれたことがありました。
「グランプリの250ccの加藤や中野は日本から世界に
舞台を移しても、十分速くチャンピオンを狙える位置にいるのに
何故武石さんは駄目なのか。」
私の答えというのはいたってノーマルなものでした。
「日本人でとりわけ大きな企業のバックアップでやりたいこと
ができるという環境にあると、そのことに感謝するあまり、
自分が必要なモノ、得たいものがあっても、お世話になって
いる人や会社のことを考えるあまり、遠慮してしまうこと
というのはよくある。武石さんがホンダや多くのサプライヤー
に感謝しているあまり、自分の欲しいものや必要なものを
口に出せないことというのは考えられる。ひょっとして、
ホンダやチームの偉い人と自分が求めるマシンのセットアップ
や走りの方向性が違うとした時に、彼が自分の欲するもの
より、偉い人の考えるいいバイクのセットアップであるとか
開発の方向性を優先して、彼にとって乗りにくいバイクで
走っているなんてことはあるのではないのかな。」
さらに、私は彼の年齢について話しました。
「日本人がヨーロッパの国で過ごすというのは文化も風習も
あまりにも違いすぎて実に難しいことだと思う。イタリア語
がわかる私であっても大変なのに、家庭がある中、こうして
ヨーロッパに来て生活するというのはストレスがあるので
はないだろうか。彼が英語なりドイツ語がどれくらい話せる
かはわからないけれど。」
英語しか話さないイギリス人が納得したような顔を見せていた。
「私が思うに、日本人で世界を目指すなら少なくとも
25歳以下で世界に出ないと難しいと思う。また、私は
英語嫌いだが世界を転戦するライダーが
英語が話せないとレースの現場でも普段の生活でも自分の
言いたいことややりたいことを伝えることができずに
問題ばかり抱えると思う。自分の能力を発揮してやりたいことを
やって生活して、お金や名誉を得たいというのがライダーの
生理だと思う。そんなライダーという人種がマシンを
コントロールして世界で一番になりたいというのに自ら
考えていることを周りに理解してもらえるようにしない
というのはそれだけでストレスを感じることに
なるだろう。イタリアのチームでオールイタリアンで
やるのならともかくマルチナショナルなチームで働くなら
英語が話せないと駄目だと思う。」
後日、会ったこのイギリス人は
「武石さんにはかなりホンダからのプレッシャーを感じていた。
我々としてはできる限りのことをしたけれど、結局実を
結ばなかった。」と話していました。
与えられた道具や体制の中でできうる限りの結果を出さなければ
いけないライダーという職業ですが、単純にバイクを走らせる
以外に日本ではなく世界で走るためのモノやメンタルがなかった
のかなという気がしました。(その真逆がイタリアでレース
ファンに愛された上田昇だと思う。)
武石伸也というライダーは日本で重いバイクを使ったレースで
いいところを走っていたので、CBR600でどれくらい
走るのか楽しみにしていたのですが、非常に残念な結果に
なってしまいました。結果が出ないと周りの連中やスタッフも
若いライダーやヨーロッパ人を求めるので、結局シーズン
途中で他のライダーに場所を譲ることになってしまいましたね。
私が期待している日本人ライダーがいるのですが、英語が
話せなかったら、堅いことも下らないことも話せる英語と
日本語が話せる人の存在が必要だと思います。
イタリア語しか話せないイタリア人ライダーが私を探しだして、
通訳させる貪欲さというか、行動力が日本人ライダーにあるのか
わかりませんが。
タバコ嫌いだが、広告規制には疑問を感じる
2005年1月12日 日常ヨーロッパのEU加盟国に行って驚くのが、タバコ広告の
規制ですね。
よくタバコの広告が若い人達にいいイメージを与えて、
それが若年層の喫煙に繋がるという話があり、それを
断ち切るためにF1やMOTOGPでタバコ広告に厳しい
国では宣伝ができないようにしています。
(近年、F1やMOTOGPがカタールや中国という
国で開催しているのは、このことも大きな理由の一つ)
私が疑問に思うのは果たして、本当にF1のフェッラーリを
見て、マールボロを吸おうとかMOTOGPのヤマハM1に
描かれているゴーロワーズを見てフランスのタバコがいいと
考えるのだろうかというものです。
吸いたい人間は宣伝や企業の広報活動など関係なく吸いたい
だろうし、私のようにタバコが嫌いな人はF1やMOTOGP
を見ていようとも吸いたいとは思わないのではないでしょうか。
アダルトビデオを見たい人は別に宣伝がなくても見たがるし、
見たくない人は見ないでしょうしね。
権力を有している側が表現を規制するということに
対する危惧を抱いてしまう私です。健康に悪いことの
広告は駄目だということがどんどん拡大解釈されて、チョコレート
やケーキのメーカーが宣伝できなくなったり、ファースト
フードや清涼飲料水はメーカー名を消さなければいけない
なんてことにならないか心配になる私です。
規制ですね。
よくタバコの広告が若い人達にいいイメージを与えて、
それが若年層の喫煙に繋がるという話があり、それを
断ち切るためにF1やMOTOGPでタバコ広告に厳しい
国では宣伝ができないようにしています。
(近年、F1やMOTOGPがカタールや中国という
国で開催しているのは、このことも大きな理由の一つ)
私が疑問に思うのは果たして、本当にF1のフェッラーリを
見て、マールボロを吸おうとかMOTOGPのヤマハM1に
描かれているゴーロワーズを見てフランスのタバコがいいと
考えるのだろうかというものです。
吸いたい人間は宣伝や企業の広報活動など関係なく吸いたい
だろうし、私のようにタバコが嫌いな人はF1やMOTOGP
を見ていようとも吸いたいとは思わないのではないでしょうか。
アダルトビデオを見たい人は別に宣伝がなくても見たがるし、
見たくない人は見ないでしょうしね。
権力を有している側が表現を規制するということに
対する危惧を抱いてしまう私です。健康に悪いことの
広告は駄目だということがどんどん拡大解釈されて、チョコレート
やケーキのメーカーが宣伝できなくなったり、ファースト
フードや清涼飲料水はメーカー名を消さなければいけない
なんてことにならないか心配になる私です。
パリダカより悲しい知らせ
2005年1月11日 スポーツ月曜日のホセマヌエル・ペレスの事故死だけでなく
今日、悲しい知らせがインターネットで世界中を駆け巡り
ました。
パリダカを制したこともあるファブリッツィオ・メオーニが
(fabrizio meoni)今日のレース中事故死しました。
ゴロワーズカラーのKTMを駆り、モーリタニア砂漠を走っていた
このイタリア人ですが、あの砂漠の美しさと同居する悪魔に
飲みこまれ、周りのサポートのかいなく搬送先で亡くなりました。
一度会ってみたいなと思っていたパリダカウィナーの彼の
死というのがまだ何だか現実的に理解できないのですが、
私がよく見るレース関係のイタリア語、フランス語、英語の
HPでもすでに報じられています。
レースを見ていると悲劇的なことというのは甘受しなければ
いけないのですが、あまりにも辛い情報でした。
彼の冥福を祈りたいと思います。私らしいネタを期待して
いた皆様、申し訳ありませんが、今日は何も考えられません。
今日、悲しい知らせがインターネットで世界中を駆け巡り
ました。
パリダカを制したこともあるファブリッツィオ・メオーニが
(fabrizio meoni)今日のレース中事故死しました。
ゴロワーズカラーのKTMを駆り、モーリタニア砂漠を走っていた
このイタリア人ですが、あの砂漠の美しさと同居する悪魔に
飲みこまれ、周りのサポートのかいなく搬送先で亡くなりました。
一度会ってみたいなと思っていたパリダカウィナーの彼の
死というのがまだ何だか現実的に理解できないのですが、
私がよく見るレース関係のイタリア語、フランス語、英語の
HPでもすでに報じられています。
レースを見ていると悲劇的なことというのは甘受しなければ
いけないのですが、あまりにも辛い情報でした。
彼の冥福を祈りたいと思います。私らしいネタを期待して
いた皆様、申し訳ありませんが、今日は何も考えられません。
古きを尋ねたものから新しきを感じる
2005年1月10日 日常お笑いグループの安田大サーカスは最近気になるのですが
彼らは空家になっている古い笑いを現在進行形でやっている
気がします。今回はそんなお話を。
かつて80年代に文化放送による番組でミスDJリクエスト
パレードという深夜放送がありました。
この番組の裏というのがニッポン放送がオールナイトニッポン、
TBSがパックインミュージック。面白いお笑いの人間や
才能のあるミュージシャンに話す場を与えて若いマーケットに
大変人気がありました。
そんなところに文化放送が女子大生という芸能界という畑とは
違って、それほど話の技術もなければ、音楽的、お笑い的な
才能や背景のない人をDJにして番組を作りました。
番組はオールナイトやパックインミュージックと違って、
レストークモアミュージック。当時流行の真っ只中にあった
第二次ブリティッシュインベイジョンの連中のナンバーを
がんがん掛けまくるという内容。
これは実は昔の糸居さんのいうところの50年代のロックという
ものが出てきた頃のアメリカのラジオでやっていたスタイル
のようです。曲をどんどんかける。アメリカの放送局は一人で
何でもやる人が多く、レコードをターンテーブルにどんどん
乗せてかける姿が競馬のジョッキーに似ているところから
ディスクジョッキーという言葉が生まれたのはアメリカであり、
これ理由が語源です。
このDJのあり方や語源に忠実な放送の進め方をして当時のお笑
いタレントやミュージシャンによる番組に飽きてきた
連中で今ほどラジオ局がなかったころにブリティッシュイン
ベイジョンという大きなムーブメントと女子大生ブームを使っ
て新しく番組を作ったところに新しさを感じて、多くのリスナーを
獲得しました。
名古屋のCBCで同じように深夜番組を作ったところ、
50分枠で時間的な都合からミスDJほど曲をかけることも
できず、一つのアルバムから確信犯的に5曲もかけるような冒険も
できずに何だか仏を作って魂を入れないようなことになり
失敗したということがありました。(前の番組のリスナー
も欲しかったのか、全て血を入れ替えずに以前のしゃべり
まくるスタイルのタレントを残していたところに戦略上の
ミスを感じさせたというか、全てを投げ捨ててギャンブルを
したくなかった小心者の冒険を感じた。)
名古屋で10年ほど前にできたZIPーFMというのは
それまでFMはFM愛知しかなかった名古屋人にとって
すごく新しく思えたのですが、これはどうもZIPの製作陣
は80年代の文化放送の成功と同時期のCBCの失敗をよく
見ていてかなり参考にしていたような気がしました。
後発だからマーケットを得るためによそがやらないことを
多いにやる必要性があった。
具体的にはFM愛知やAMのCBCや東海とのタレント
がかぶるのを避けたということや英語中心でやった方が
ロックやポップを続けてかけるのにスムーズであるため
英語がわかるDJを重用したことであり、洋楽中心の
プレイを展開していったことなどが挙げられるでしょう。
多くのZIP好きのリスナーのジッピーが「こんな放送局を
待っていた。」とか「くだらない話よりも曲をたくさん。」と
いう意見を言っていたところを耳にしておしゃべりが多く、
昔から同じ時間に同じことをつまらないにも関わらずやって
いても様々な政治的な理由やスポンサーの好意でなくなること
がない番組を続ける放送局に飽きていた車通学、通勤の多い
名古屋人ラジオリスナーにとって、レストークモアミュージック
というやり方のZIP−FMは斬新に新しく映ったと思います。
しかし、私の理解ではこれは実は本来のDJという意味に立ち
かえったルネッサンスだと思いましたね。(そのルネッサンス
が多くの名古屋人にとって美しくまぶしいものだったのだと思い
ます。)
同じような意味合いで今の私にとっては安田大サーカスが
すごく新しく見えます。やっていることはレッツゴー三匹の
ようにトリオという形態でいかにもお笑いという見てくれの
連中の中で一人が話をまわしながら周りを動かしてわかりや
すい展開の老若男女問わずわかる話でボケと突っ込みを繋げて
笑いを取っていく。
ところがこれがかつての漫才ブームのツービート、B&B
といった早口でしゃべりまくる漫才やここ数年のダウンタウン松本
や130R板尾のような見る側にも理解力が求められるシニカルな
笑いを通過してきた私にとっては安田大サーカスの笑いは非常に
新しく見える。本人が「べたでっせー。」とシャウトしていますが
そのベタが斬新に見えるというか最先端に見えてくる。
多分、多くの日本人にとっても同じように映っていることでしょう。
あのメンバー編成を考えて、ああいうネタをやりまくる
リーダーはかなりの戦略家であり、ある種マキャベリストでは
ないかと思います。(ただ、あのテンションを維持しながら
あのメンバーを使って笑えるネタを考えるのは相当大変な
ことだと思いますが)
いつの世にも古いものに様々なアレンジを加え、時代状況を
読み取った人が新しいモノを作り、果実を得ることができるので
はないか。そんなことを安田大サーカスから感じる最近の
私です。
モノの例えに安田大サーカスを使って、氷川君の名前を出さない
のが私らしいでしょ。
彼らは空家になっている古い笑いを現在進行形でやっている
気がします。今回はそんなお話を。
かつて80年代に文化放送による番組でミスDJリクエスト
パレードという深夜放送がありました。
この番組の裏というのがニッポン放送がオールナイトニッポン、
TBSがパックインミュージック。面白いお笑いの人間や
才能のあるミュージシャンに話す場を与えて若いマーケットに
大変人気がありました。
そんなところに文化放送が女子大生という芸能界という畑とは
違って、それほど話の技術もなければ、音楽的、お笑い的な
才能や背景のない人をDJにして番組を作りました。
番組はオールナイトやパックインミュージックと違って、
レストークモアミュージック。当時流行の真っ只中にあった
第二次ブリティッシュインベイジョンの連中のナンバーを
がんがん掛けまくるという内容。
これは実は昔の糸居さんのいうところの50年代のロックという
ものが出てきた頃のアメリカのラジオでやっていたスタイル
のようです。曲をどんどんかける。アメリカの放送局は一人で
何でもやる人が多く、レコードをターンテーブルにどんどん
乗せてかける姿が競馬のジョッキーに似ているところから
ディスクジョッキーという言葉が生まれたのはアメリカであり、
これ理由が語源です。
このDJのあり方や語源に忠実な放送の進め方をして当時のお笑
いタレントやミュージシャンによる番組に飽きてきた
連中で今ほどラジオ局がなかったころにブリティッシュイン
ベイジョンという大きなムーブメントと女子大生ブームを使っ
て新しく番組を作ったところに新しさを感じて、多くのリスナーを
獲得しました。
名古屋のCBCで同じように深夜番組を作ったところ、
50分枠で時間的な都合からミスDJほど曲をかけることも
できず、一つのアルバムから確信犯的に5曲もかけるような冒険も
できずに何だか仏を作って魂を入れないようなことになり
失敗したということがありました。(前の番組のリスナー
も欲しかったのか、全て血を入れ替えずに以前のしゃべり
まくるスタイルのタレントを残していたところに戦略上の
ミスを感じさせたというか、全てを投げ捨ててギャンブルを
したくなかった小心者の冒険を感じた。)
名古屋で10年ほど前にできたZIPーFMというのは
それまでFMはFM愛知しかなかった名古屋人にとって
すごく新しく思えたのですが、これはどうもZIPの製作陣
は80年代の文化放送の成功と同時期のCBCの失敗をよく
見ていてかなり参考にしていたような気がしました。
後発だからマーケットを得るためによそがやらないことを
多いにやる必要性があった。
具体的にはFM愛知やAMのCBCや東海とのタレント
がかぶるのを避けたということや英語中心でやった方が
ロックやポップを続けてかけるのにスムーズであるため
英語がわかるDJを重用したことであり、洋楽中心の
プレイを展開していったことなどが挙げられるでしょう。
多くのZIP好きのリスナーのジッピーが「こんな放送局を
待っていた。」とか「くだらない話よりも曲をたくさん。」と
いう意見を言っていたところを耳にしておしゃべりが多く、
昔から同じ時間に同じことをつまらないにも関わらずやって
いても様々な政治的な理由やスポンサーの好意でなくなること
がない番組を続ける放送局に飽きていた車通学、通勤の多い
名古屋人ラジオリスナーにとって、レストークモアミュージック
というやり方のZIP−FMは斬新に新しく映ったと思います。
しかし、私の理解ではこれは実は本来のDJという意味に立ち
かえったルネッサンスだと思いましたね。(そのルネッサンス
が多くの名古屋人にとって美しくまぶしいものだったのだと思い
ます。)
同じような意味合いで今の私にとっては安田大サーカスが
すごく新しく見えます。やっていることはレッツゴー三匹の
ようにトリオという形態でいかにもお笑いという見てくれの
連中の中で一人が話をまわしながら周りを動かしてわかりや
すい展開の老若男女問わずわかる話でボケと突っ込みを繋げて
笑いを取っていく。
ところがこれがかつての漫才ブームのツービート、B&B
といった早口でしゃべりまくる漫才やここ数年のダウンタウン松本
や130R板尾のような見る側にも理解力が求められるシニカルな
笑いを通過してきた私にとっては安田大サーカスの笑いは非常に
新しく見える。本人が「べたでっせー。」とシャウトしていますが
そのベタが斬新に見えるというか最先端に見えてくる。
多分、多くの日本人にとっても同じように映っていることでしょう。
あのメンバー編成を考えて、ああいうネタをやりまくる
リーダーはかなりの戦略家であり、ある種マキャベリストでは
ないかと思います。(ただ、あのテンションを維持しながら
あのメンバーを使って笑えるネタを考えるのは相当大変な
ことだと思いますが)
いつの世にも古いものに様々なアレンジを加え、時代状況を
読み取った人が新しいモノを作り、果実を得ることができるので
はないか。そんなことを安田大サーカスから感じる最近の
私です。
モノの例えに安田大サーカスを使って、氷川君の名前を出さない
のが私らしいでしょ。
よくテレビや活字メディアで欧米諸国ではということを
耳にしたり、目にしたりすることがあります。
どうも、この言葉の使われ方にすごい違和感を感じる
私です。
最近、トルコのEU加入についてそれまでの空想的な話から
進歩して、現実的な議論が出てきましたが、多くの日本人に
とってトルコがヨーロッパの国なのかという素直な感想を抱く
人が多いと思います。
また、スペインとフランスという隣国でもかなり違うわけで
これがバルト三国とルーマニアなどといったら相当違いが
あります。
また、日本人の多くがヨーロッパ諸国というと、大体、
G7メンバーの国を想像することが多いと思います。
欧米という言葉を聞いてキプロスを真っ先に思い浮かべる
人は少ないと思うし、未だにチェコとスロバキアを一つの
国だと考えているような人も多いと思う。私なんぞは
政治家のレベルとして90年代のチェコとスロバキアのリーダー
を比較するとハベルとメチアルは大きな違いがあったと思うし、
経済力、失業率などもチェコとスロバキアでかなり違いを
感じましたけどね(だから言葉や文化が近いチェコの
大都市であるプラハに出稼ぎにくるスロバキア人が多い)
どうもヨーロッパを周ってきた後から日本のメディア上で
使われる欧米という言葉に違和感を感じる私です。
欧米という言葉を使うことで得したり、物事を容易に進める
ことがあって欧米という言葉を影響力のある人達が
使っているそんな気がする私です。
耳にしたり、目にしたりすることがあります。
どうも、この言葉の使われ方にすごい違和感を感じる
私です。
最近、トルコのEU加入についてそれまでの空想的な話から
進歩して、現実的な議論が出てきましたが、多くの日本人に
とってトルコがヨーロッパの国なのかという素直な感想を抱く
人が多いと思います。
また、スペインとフランスという隣国でもかなり違うわけで
これがバルト三国とルーマニアなどといったら相当違いが
あります。
また、日本人の多くがヨーロッパ諸国というと、大体、
G7メンバーの国を想像することが多いと思います。
欧米という言葉を聞いてキプロスを真っ先に思い浮かべる
人は少ないと思うし、未だにチェコとスロバキアを一つの
国だと考えているような人も多いと思う。私なんぞは
政治家のレベルとして90年代のチェコとスロバキアのリーダー
を比較するとハベルとメチアルは大きな違いがあったと思うし、
経済力、失業率などもチェコとスロバキアでかなり違いを
感じましたけどね(だから言葉や文化が近いチェコの
大都市であるプラハに出稼ぎにくるスロバキア人が多い)
どうもヨーロッパを周ってきた後から日本のメディア上で
使われる欧米という言葉に違和感を感じる私です。
欧米という言葉を使うことで得したり、物事を容易に進める
ことがあって欧米という言葉を影響力のある人達が
使っているそんな気がする私です。
我が愛しのライダー アルノー・ヴァンサン二回目
2005年1月8日 スポーツ前回に続いてアルノー・ヴァンサンのことを。
ただし、時は02年に移ります。
チームアスパーで初勝利を挙げた99年、二勝目を挙げた
2000年と順調に行くかに思えたが様々な要因が絡まり
尻すぼみに終わり、01年はホンダ系のチームで戦うも
雨のオランダとブラジルで目立った以外は見るべきところも
なく、シーズンオフは就職活動に明け暮れることとなりました。
イタルジェットやホンダ系、アプリリア系のチームと話し合いを
持つも、多くのチームがお金を持ちこめるライダーか若い
イタリア人やスペイン人を好み(これもスポンサー受けがいい
という理由なのですが)フランス人である彼はなかなか話が
まとまらず越年。開幕が近づいてきた二月にアプリリアを
使うイタリアのチームから「お金は払えない。用意できるのは
アプリリアのマシンとダンロップタイヤ、そして君のライディング
する機会だけ」と言ってくれた(つまり巨額の持参金やスポンサー
を求めなかった)チームで参戦できることとなりました。
再びデビューイヤーのような金銭的に苦しい状況になった
アルノーですが、何とかレースはできることになりました。
開幕の鈴鹿。レース序盤はシュティーブ・イェンクナーと
ヤロスラブ・フーレシュの激戦。しかし、イェンクナーが
緊急のピットインで脱落し、フーレシュの一人旅となったが
これがクラッシュして、リタイヤ。予選16番手の彼が雨の
コンディションで中盤から独走。終盤他のライダーに迫られた
ものの何とか振りきり2000年の南アフリカ以来の優勝と
なりました。
シーズン開幕前は失職の危機にあった彼にとっては信じられない
開幕戦でしたね。レース後、シャークヘルメットの仮設オフィス
でラコニとその時のラコニの彼女、シャークヘルメットの担当
者と共に寿司を食いながら喜びを分かち合った我々でした。
その後、南アフリカを制し、開幕ニ連勝。シーズン中盤に入って
も調子を落とすことなく、イギリス、ドイツと連勝し(125での
連勝記録というのはこの時以来ニレース連続優勝がいない)
ポルトガルも制し、日本にポイントリーダーで乗りこんで来ました。
タイトルはポッジャーリとの一騎打ち。タイトルの可能性が
高くなっているが彼は「最後までレースもシーズンもわからない。」
彼が80年代のシーズンの80ccクラスの最終戦の最終ラップの
最終コーナーで転んでタイトルをさらわれたライダーのことを
知っているのか聞きませんでしたが、慎重な彼の性格が
出たような答えでした。一方ライバルのポッジャーリはとにかく
勝つだけというディフェンディングチャンプでありながら
挑戦者のような話ぶりでした。
そんなアルノーはもてぎで優勝できるように思えながらマシントラ
ブルによって、残り二周で優勝争いからなだめるようにゴールし、
ポッジャーリを引き離すどころか接近を許しました。
その翌週のマレーシアではポッジャーリが転んで、後方に沈んだ
にも関わらず、トップ集団がゴールする前にチェッカードフラッグ
が振られて、ルール上、最終周の前の周のゴールライン通過時
が正式裁定となる不運で、勝ったアルノーですがポイント差を
広げることができず、オーストラリアではマシンが直線で伸びを
欠き四位が精一杯。タイトルは最終戦のスペインのヴァレンシア
に持ち越されました。
シーズン前は失業を覚悟したノーギャラで走る苦労人のフランス人
か、ディフェンディングチャンプで結構なお金をもらい、メーカー
から直接サポートを受けるサンマリノ人の王座防衛なるか、
全てはリカルドトルモサーキットで決まります。
雨が得意な両者に与えられた舞台は晴れあがったヴァレンシア。
プレッシャーがある中、アルノーは予選トップ。そして、スタート
直前からプレッシャーが抜け、不思議と晴れやかな気持ちで
走ることができた彼はトップ争いを展開。その一方、今一つ
マシンセッティングがしっくりこなかったらしいポッジャーリは
無理して走っていて無理がたたったのか、レース中盤コースアウト。
これで楽になったアルノーは優勝することも可能だったが
終盤無理な競り合いをすることなく二位キープで2000年
オリヴィエ・ジャックが250ccを決めて以来のフランス人
世界チャンピオンとなりました。
彼の泣き顔、祝福するヴァンサン・フィリップやシャークヘル
メットのクルー(ウィニングランでフランス国旗にシャークの
ロゴが入っていましたね)私も知っているチームスタッフを
見ていて私も涙が出てきました。私は残念ながら現場で見られ
なかったのですが、私もテレビで見ていて胸が熱くなりました。
あきらめが悪いことが美しいことを彼は私に教えてくれましたね。
なかなか地方選手権をやるにもお金がなくて、他のライダーの
ためにメカニックをやっていたこと。世界に来ても最初は
型落ちのマシンで弱小チームで走っていたこと。初優勝まで
遠かったこと。そして、失業の危機があり、走れることになった
もののノーギャラで走ることになったことなど、決して順風
ではなかった彼のレース人生ですが、人の苦しみや悲しみ、つらさ
しんどさを理解できる彼だからこそ、これほど感動を与えること
ができたのだと思います。
そんな彼がKTMとの話し合いに応じ、ゼッケン1で100万
ドルをもらって走ることになると知った時にようやく彼も
お金の面でも恵まれた状態で走れるなと思ったのですが、
そこから、しんどい日々が待っていました。
しかし、彼が決してあきらめることがないライダーだと信じて
います。昨年のシーズンでも雨のオランダの予選などでとんでもない
才能を見せてくれたように道具的にチームのレベル的に苦しく
とも光る瞬間を見せてくれること、そして決して希望の灯を
自ら消さないことを私は知っています。そんな彼は間違いなく
私の愛しのライダーであります。
ただし、時は02年に移ります。
チームアスパーで初勝利を挙げた99年、二勝目を挙げた
2000年と順調に行くかに思えたが様々な要因が絡まり
尻すぼみに終わり、01年はホンダ系のチームで戦うも
雨のオランダとブラジルで目立った以外は見るべきところも
なく、シーズンオフは就職活動に明け暮れることとなりました。
イタルジェットやホンダ系、アプリリア系のチームと話し合いを
持つも、多くのチームがお金を持ちこめるライダーか若い
イタリア人やスペイン人を好み(これもスポンサー受けがいい
という理由なのですが)フランス人である彼はなかなか話が
まとまらず越年。開幕が近づいてきた二月にアプリリアを
使うイタリアのチームから「お金は払えない。用意できるのは
アプリリアのマシンとダンロップタイヤ、そして君のライディング
する機会だけ」と言ってくれた(つまり巨額の持参金やスポンサー
を求めなかった)チームで参戦できることとなりました。
再びデビューイヤーのような金銭的に苦しい状況になった
アルノーですが、何とかレースはできることになりました。
開幕の鈴鹿。レース序盤はシュティーブ・イェンクナーと
ヤロスラブ・フーレシュの激戦。しかし、イェンクナーが
緊急のピットインで脱落し、フーレシュの一人旅となったが
これがクラッシュして、リタイヤ。予選16番手の彼が雨の
コンディションで中盤から独走。終盤他のライダーに迫られた
ものの何とか振りきり2000年の南アフリカ以来の優勝と
なりました。
シーズン開幕前は失職の危機にあった彼にとっては信じられない
開幕戦でしたね。レース後、シャークヘルメットの仮設オフィス
でラコニとその時のラコニの彼女、シャークヘルメットの担当
者と共に寿司を食いながら喜びを分かち合った我々でした。
その後、南アフリカを制し、開幕ニ連勝。シーズン中盤に入って
も調子を落とすことなく、イギリス、ドイツと連勝し(125での
連勝記録というのはこの時以来ニレース連続優勝がいない)
ポルトガルも制し、日本にポイントリーダーで乗りこんで来ました。
タイトルはポッジャーリとの一騎打ち。タイトルの可能性が
高くなっているが彼は「最後までレースもシーズンもわからない。」
彼が80年代のシーズンの80ccクラスの最終戦の最終ラップの
最終コーナーで転んでタイトルをさらわれたライダーのことを
知っているのか聞きませんでしたが、慎重な彼の性格が
出たような答えでした。一方ライバルのポッジャーリはとにかく
勝つだけというディフェンディングチャンプでありながら
挑戦者のような話ぶりでした。
そんなアルノーはもてぎで優勝できるように思えながらマシントラ
ブルによって、残り二周で優勝争いからなだめるようにゴールし、
ポッジャーリを引き離すどころか接近を許しました。
その翌週のマレーシアではポッジャーリが転んで、後方に沈んだ
にも関わらず、トップ集団がゴールする前にチェッカードフラッグ
が振られて、ルール上、最終周の前の周のゴールライン通過時
が正式裁定となる不運で、勝ったアルノーですがポイント差を
広げることができず、オーストラリアではマシンが直線で伸びを
欠き四位が精一杯。タイトルは最終戦のスペインのヴァレンシア
に持ち越されました。
シーズン前は失業を覚悟したノーギャラで走る苦労人のフランス人
か、ディフェンディングチャンプで結構なお金をもらい、メーカー
から直接サポートを受けるサンマリノ人の王座防衛なるか、
全てはリカルドトルモサーキットで決まります。
雨が得意な両者に与えられた舞台は晴れあがったヴァレンシア。
プレッシャーがある中、アルノーは予選トップ。そして、スタート
直前からプレッシャーが抜け、不思議と晴れやかな気持ちで
走ることができた彼はトップ争いを展開。その一方、今一つ
マシンセッティングがしっくりこなかったらしいポッジャーリは
無理して走っていて無理がたたったのか、レース中盤コースアウト。
これで楽になったアルノーは優勝することも可能だったが
終盤無理な競り合いをすることなく二位キープで2000年
オリヴィエ・ジャックが250ccを決めて以来のフランス人
世界チャンピオンとなりました。
彼の泣き顔、祝福するヴァンサン・フィリップやシャークヘル
メットのクルー(ウィニングランでフランス国旗にシャークの
ロゴが入っていましたね)私も知っているチームスタッフを
見ていて私も涙が出てきました。私は残念ながら現場で見られ
なかったのですが、私もテレビで見ていて胸が熱くなりました。
あきらめが悪いことが美しいことを彼は私に教えてくれましたね。
なかなか地方選手権をやるにもお金がなくて、他のライダーの
ためにメカニックをやっていたこと。世界に来ても最初は
型落ちのマシンで弱小チームで走っていたこと。初優勝まで
遠かったこと。そして、失業の危機があり、走れることになった
もののノーギャラで走ることになったことなど、決して順風
ではなかった彼のレース人生ですが、人の苦しみや悲しみ、つらさ
しんどさを理解できる彼だからこそ、これほど感動を与えること
ができたのだと思います。
そんな彼がKTMとの話し合いに応じ、ゼッケン1で100万
ドルをもらって走ることになると知った時にようやく彼も
お金の面でも恵まれた状態で走れるなと思ったのですが、
そこから、しんどい日々が待っていました。
しかし、彼が決してあきらめることがないライダーだと信じて
います。昨年のシーズンでも雨のオランダの予選などでとんでもない
才能を見せてくれたように道具的にチームのレベル的に苦しく
とも光る瞬間を見せてくれること、そして決して希望の灯を
自ら消さないことを私は知っています。そんな彼は間違いなく
私の愛しのライダーであります。
我が愛しのライダー アルノー・ヴァンサン
2005年1月7日 スポーツ私の好きなライダーというのは何人かいますが、今回は
2002年の世界グランプリ125ccクラスチャンピオンの
アルノー・ヴァンサンについて書いてみようと思います。
私とアルノーとの初めての出会いは98年の鈴鹿でした。
前年のフランス選手権、ヨーロッパ選手権を好成績を
残し、世界の舞台にたどり着いた彼のことを実は私は
知りませんでした。
この年の開幕の舞台の鈴鹿サーキットに着き、当時の友人に
頼まれて白のTシャツにライダーのサインをできるだけ
入れてきて欲しいというリクエストに応えるためにTシャツと
マジックを持っていた時に目が合ったのがレジス・ラコニ
でした。彼の隣で話していたのが、私とは旧知の仲のウィリアム・
コスト。そして、見慣れない小柄な男がアルノーでした。
レジスやウィリアムにサインを頼むというのは何だか
気恥ずかしいものがありましたが、理由を話して、彼らに
サインをしてもらったら、この見慣れないフランス人も
サインをしてくれました。その時に彼がライダーであること
を知ったわけです。
まぁ、日本人がフランス語を話すというのは特別ですし、
レース業界のフランス人というのは日本人が外国語を話すこと
の大変さを知っているので、非常に印象に残ったようでした。
逆に彼から強い印象を受けたのは、その後、この98年のイタ
リアGPのムジェッロに行ったときのこと。彼は当時、
イタリアのAGVヘルメットを使っていたのですが、
よくこのイタリアヘルメットのレーシングサービスのテントに
やってきて、担当のマウリツィオ・ヴィターリ
(maurizio vitali。かつて125、250のライダー)にレース
のことやら、技術的なことを尋ねにやってくるのですが、これが
このフランス人はイタリア語を話していました。
これはちょっとしたサプライズでしたね。まぁ、私が
何でイタリア語を話せるのか聞いたところ、彼の口から
「イタリア語はこの業界では重要だし必要だと思うからね。」
という言葉が返ってきました。
また、彼は非常に勉強熱心でしたね。マウリツィオにムジェッロ
の走り方、攻略の方法などをイタリア語で聞いていたリ、
私に日本人や日本のメーカーと付き合う時にどうしたらいいのか
どういったことに留意した方がいいのかなども尋ねてきました。
ということでサイクルサウンズ誌において近藤氏が
02年の終わりに「フランス語しか話せない地味なフランス人」
などと書いていたのは大きな間違いです。私は彼のイタリア語
を98年にしんどい思いをして自腹をかなり切った時に
理解していました。パスが簡単に手に入って、会社の出張費で
サーキットに行ける状態でも物事を知ろうとしないとこんなミス
を犯し、さらに私が指摘しても直さないのは問題だと思います。
話がそれてしまいました。アルノーのことに戻ります。
アルノーのライダーしての資質に驚いたのがその年の
フランスGPの日曜日の朝の雨の中のウォームアップでした。
まさに雨に足元をすくわれるライダーが多いなか、この時の
アルノーと眞子君は特別でした。ウォームアップが終わり、
彼に祝福の言葉をかけると喜んでいましたね。そして、
雨は大好きだと話していました。
二年落ちのマシン。ダンロップのスタンダードタイヤ。
予算が厳しく、転んだらお金がかかって一大事という環境の
チーム。そんな中で時間があれば、速く走るために自分で
できることは全てやっているような印象を受けました。
そんな型落ちで特別ではないタイヤでありながら輝いて
みせたのがドイツのザクセンリンク。アルノーは予選こそ
よくなかったものの、周を重ねるに連れてどんどん順位を上げて、
レース終盤には何と三位を走行。そして、マルコ・メランドリの
転倒で大殊勲の二位。彼のキャリア初の表彰台となりました。
イタリアでこのレースをテレビで見ていたのですが、
これは私もうれしかったですね。道具を使うモータースポーツで
道具の良し悪しがかなり成績とリンクするこのスポーツで
二年落ちのバイクで何と二位。道具の重要性もあるが
マシン的にハンディを背負っていてもライダーの努力によって
好成績を収めることができることを見せてくれました。
シーズン当初はフランス人以外には知られていなかった彼が
関係者の間で評価を高めていく、それをリアルタイムで見ること
ができたのはうれしかったですね。私がイモラやバルセロナで
会った時も翌年のシーズンに向けた話し合いをし始めていたよ
うでした。
そんな彼の一年目のシーズンが終わり、彼はチームアスパーに
移籍となりました。かつて80cc、125ccクラスで世界タイトル
を獲ったホルへ・マルチネスが代表を務めるチームです。マシン
はアプリリア、タイヤはブリヂストン。アプリリアとの関係も
良好でエンジニアも本社レース部門からも来ていました。
勝てるチームに移った彼と再会したのは99年開幕戦の舞台。
マレーシアのセパンでした。
髪型を変えたアルノーと顔を合わせ、いつものように話して
いたところに見慣れないフランス人。アルノーがこのフランス人
を紹介してくれました。彼の名前はランディ・ドゥピュニエ。
この時から私はランディとも会えば話をするような仲になり
ました。
この時のマレーシア。アルノーはキャリア初となるポール
ポジションを得ました。タイムの出方もいい。自信を深めている
ようにも見えて、この週末、ようやく彼が初勝利を得るかと思い
ました。
翌日のレース。彼はトップグループで優勝争いをしていました。
チャンスがあるなという思いが強い願望になり、緊張感を
感じながらレースを見ていたところで目に入ってきたのが彼の
不可解な転倒でした。
最終コーナーでマシントラブルを感じさせないスピン。
とても残念でしたね。優勝は東君。二位がアルサモラ、三位に
スカルヴィーニ。再スタート後のアルノーは四位。
BSタイヤが1−3フィニッシュ。そして四位のアルノーという
開幕戦でした。
その翌週のもてぎ。予選一回目の彼は十位。その後、土曜、日曜
とずっと雨でウェットコンディションだったのですが、
フリー走行、二回目の予選、決勝朝のウォームアップと
全てトップタイム。白眉だったのが日曜の朝で、彼と2番手の
ライダーとのタイム差が1.6秒。これはもう半端でない
タイム。計時ミスじゃないかと思ったほどで雨の彼は手が
つけられないことを十二分に理解できました。
その、アルノー。一周目を慎重に走り、これから追い上げようと
したところで転倒。さらにもう再スタートして再び転倒。
勝てるレースを落としました。
次にやってきたチャンスがイタリアのムジェッロ。予選も
好調で、決勝も無駄のない走りでトップグループで走行し、
最終ラップで勝負に行けるかなと思ったところでハイサイド
しそうになり、勝てるレースを落としました。
その二週後のバルセロナ。彼はアルサモラとの競り合いに
なり、近づくが離されるという展開になったレースでスペイン人の
ミスにも助けられ初優勝を上げました。
何だか長かったというか、待ちくたびれたというか、初優勝の時
というのは特別な空気を感じるのですが、この時はすごくうれし
かったですね。表彰台の上で喜んでいるライダーとチームマネー
ジャー。彼らを見ているうちに涙が出てきました。
これ以降の話は時を改めて。早ければ明日にでも。
2002年の世界グランプリ125ccクラスチャンピオンの
アルノー・ヴァンサンについて書いてみようと思います。
私とアルノーとの初めての出会いは98年の鈴鹿でした。
前年のフランス選手権、ヨーロッパ選手権を好成績を
残し、世界の舞台にたどり着いた彼のことを実は私は
知りませんでした。
この年の開幕の舞台の鈴鹿サーキットに着き、当時の友人に
頼まれて白のTシャツにライダーのサインをできるだけ
入れてきて欲しいというリクエストに応えるためにTシャツと
マジックを持っていた時に目が合ったのがレジス・ラコニ
でした。彼の隣で話していたのが、私とは旧知の仲のウィリアム・
コスト。そして、見慣れない小柄な男がアルノーでした。
レジスやウィリアムにサインを頼むというのは何だか
気恥ずかしいものがありましたが、理由を話して、彼らに
サインをしてもらったら、この見慣れないフランス人も
サインをしてくれました。その時に彼がライダーであること
を知ったわけです。
まぁ、日本人がフランス語を話すというのは特別ですし、
レース業界のフランス人というのは日本人が外国語を話すこと
の大変さを知っているので、非常に印象に残ったようでした。
逆に彼から強い印象を受けたのは、その後、この98年のイタ
リアGPのムジェッロに行ったときのこと。彼は当時、
イタリアのAGVヘルメットを使っていたのですが、
よくこのイタリアヘルメットのレーシングサービスのテントに
やってきて、担当のマウリツィオ・ヴィターリ
(maurizio vitali。かつて125、250のライダー)にレース
のことやら、技術的なことを尋ねにやってくるのですが、これが
このフランス人はイタリア語を話していました。
これはちょっとしたサプライズでしたね。まぁ、私が
何でイタリア語を話せるのか聞いたところ、彼の口から
「イタリア語はこの業界では重要だし必要だと思うからね。」
という言葉が返ってきました。
また、彼は非常に勉強熱心でしたね。マウリツィオにムジェッロ
の走り方、攻略の方法などをイタリア語で聞いていたリ、
私に日本人や日本のメーカーと付き合う時にどうしたらいいのか
どういったことに留意した方がいいのかなども尋ねてきました。
ということでサイクルサウンズ誌において近藤氏が
02年の終わりに「フランス語しか話せない地味なフランス人」
などと書いていたのは大きな間違いです。私は彼のイタリア語
を98年にしんどい思いをして自腹をかなり切った時に
理解していました。パスが簡単に手に入って、会社の出張費で
サーキットに行ける状態でも物事を知ろうとしないとこんなミス
を犯し、さらに私が指摘しても直さないのは問題だと思います。
話がそれてしまいました。アルノーのことに戻ります。
アルノーのライダーしての資質に驚いたのがその年の
フランスGPの日曜日の朝の雨の中のウォームアップでした。
まさに雨に足元をすくわれるライダーが多いなか、この時の
アルノーと眞子君は特別でした。ウォームアップが終わり、
彼に祝福の言葉をかけると喜んでいましたね。そして、
雨は大好きだと話していました。
二年落ちのマシン。ダンロップのスタンダードタイヤ。
予算が厳しく、転んだらお金がかかって一大事という環境の
チーム。そんな中で時間があれば、速く走るために自分で
できることは全てやっているような印象を受けました。
そんな型落ちで特別ではないタイヤでありながら輝いて
みせたのがドイツのザクセンリンク。アルノーは予選こそ
よくなかったものの、周を重ねるに連れてどんどん順位を上げて、
レース終盤には何と三位を走行。そして、マルコ・メランドリの
転倒で大殊勲の二位。彼のキャリア初の表彰台となりました。
イタリアでこのレースをテレビで見ていたのですが、
これは私もうれしかったですね。道具を使うモータースポーツで
道具の良し悪しがかなり成績とリンクするこのスポーツで
二年落ちのバイクで何と二位。道具の重要性もあるが
マシン的にハンディを背負っていてもライダーの努力によって
好成績を収めることができることを見せてくれました。
シーズン当初はフランス人以外には知られていなかった彼が
関係者の間で評価を高めていく、それをリアルタイムで見ること
ができたのはうれしかったですね。私がイモラやバルセロナで
会った時も翌年のシーズンに向けた話し合いをし始めていたよ
うでした。
そんな彼の一年目のシーズンが終わり、彼はチームアスパーに
移籍となりました。かつて80cc、125ccクラスで世界タイトル
を獲ったホルへ・マルチネスが代表を務めるチームです。マシン
はアプリリア、タイヤはブリヂストン。アプリリアとの関係も
良好でエンジニアも本社レース部門からも来ていました。
勝てるチームに移った彼と再会したのは99年開幕戦の舞台。
マレーシアのセパンでした。
髪型を変えたアルノーと顔を合わせ、いつものように話して
いたところに見慣れないフランス人。アルノーがこのフランス人
を紹介してくれました。彼の名前はランディ・ドゥピュニエ。
この時から私はランディとも会えば話をするような仲になり
ました。
この時のマレーシア。アルノーはキャリア初となるポール
ポジションを得ました。タイムの出方もいい。自信を深めている
ようにも見えて、この週末、ようやく彼が初勝利を得るかと思い
ました。
翌日のレース。彼はトップグループで優勝争いをしていました。
チャンスがあるなという思いが強い願望になり、緊張感を
感じながらレースを見ていたところで目に入ってきたのが彼の
不可解な転倒でした。
最終コーナーでマシントラブルを感じさせないスピン。
とても残念でしたね。優勝は東君。二位がアルサモラ、三位に
スカルヴィーニ。再スタート後のアルノーは四位。
BSタイヤが1−3フィニッシュ。そして四位のアルノーという
開幕戦でした。
その翌週のもてぎ。予選一回目の彼は十位。その後、土曜、日曜
とずっと雨でウェットコンディションだったのですが、
フリー走行、二回目の予選、決勝朝のウォームアップと
全てトップタイム。白眉だったのが日曜の朝で、彼と2番手の
ライダーとのタイム差が1.6秒。これはもう半端でない
タイム。計時ミスじゃないかと思ったほどで雨の彼は手が
つけられないことを十二分に理解できました。
その、アルノー。一周目を慎重に走り、これから追い上げようと
したところで転倒。さらにもう再スタートして再び転倒。
勝てるレースを落としました。
次にやってきたチャンスがイタリアのムジェッロ。予選も
好調で、決勝も無駄のない走りでトップグループで走行し、
最終ラップで勝負に行けるかなと思ったところでハイサイド
しそうになり、勝てるレースを落としました。
その二週後のバルセロナ。彼はアルサモラとの競り合いに
なり、近づくが離されるという展開になったレースでスペイン人の
ミスにも助けられ初優勝を上げました。
何だか長かったというか、待ちくたびれたというか、初優勝の時
というのは特別な空気を感じるのですが、この時はすごくうれし
かったですね。表彰台の上で喜んでいるライダーとチームマネー
ジャー。彼らを見ているうちに涙が出てきました。
これ以降の話は時を改めて。早ければ明日にでも。
DERAMに見る健康性故の不健康性
2005年1月6日 音楽名古屋のナディアパークの中のヤマギワでDREAMの
CDを試聴していました。私がDREAMというと、
MOTOGPのモリワキドリームのことを書き始めると
思うのですが、今回はアイドルグループのDREAMです。
このDREAMというのはAVEX所属のガールグループ
で結構可愛い面子が揃っているのですが、今回のCDというのは
AVEXでかつて他のミュージシャンが発表しヒットした
曲を彼女達がカバーした作品です。
こういう企画というのは当たるか外すかはっきりしていますが、
これは少なくとも私的には駄目でしたね。全然駄目でした。
チェッカーズが当たってから、似たようなボーイズロックの
グループが出てきても当たらなかった過去があったように
モーニング娘。が出てきて同じようなコンセプトでガールグループ
がデビューしましたが、モーニング娘。ほどのインパクトを
残せずにいます。
モーニング娘。に関する論評は多くのメディアでされている
ので、それらと私が書くことがかぶってしまうところもある
と思うのですが、私があのグループに熱というか、元気さを
感じたのは新メンバーが加入し、新しい血というか才能が
入ることでメンバー間にかなりの緊張感が走りましたね。
ゴマキ加入後というのは彼女の才能に危機感を抱いた
先輩メンバーと後輩メンバーに軋轢があったのか、けんかしたり
したのかわかりませんが、先輩メンバーが面白いはずが
ないし、自分より才能がある人間が入ってくると、それに
負けまいと努力もするだろうし、足を引っ張ろうとするかも
しれない。
また、女性ばかりのグループということで牡丹と薔薇的な
愛と憎しみがうごめいてある種のエネルギーが生まれることも
あるでしょう。
そんな緊張感とインバランスなバランスの中で、とっ散らかり
ながらも最後は一つにまとまる曲を作ったつんくの楽曲や彼の詞が
絡まり、そこに当時の時代状況が混ざり、彼女達から毒というか
ガスが充満し、テレビ東京というマイナー性故に創造できた
不自由性故の自由性が土壌となって彼女達の大ブレイクに
繋がったと思います。
あくまで私の想像でしかないのですが、いいお笑いコンビが
決して仲が良くないように、きっとメンバー内では
メインボーカルを取りたいメンバーとあいつには負けたくない
ライバル意識や激しい自己主張や自我が若さ故のパワーと
ガッツを誘発し、時に暴発することや内乱状態になるような
テンションの高さがあったからこそミリオンセールスを記録
するような熱をもつことができたと思います。
(ある意味、たくさんのメンバーの中で目立とうとしたり
成功したいという気持ちをこれでもかこれでもかと口に
出したり、行動に表わしたりするというのは、かつてのエネルギー
があったころの自民党のようで組織は活性化すると思います)
ゴマキが入ってきてしばらくした頃のあの連中を見ていると
初対決のプロレスラー同士の戦いを感じさせるものがありました。
プロレスですから、当然ガチンコになってはいけないのですが、
そんな中でなめられてたまるかと思うレスラーがシュートを
仕掛けて脅したり、簡単に負けずに散々痛めつけたりすることは
あるでしょうし、お互い実際に初めて肌を合わせると考えて
いたのとは違うような動きをしてぎくしゃくしたりする。
そんな中でプロレス内の動きを離れた動きや攻撃が出てきて
お互いの気持ちもヒートしてプロレスに内包されている
格闘技性が突出し、ばちばちした戦いが生まれ見に来ていた
お客さんの興奮が生まれ、さらにその会場のムードに乗せられて、
プロレス的な演出や約束事が守られずにさらに格闘技性の強い
戦いが行われお客さんが満足する。
彼女達の最も元気があり、セールス的にも成功していた時という
のはそういったプロレスの試合におけるプロレスの試合であり
ながらプロレス的な演出や約束事から離れ格闘技やリアルな
ケンカになりそうになりながら何とかプロレスの範囲内で収めて
殺し合いでなく高いレベルの技術の攻防を見せていたような
試合に似たところがあったように思えてしかたない。
ビジュアル性を強調するところ。単に実力だけでは人気を
得ることができないところなど歌の世界とプロレスには
共通項がありますが、モーニング娘。にプロレスを感じること
もありました。つんくがプロレスファンかどうかはわかりませんが。
閑話休題。もし、DREAMが売れたいのならば激しい緊張感や
ある種の猥雑さや毒、欲望というものを有した方がいいと
思いますが、彼女達のCDからはそういったものを感じなかった
ですね。健康であることが不健康であると思えた私でした。
CDを試聴していました。私がDREAMというと、
MOTOGPのモリワキドリームのことを書き始めると
思うのですが、今回はアイドルグループのDREAMです。
このDREAMというのはAVEX所属のガールグループ
で結構可愛い面子が揃っているのですが、今回のCDというのは
AVEXでかつて他のミュージシャンが発表しヒットした
曲を彼女達がカバーした作品です。
こういう企画というのは当たるか外すかはっきりしていますが、
これは少なくとも私的には駄目でしたね。全然駄目でした。
チェッカーズが当たってから、似たようなボーイズロックの
グループが出てきても当たらなかった過去があったように
モーニング娘。が出てきて同じようなコンセプトでガールグループ
がデビューしましたが、モーニング娘。ほどのインパクトを
残せずにいます。
モーニング娘。に関する論評は多くのメディアでされている
ので、それらと私が書くことがかぶってしまうところもある
と思うのですが、私があのグループに熱というか、元気さを
感じたのは新メンバーが加入し、新しい血というか才能が
入ることでメンバー間にかなりの緊張感が走りましたね。
ゴマキ加入後というのは彼女の才能に危機感を抱いた
先輩メンバーと後輩メンバーに軋轢があったのか、けんかしたり
したのかわかりませんが、先輩メンバーが面白いはずが
ないし、自分より才能がある人間が入ってくると、それに
負けまいと努力もするだろうし、足を引っ張ろうとするかも
しれない。
また、女性ばかりのグループということで牡丹と薔薇的な
愛と憎しみがうごめいてある種のエネルギーが生まれることも
あるでしょう。
そんな緊張感とインバランスなバランスの中で、とっ散らかり
ながらも最後は一つにまとまる曲を作ったつんくの楽曲や彼の詞が
絡まり、そこに当時の時代状況が混ざり、彼女達から毒というか
ガスが充満し、テレビ東京というマイナー性故に創造できた
不自由性故の自由性が土壌となって彼女達の大ブレイクに
繋がったと思います。
あくまで私の想像でしかないのですが、いいお笑いコンビが
決して仲が良くないように、きっとメンバー内では
メインボーカルを取りたいメンバーとあいつには負けたくない
ライバル意識や激しい自己主張や自我が若さ故のパワーと
ガッツを誘発し、時に暴発することや内乱状態になるような
テンションの高さがあったからこそミリオンセールスを記録
するような熱をもつことができたと思います。
(ある意味、たくさんのメンバーの中で目立とうとしたり
成功したいという気持ちをこれでもかこれでもかと口に
出したり、行動に表わしたりするというのは、かつてのエネルギー
があったころの自民党のようで組織は活性化すると思います)
ゴマキが入ってきてしばらくした頃のあの連中を見ていると
初対決のプロレスラー同士の戦いを感じさせるものがありました。
プロレスですから、当然ガチンコになってはいけないのですが、
そんな中でなめられてたまるかと思うレスラーがシュートを
仕掛けて脅したり、簡単に負けずに散々痛めつけたりすることは
あるでしょうし、お互い実際に初めて肌を合わせると考えて
いたのとは違うような動きをしてぎくしゃくしたりする。
そんな中でプロレス内の動きを離れた動きや攻撃が出てきて
お互いの気持ちもヒートしてプロレスに内包されている
格闘技性が突出し、ばちばちした戦いが生まれ見に来ていた
お客さんの興奮が生まれ、さらにその会場のムードに乗せられて、
プロレス的な演出や約束事が守られずにさらに格闘技性の強い
戦いが行われお客さんが満足する。
彼女達の最も元気があり、セールス的にも成功していた時という
のはそういったプロレスの試合におけるプロレスの試合であり
ながらプロレス的な演出や約束事から離れ格闘技やリアルな
ケンカになりそうになりながら何とかプロレスの範囲内で収めて
殺し合いでなく高いレベルの技術の攻防を見せていたような
試合に似たところがあったように思えてしかたない。
ビジュアル性を強調するところ。単に実力だけでは人気を
得ることができないところなど歌の世界とプロレスには
共通項がありますが、モーニング娘。にプロレスを感じること
もありました。つんくがプロレスファンかどうかはわかりませんが。
閑話休題。もし、DREAMが売れたいのならば激しい緊張感や
ある種の猥雑さや毒、欲望というものを有した方がいいと
思いますが、彼女達のCDからはそういったものを感じなかった
ですね。健康であることが不健康であると思えた私でした。
イタリアにてローカリズムに覚醒す。
2005年1月5日 日常イタリアという国が歴史の浅い国だと言ったら驚く方も多い
かも知れません。しかし、これは事実です。
各地に王国があり、各々の王が支配していたのは間違いなき
真実です。映画監督のルキーノ・ヴィスコンティはミラノ公国
ヴィスコンティ家の流れを汲んでいる人でした。そんなところ
から芸術家でゲイの人が出てくるのがイタリアらしいところ
でもあります。
イタリアが統一されてほぼ現在の形にまとまったのが1861年。
その時にいわゆるイタリア語、つまり私がイタリア語という時
や多くの専門家が指摘する時にはイタリア語というのはフィレンツェ
方言をさすのですが、これをイタリアが統一された時に話して
いた人口というのは実に2パーセントに過ぎなかったという
話があります。
これは昔ほどではないのですが今もかなり濃厚に残っていまして
彼らイタリア人というのはパスポートが一緒なだけであって、
文化や風習、料理や言語というのはものすごい違いが存在します。
ミラノから70キロほど先にベルガモという町があります。
ここの出身のライダーでロベルト・ロカテッリという男が
いますが、彼の話す言葉はベルガモ訛りでして、最初聞いた
時には違和感をかなり感じました。
そのベルガモから近いところのブレーシャという町から
出てきたライダーというのが昨年イタリア選手権をカワサキの
600で制したクリスティアーノ・ミッリョラーティや
来季MOTOGPで走るフランコ・バッタイーニですが
彼らの言葉を初めて聞いた時にてっきりイタリア語に似ている
違う言葉を話すものだと思いましたね。これはジャンルイジ・
スカルヴィーニもそうです。(彼の父親になるともっとなまりが
強い。)
また、マックス・ビアッジの父親とかステーファノ・ペルジーニの
母親とかと話すと時々彼らのローマ訛りがきつ過ぎてわからなく
なることがあります。
ローマでそれですから初めてジャンルカ・ヴィッツィエッロと
話した時には彼のマテーラなまりにえらく驚きました。
そんな中央集権国家が成り立たない国で、郷土愛が
強いのか、郷土愛が強すぎるから中央集権国家が成り立たない
のか、あるいははたから地方分権国家のほうが全ての人に
とって快適だからこうなったのかはわかりませんが、とにかく
郷土愛が強く、それぞれの町が自分達の文化や風習、料理に
こだわりを持っています。
イタリアに98年居た経験からすると、イタリアでナショナリズム
を感じるのは、オリンピックとサッカーのワールドカップ
ぐらいですね。(長野五輪とフランスワールドカップの
時にまともにイタリアにいましたがその時のイタリア国旗の
数やら盛りあがり方などはまぁ、力道山が外人レスラーを
やっつけている時の日本人を思わせるものがありました。)
そんな国にいると、私は日本人でなくて、中央集権国家の
東京にお金やモノや政治、軍事といったものに対して
依存している田舎者の日本人ではなくて名古屋人としての
誇りを持ったほうがいいのではないかともともと反権力的な
ところを有する私は思うようになりました。
まぁ、もともとが少年ドラゴンズ会員で巨人が嫌いでしたし、
アメリカー東京によるマニュアル支配で成り立っているマクド
ナルド始めファーストフードではなく、矢場とんの味噌カツ
が好きで、大資本の百貨店ではなく、大須の商店街に魅力を
感じていた私ですが、そんな私が名古屋人としての意識が
ライダーのことをベルガモ人のライダーとかバイクの会社
のことをノアーレのメーカーなどと書いたり話したりする
イタリアという場で覚醒した気がしますね。
名古屋にヨーロッパから戻って来て名古屋の私が一番愛する
エリアの大須に行くと昔からやっているお店をまわり、
矢場とんでわらじかつを味噌かつで食べる。そして
名古屋弁で話す。東京は大きな存在だし、重要なのですが、
何も日本中がミニ東京にならなくてもいいし、名古屋に
関しては大須の商店街が古い名古屋と最先端の名古屋を
混在させて百貨店や大きなショッピングセンターにない
空気感を表出させる。このことが美しく思える私です。
でも、どういうわけか名古屋人のライダーは私が名古屋弁で
話すと嫌がるんだよなぁ。私が名古屋に対する愛情が
強いのにスポーツの世界で個人種目は
あくまで一人がトップに立つために努力すべきで、競輪の
中部ラインが協力して、他の選手の追いこみを抑えるとか
近畿ラインによる攻勢などというのがどうも私にはわからない
という発言がお気に召さなかったのか他の理由があるのか
わかりませんが。
(競輪がKEIRINとなり、国際化が進み世界から選手が
来るようになると、イギリス人とオーストラリア人による
旧大英帝国連邦ラインだとかウクライナとラトビアの
旧ソビエト連邦ラインなどというのが構成されるのでしょうか。
私にはわかりませんが。)
かも知れません。しかし、これは事実です。
各地に王国があり、各々の王が支配していたのは間違いなき
真実です。映画監督のルキーノ・ヴィスコンティはミラノ公国
ヴィスコンティ家の流れを汲んでいる人でした。そんなところ
から芸術家でゲイの人が出てくるのがイタリアらしいところ
でもあります。
イタリアが統一されてほぼ現在の形にまとまったのが1861年。
その時にいわゆるイタリア語、つまり私がイタリア語という時
や多くの専門家が指摘する時にはイタリア語というのはフィレンツェ
方言をさすのですが、これをイタリアが統一された時に話して
いた人口というのは実に2パーセントに過ぎなかったという
話があります。
これは昔ほどではないのですが今もかなり濃厚に残っていまして
彼らイタリア人というのはパスポートが一緒なだけであって、
文化や風習、料理や言語というのはものすごい違いが存在します。
ミラノから70キロほど先にベルガモという町があります。
ここの出身のライダーでロベルト・ロカテッリという男が
いますが、彼の話す言葉はベルガモ訛りでして、最初聞いた
時には違和感をかなり感じました。
そのベルガモから近いところのブレーシャという町から
出てきたライダーというのが昨年イタリア選手権をカワサキの
600で制したクリスティアーノ・ミッリョラーティや
来季MOTOGPで走るフランコ・バッタイーニですが
彼らの言葉を初めて聞いた時にてっきりイタリア語に似ている
違う言葉を話すものだと思いましたね。これはジャンルイジ・
スカルヴィーニもそうです。(彼の父親になるともっとなまりが
強い。)
また、マックス・ビアッジの父親とかステーファノ・ペルジーニの
母親とかと話すと時々彼らのローマ訛りがきつ過ぎてわからなく
なることがあります。
ローマでそれですから初めてジャンルカ・ヴィッツィエッロと
話した時には彼のマテーラなまりにえらく驚きました。
そんな中央集権国家が成り立たない国で、郷土愛が
強いのか、郷土愛が強すぎるから中央集権国家が成り立たない
のか、あるいははたから地方分権国家のほうが全ての人に
とって快適だからこうなったのかはわかりませんが、とにかく
郷土愛が強く、それぞれの町が自分達の文化や風習、料理に
こだわりを持っています。
イタリアに98年居た経験からすると、イタリアでナショナリズム
を感じるのは、オリンピックとサッカーのワールドカップ
ぐらいですね。(長野五輪とフランスワールドカップの
時にまともにイタリアにいましたがその時のイタリア国旗の
数やら盛りあがり方などはまぁ、力道山が外人レスラーを
やっつけている時の日本人を思わせるものがありました。)
そんな国にいると、私は日本人でなくて、中央集権国家の
東京にお金やモノや政治、軍事といったものに対して
依存している田舎者の日本人ではなくて名古屋人としての
誇りを持ったほうがいいのではないかともともと反権力的な
ところを有する私は思うようになりました。
まぁ、もともとが少年ドラゴンズ会員で巨人が嫌いでしたし、
アメリカー東京によるマニュアル支配で成り立っているマクド
ナルド始めファーストフードではなく、矢場とんの味噌カツ
が好きで、大資本の百貨店ではなく、大須の商店街に魅力を
感じていた私ですが、そんな私が名古屋人としての意識が
ライダーのことをベルガモ人のライダーとかバイクの会社
のことをノアーレのメーカーなどと書いたり話したりする
イタリアという場で覚醒した気がしますね。
名古屋にヨーロッパから戻って来て名古屋の私が一番愛する
エリアの大須に行くと昔からやっているお店をまわり、
矢場とんでわらじかつを味噌かつで食べる。そして
名古屋弁で話す。東京は大きな存在だし、重要なのですが、
何も日本中がミニ東京にならなくてもいいし、名古屋に
関しては大須の商店街が古い名古屋と最先端の名古屋を
混在させて百貨店や大きなショッピングセンターにない
空気感を表出させる。このことが美しく思える私です。
でも、どういうわけか名古屋人のライダーは私が名古屋弁で
話すと嫌がるんだよなぁ。私が名古屋に対する愛情が
強いのにスポーツの世界で個人種目は
あくまで一人がトップに立つために努力すべきで、競輪の
中部ラインが協力して、他の選手の追いこみを抑えるとか
近畿ラインによる攻勢などというのがどうも私にはわからない
という発言がお気に召さなかったのか他の理由があるのか
わかりませんが。
(競輪がKEIRINとなり、国際化が進み世界から選手が
来るようになると、イギリス人とオーストラリア人による
旧大英帝国連邦ラインだとかウクライナとラトビアの
旧ソビエト連邦ラインなどというのが構成されるのでしょうか。
私にはわかりませんが。)