我が愛しのR1と05年スーパーバイクシーズン
2005年1月4日 スポーツ昨年のSBKのレースを見に行った時にワールドスーパー
スポート世界選手権に参戦している藤原克昭君と話をする
機会に恵まれました。
彼のライダーとしての能力は素晴らしい
のですが、マシンのポテンシャルの違いでなかなかホンダ、
ヤマハ勢についていけず、離されてしまっている。道具を使った
スポーツというのはその道具の差が大きく順位に関与して
ライダーの能力は高いのに順位は後ろになってしまう。
その時の彼はまさにそんな状態でした。
その彼が私と話していた時に言っていたのが
「大体、速いバイクというのは見た目もかっこいいモノなんだよ。」
というものでした。
さらにホンダ、ヤマハのパドックで展示されているバイク
(スーパーバイク世界選手権ではパドックパスの入手が
割に楽だったりするし、購入することもできる。)
を指差して、「あのバイクも見た目もかっこいいでしょ。」
と話していました。
それがスーパースポートのカテゴリーのホンダのCBR600
であり、ヤマハのR6、そしてスーパーバイクのR1でした。
今回はこのヤマハのバイクの数多いラインナップの中で
力を入れてPR活動を行い、フラッグシップモデルと位置
付けてられているこのR1についてレースのことを織り交ぜ
ながら書いていこうと思います。
私が昨年の春、プラハで行われたバイクの展示会がありました。
ミュンヘンやミラノ、そして東京モーターショーほどの
規模ではないものになかなか盛況で、各メーカーも力を入れて
PR活動を行っていました。
業界人も結構来ていまして、チェコのスーパーストック
チームの連中も来ていましたし、私が存じ上げている
チェコ人ジャーナリストなども来ていました。
例によってチェコ語で挨拶してイタリア語で会話する私でした。
そんなチェコのバイク市場関係者とバイク好き、レースファンが
来るような場所でひときわ目を引いたのがヤマハのR1でした。
まぁ、とにかくこれはカッコイイ。そして速いだろうなと思わせる
ものがありました。何だかかつてテニスのアンリ・ルコント
のフォームを見て、天才性を感じさせるのに似ている気が
しました。そして私がルコントのテニスの美しさと天才性
にすっかり魅せられてしまったようにR1に惚れてしまいました。
(私はルコントの追っかけをやっていた村上龍ではありませんが)
今年のユーロスーパーストックというのはまさにR1の天下
でした。そして、SBKイタリア選手権というのはグラミーニ
がR1で制しました。SBK世界選手権というのはユニオン
バイクジモータースポーツというチームが参戦していましたが
見るべきものはなかった。しかし、イギリスのレースで参戦した
ジェームズ・エリソンが侮れない速さを見せて、このマシンの
ポテンシャルを示しました。そして、最終戦のフランスでは
ヤマハモーターフランスから参戦したセバスチャン・ジャン
ベールが何と予選初日、二日目とトップタイム。スーパーポール
こそ五番手でしたが、日曜日の第一レース、第二レースは両レース
とも四位という成績でした。
このジャンベールの快走というのは私にとってもうれしいもの
でした。R1というマシンが真価を発揮し美しさと強さを
見せたことがその理由でもありますし、旧知の仲のジャン
ベールがウィナーにはなれなかったもののこの週末のヒーロー
になったこと。そして、ヤマハモーターフランスの開発し続け
てきたことが一つの結晶となったことでした。
このヤマハモーターフランスの技術部門の統括しているのが
ガルシアの親父さんです。
このガルシアという人は非常に業界内での評価が高く、
また好人物で知られています。
誰からも好かれてエンジニアとしての腕も高い。さらに
このフランス人はイタリア語も話す。(ということで
私と彼はフランス語で話して、そこにイタリア人が来ると
イタリア語になる)そんなことで誰からも好かれていますね。
基本性能が高いレベルにあると評されているR1。
優れた能力を有するガルシアによる開発、そしてもう若手とは
言えない年齢になり、今後のレースキャリアを考えると非常に
重要なレースとなったフランスで地の利も活かし素晴らしい
集中力でレースに臨んだジャンベールの力。フランスでの
パフォーマンスはこれらのスーパーミクスチャーだったと
思います。
フランスでの好成績の後日、ジャンベールが05年シーズン
SBK世界選手権に参戦が確定的だといううれしいニュースが
入ってきました。そして、このチームが2ライダー体制で
参加するのではないかと言われ、その候補にアルノー・ヴァンサン、
ランディ・ドュピュニエ、阿部典史の名前が挙がりました。
そんな報道の後、二人のフランス人候補に関しては行き先が
確定しました。そして、阿部が乗ることになったようです。
さらに戦闘力を増すであろうR1。世界選手権フル参戦で
モチベーションも上がるヤマハモーターフランスと
ガルシア。そして、新天地に移って再生を期す阿部。
これは楽しみです。
来季のSBKはR1ユーザーが増えて
最もファンキーな名古屋人の芳賀が初めてR1を走らせる。
今までドゥカティだったボルチャーニがR1でどうなるのか。
イタリアの若手ナンバーワンで今までずっとユーロスーパー
ストックとイタリア選手権のSBKでR1を走らせていた
ヴィッツィエッロがどう立ち向かうのか、R1ユーザー
内のバトル、そしてドゥカティ、ホンダ、スズキ、カワサキ、
ペトロナスのバイクと有力ライダー達。まさに群雄割拠
という感じですが、そんな戦国時代が予想される05年
シーズン、フランスのナショナルカラーのブルーをまとった
R1でガルシアがどんなマジックを見せるのか、阿部が
初のSBKシーズンでどんな走りをするのだろうか。
お楽しみはこれからだ。
スポート世界選手権に参戦している藤原克昭君と話をする
機会に恵まれました。
彼のライダーとしての能力は素晴らしい
のですが、マシンのポテンシャルの違いでなかなかホンダ、
ヤマハ勢についていけず、離されてしまっている。道具を使った
スポーツというのはその道具の差が大きく順位に関与して
ライダーの能力は高いのに順位は後ろになってしまう。
その時の彼はまさにそんな状態でした。
その彼が私と話していた時に言っていたのが
「大体、速いバイクというのは見た目もかっこいいモノなんだよ。」
というものでした。
さらにホンダ、ヤマハのパドックで展示されているバイク
(スーパーバイク世界選手権ではパドックパスの入手が
割に楽だったりするし、購入することもできる。)
を指差して、「あのバイクも見た目もかっこいいでしょ。」
と話していました。
それがスーパースポートのカテゴリーのホンダのCBR600
であり、ヤマハのR6、そしてスーパーバイクのR1でした。
今回はこのヤマハのバイクの数多いラインナップの中で
力を入れてPR活動を行い、フラッグシップモデルと位置
付けてられているこのR1についてレースのことを織り交ぜ
ながら書いていこうと思います。
私が昨年の春、プラハで行われたバイクの展示会がありました。
ミュンヘンやミラノ、そして東京モーターショーほどの
規模ではないものになかなか盛況で、各メーカーも力を入れて
PR活動を行っていました。
業界人も結構来ていまして、チェコのスーパーストック
チームの連中も来ていましたし、私が存じ上げている
チェコ人ジャーナリストなども来ていました。
例によってチェコ語で挨拶してイタリア語で会話する私でした。
そんなチェコのバイク市場関係者とバイク好き、レースファンが
来るような場所でひときわ目を引いたのがヤマハのR1でした。
まぁ、とにかくこれはカッコイイ。そして速いだろうなと思わせる
ものがありました。何だかかつてテニスのアンリ・ルコント
のフォームを見て、天才性を感じさせるのに似ている気が
しました。そして私がルコントのテニスの美しさと天才性
にすっかり魅せられてしまったようにR1に惚れてしまいました。
(私はルコントの追っかけをやっていた村上龍ではありませんが)
今年のユーロスーパーストックというのはまさにR1の天下
でした。そして、SBKイタリア選手権というのはグラミーニ
がR1で制しました。SBK世界選手権というのはユニオン
バイクジモータースポーツというチームが参戦していましたが
見るべきものはなかった。しかし、イギリスのレースで参戦した
ジェームズ・エリソンが侮れない速さを見せて、このマシンの
ポテンシャルを示しました。そして、最終戦のフランスでは
ヤマハモーターフランスから参戦したセバスチャン・ジャン
ベールが何と予選初日、二日目とトップタイム。スーパーポール
こそ五番手でしたが、日曜日の第一レース、第二レースは両レース
とも四位という成績でした。
このジャンベールの快走というのは私にとってもうれしいもの
でした。R1というマシンが真価を発揮し美しさと強さを
見せたことがその理由でもありますし、旧知の仲のジャン
ベールがウィナーにはなれなかったもののこの週末のヒーロー
になったこと。そして、ヤマハモーターフランスの開発し続け
てきたことが一つの結晶となったことでした。
このヤマハモーターフランスの技術部門の統括しているのが
ガルシアの親父さんです。
このガルシアという人は非常に業界内での評価が高く、
また好人物で知られています。
誰からも好かれてエンジニアとしての腕も高い。さらに
このフランス人はイタリア語も話す。(ということで
私と彼はフランス語で話して、そこにイタリア人が来ると
イタリア語になる)そんなことで誰からも好かれていますね。
基本性能が高いレベルにあると評されているR1。
優れた能力を有するガルシアによる開発、そしてもう若手とは
言えない年齢になり、今後のレースキャリアを考えると非常に
重要なレースとなったフランスで地の利も活かし素晴らしい
集中力でレースに臨んだジャンベールの力。フランスでの
パフォーマンスはこれらのスーパーミクスチャーだったと
思います。
フランスでの好成績の後日、ジャンベールが05年シーズン
SBK世界選手権に参戦が確定的だといううれしいニュースが
入ってきました。そして、このチームが2ライダー体制で
参加するのではないかと言われ、その候補にアルノー・ヴァンサン、
ランディ・ドュピュニエ、阿部典史の名前が挙がりました。
そんな報道の後、二人のフランス人候補に関しては行き先が
確定しました。そして、阿部が乗ることになったようです。
さらに戦闘力を増すであろうR1。世界選手権フル参戦で
モチベーションも上がるヤマハモーターフランスと
ガルシア。そして、新天地に移って再生を期す阿部。
これは楽しみです。
来季のSBKはR1ユーザーが増えて
最もファンキーな名古屋人の芳賀が初めてR1を走らせる。
今までドゥカティだったボルチャーニがR1でどうなるのか。
イタリアの若手ナンバーワンで今までずっとユーロスーパー
ストックとイタリア選手権のSBKでR1を走らせていた
ヴィッツィエッロがどう立ち向かうのか、R1ユーザー
内のバトル、そしてドゥカティ、ホンダ、スズキ、カワサキ、
ペトロナスのバイクと有力ライダー達。まさに群雄割拠
という感じですが、そんな戦国時代が予想される05年
シーズン、フランスのナショナルカラーのブルーをまとった
R1でガルシアがどんなマジックを見せるのか、阿部が
初のSBKシーズンでどんな走りをするのだろうか。
お楽しみはこれからだ。
誰がヤロスラブ・フーレシュを殺したのか
2005年1月3日 スポーツ世界グランプリロードレースの125cc、250cc
クラスで戦っていたヤロスラブ・フーレシュが彼の
三十歳の誕生日に自殺をしました。
その後、私の願いはかなわず彼は病院で息を引き取り
ました。彼を追い詰めたものは何か、彼は何に苦しんで
いたのかを考えてみました。
私と彼とは97年に鈴鹿サーキットで初めて会いました。
チェコという国が私が好きなこと。彼がチェコ人である
こともあり、当初は英語で、その後はイタリア語で会えば
話をするような仲でした。
彼がイタルジェットというボローニャのスクーターメーカー
の開発および実戦ライダーとしてイタリア選手権や
ヨーロッパ選手権を戦ったのが99年。私はそのイタリア
選手権のレースが行われたウンブリアサーキットで会いました。
その時の彼というのはマシンの開発に喜びを感じ、メーカー
と直接仕事をすることに楽しんでいました。
その後、2000年にこのイタルジェットと共に
世界選手権に戻り戦いました。時に侮れない速さを見せて、
これから面白くなりそうだなと思わせたのですが、彼は彼の
考えるよりよい体制を求めてマッテオーニホンダに
移籍します。(チームスタッフは残留を希望し、一緒に
やりたがっていたのですが、結局は離れることに
なった。)
マッテオーニホンダというチームで01年125ccを戦った
後に同じチームに02年も残留するも、チームが
イタリアのアプリリアにマシンを変更し、マッテオーニ
アプリリアでの参戦という形になり開幕の鈴鹿サーキットに
やって来ました。
この時に私は彼に頼まれてスタート前のダミーグリッド上で
スポンサーのロゴの入ったウェアを着て、かさをさしてくれる
女性を探すように頼まれて、女友達を紹介し、彼と
彼のマネージャー、チームの代表のマッシモ・マッテオーニ、
チーフエンジニアと共に私と私の女友達がグリッド上で
スタート前に立っていました。当時の映像をお持ちの方は
何故イタリア色の強いチームにYasuと日本人がいるのか
不思議だったと思いますが、ことの次第はこんな理由から
でした。
そのレインコンディションで行われたレースはレース中盤から
彼はトップに立ち、彼のキャリア初優勝かと思わせたの
ですが、単独でクラッシュしてしまい、大きなチャンスを
逃してしまいました。
(でもってこの時に優勝したのが、優勝候補が転んで
チャンスを掴み取ったアルノー・ヴァンサンで、その後
彼はこの運を活かして、最終戦で世界チャンピオンとなった)
その後、彼は02年シーズン250ccに活動の場を変えて、
ドイツのチームでヤマハのマシンで走るも目立った成績を
収めることなくシーズンを終了しました。
03年シーズンの彼は同じヤマハクルツで参戦するも
シーズン途中、転倒による怪我で走るマシンを失います。
そこに救いの手を伸ばしたのがチェコのスポンサーで
成り立っているチームエリット。彼はホンダの250cc
のバイクを駆ることになりました。
もてぎで会った我々はいつものようにチェコ語で挨拶し、
イタリア語で会話していました。その時に交わしたのが
彼との最後の会話になるとは全く思わずに。
このチームエリットはチェコ人中心のスポンサー
及びチームでして、チェコでの知名度の高い
フーレシュを走らせることは偶発的な要因があった
とは言え喜んでいるようでした。
そんなこともあり、04年シーズン、彼は125ccクラス
の参戦をこのチームでするためにスポンサー周りをしたり、
様々な調整をしてきました。
ところが、この彼の希望というのは世界グランプリ
(MOTOGP)参戦に対して認可、許諾をIRTAによって
拒否されてしまいました。
問題となったのは彼の年齢でした。
IRTAとDORNAという団体はここ数年、MOTOGPのF1化を進めて
きました。そんな中、125,250、MOTOGPという
3クラスある中で125ccクラスというのを若年層
の登竜門的なクラスにしようというアイデアのもと
年齢制限を設けようと動いてきました。
私はこれに対して反対の立場をとっています。
世界選手権というのはあくまで世界ナンバーワンを
誰に決めるかということに対して、参戦に障壁を
求めるべきではないと思います。
来るもの拒まず去るもの追わずで入り口は広くして
エントリーしたい人間を受け入れ、そこで遅いライダーは
予選落ちしたり、決勝でも後ろの方を走るということで
実力を測る。それがあるべき姿だと思います。
ところがその参戦するというところで年齢という
モノサシで測られ若くないという理由でこのチェコ人の
参戦を拒否してしまいました。
これは個人的には間違っていると思うし、ある意味
人権を無視しているし、職業選択の自由を侵している
と思うのですが、許認可に関する権利を有している個人や
団体がライダーに参戦の認可を与えることがないので
フーレシュは違う可能性を探ることを余儀なくされました。
そこで彼はドイツ選手権のスーパーバイククラスを
カワサキで走る交渉を始めました。これは契約寸前まで
話が進みましたが、残念ながら本契約に至らず話が
流れてしまいました。
その後、彼は世界耐久選手権のオーストリアホンダチーム
と一緒に戦うことになり、私は鈴鹿の八耐で会えるなと
思い、ようやく彼の居場所が落ち着き、ほっとしました。
しかし、今度は彼がブルノで行われたテスト走行で転倒し、
全治三ヶ月の怪我をしてしまいました。
そして、しばらくして入ってきたニュースが彼が自殺をして
病院に運ばれたというものでした。
彼が病院に運ばれた時点で相当危険な状態であるというのは
いくつかのHPや報道で知りました。
彼の奇跡的な回復を願っていましたが、その私の願いは
かなわず、彼は天に召されました。
その時に思ったのは、今季のハードラックの数々というのは
一つの理由に集約できるものではないものの、少なくとも
MOTOGPの125ccクラスにエントリーが認められなかった
のが彼が死に至るまでの経過の導火線になったのではないか
というものでした。
歴史にもしをつけることは好きではないのですが、
彼がすんなり125ccクラスに参戦できていれば
活動の場を探すのに走り回る必要はなかったことでしょう。
ここ数年のMOTOGPというのはF1を目指す方向性が見えます。
そのことによっていいこともあったでしょう。
しかし、125クラスの年齢制限というアイデアが
一人のライダーの人生を狂わせた気がします。
その狂った先が彼の自殺に結びついた気がしてなりません。
クラスで戦っていたヤロスラブ・フーレシュが彼の
三十歳の誕生日に自殺をしました。
その後、私の願いはかなわず彼は病院で息を引き取り
ました。彼を追い詰めたものは何か、彼は何に苦しんで
いたのかを考えてみました。
私と彼とは97年に鈴鹿サーキットで初めて会いました。
チェコという国が私が好きなこと。彼がチェコ人である
こともあり、当初は英語で、その後はイタリア語で会えば
話をするような仲でした。
彼がイタルジェットというボローニャのスクーターメーカー
の開発および実戦ライダーとしてイタリア選手権や
ヨーロッパ選手権を戦ったのが99年。私はそのイタリア
選手権のレースが行われたウンブリアサーキットで会いました。
その時の彼というのはマシンの開発に喜びを感じ、メーカー
と直接仕事をすることに楽しんでいました。
その後、2000年にこのイタルジェットと共に
世界選手権に戻り戦いました。時に侮れない速さを見せて、
これから面白くなりそうだなと思わせたのですが、彼は彼の
考えるよりよい体制を求めてマッテオーニホンダに
移籍します。(チームスタッフは残留を希望し、一緒に
やりたがっていたのですが、結局は離れることに
なった。)
マッテオーニホンダというチームで01年125ccを戦った
後に同じチームに02年も残留するも、チームが
イタリアのアプリリアにマシンを変更し、マッテオーニ
アプリリアでの参戦という形になり開幕の鈴鹿サーキットに
やって来ました。
この時に私は彼に頼まれてスタート前のダミーグリッド上で
スポンサーのロゴの入ったウェアを着て、かさをさしてくれる
女性を探すように頼まれて、女友達を紹介し、彼と
彼のマネージャー、チームの代表のマッシモ・マッテオーニ、
チーフエンジニアと共に私と私の女友達がグリッド上で
スタート前に立っていました。当時の映像をお持ちの方は
何故イタリア色の強いチームにYasuと日本人がいるのか
不思議だったと思いますが、ことの次第はこんな理由から
でした。
そのレインコンディションで行われたレースはレース中盤から
彼はトップに立ち、彼のキャリア初優勝かと思わせたの
ですが、単独でクラッシュしてしまい、大きなチャンスを
逃してしまいました。
(でもってこの時に優勝したのが、優勝候補が転んで
チャンスを掴み取ったアルノー・ヴァンサンで、その後
彼はこの運を活かして、最終戦で世界チャンピオンとなった)
その後、彼は02年シーズン250ccに活動の場を変えて、
ドイツのチームでヤマハのマシンで走るも目立った成績を
収めることなくシーズンを終了しました。
03年シーズンの彼は同じヤマハクルツで参戦するも
シーズン途中、転倒による怪我で走るマシンを失います。
そこに救いの手を伸ばしたのがチェコのスポンサーで
成り立っているチームエリット。彼はホンダの250cc
のバイクを駆ることになりました。
もてぎで会った我々はいつものようにチェコ語で挨拶し、
イタリア語で会話していました。その時に交わしたのが
彼との最後の会話になるとは全く思わずに。
このチームエリットはチェコ人中心のスポンサー
及びチームでして、チェコでの知名度の高い
フーレシュを走らせることは偶発的な要因があった
とは言え喜んでいるようでした。
そんなこともあり、04年シーズン、彼は125ccクラス
の参戦をこのチームでするためにスポンサー周りをしたり、
様々な調整をしてきました。
ところが、この彼の希望というのは世界グランプリ
(MOTOGP)参戦に対して認可、許諾をIRTAによって
拒否されてしまいました。
問題となったのは彼の年齢でした。
IRTAとDORNAという団体はここ数年、MOTOGPのF1化を進めて
きました。そんな中、125,250、MOTOGPという
3クラスある中で125ccクラスというのを若年層
の登竜門的なクラスにしようというアイデアのもと
年齢制限を設けようと動いてきました。
私はこれに対して反対の立場をとっています。
世界選手権というのはあくまで世界ナンバーワンを
誰に決めるかということに対して、参戦に障壁を
求めるべきではないと思います。
来るもの拒まず去るもの追わずで入り口は広くして
エントリーしたい人間を受け入れ、そこで遅いライダーは
予選落ちしたり、決勝でも後ろの方を走るということで
実力を測る。それがあるべき姿だと思います。
ところがその参戦するというところで年齢という
モノサシで測られ若くないという理由でこのチェコ人の
参戦を拒否してしまいました。
これは個人的には間違っていると思うし、ある意味
人権を無視しているし、職業選択の自由を侵している
と思うのですが、許認可に関する権利を有している個人や
団体がライダーに参戦の認可を与えることがないので
フーレシュは違う可能性を探ることを余儀なくされました。
そこで彼はドイツ選手権のスーパーバイククラスを
カワサキで走る交渉を始めました。これは契約寸前まで
話が進みましたが、残念ながら本契約に至らず話が
流れてしまいました。
その後、彼は世界耐久選手権のオーストリアホンダチーム
と一緒に戦うことになり、私は鈴鹿の八耐で会えるなと
思い、ようやく彼の居場所が落ち着き、ほっとしました。
しかし、今度は彼がブルノで行われたテスト走行で転倒し、
全治三ヶ月の怪我をしてしまいました。
そして、しばらくして入ってきたニュースが彼が自殺をして
病院に運ばれたというものでした。
彼が病院に運ばれた時点で相当危険な状態であるというのは
いくつかのHPや報道で知りました。
彼の奇跡的な回復を願っていましたが、その私の願いは
かなわず、彼は天に召されました。
その時に思ったのは、今季のハードラックの数々というのは
一つの理由に集約できるものではないものの、少なくとも
MOTOGPの125ccクラスにエントリーが認められなかった
のが彼が死に至るまでの経過の導火線になったのではないか
というものでした。
歴史にもしをつけることは好きではないのですが、
彼がすんなり125ccクラスに参戦できていれば
活動の場を探すのに走り回る必要はなかったことでしょう。
ここ数年のMOTOGPというのはF1を目指す方向性が見えます。
そのことによっていいこともあったでしょう。
しかし、125クラスの年齢制限というアイデアが
一人のライダーの人生を狂わせた気がします。
その狂った先が彼の自殺に結びついた気がしてなりません。
相撲で強かった曙のガチンコでの弱さ
2005年1月2日 スポーツ私は相撲という競技に関してどうも八百長性を感じてしまう
のですが、その八百長性の強い相撲で強かった曙がK1、そして
総合格闘技で連敗を重ねています。これはどうしてなのだろうか
と考えてみました。
相撲というのは非常に強いヒエラルヒーが存在します。
入門した新弟子というのは番付の上の力士の身の周りの
世話をしたり、戦う以前に様々な雑用をしなければいけない
必要性に迫られたり、大関や横綱といった力士とは明らかに
待遇が違い、勝負の世界で上に上り詰める前に色々なことを
やらされることがあります。そしてそれをこなさなければ
いけない。
そういった相撲の社会がハングリーガッツを産むことは否定
できません。少しでもトップクラスに近づけばおいしいものを
食べることができ、いい車に乗ることができる。
収入もよくなるし、雑用から解放されて自分のやりたいことが
できる時間を持つこともできるでしょう。
スタートラインが厳しいのですが、そこから出世を重ねれば
見返りが大きい。身体能力が優れていて、モータースポーツ
のように入門クラスでもお金がかかったり、テニスのように
いいコーチにつき、世界を周るとすごく費用がかさむ種目と
違って体一つでビッグマネーを得ることができることに
魅力を感じて習慣も文化も違う日本に体一つで成り上がろう
というのは十分に理解できます。
恐らく曙もそう考えた外国人の一人だったと思います。
そんな彼が好成績を上げていく中で私が感じたのは相撲の
八百長性です。
当時、若とか貴が出世街道をまっしぐらに走っていた頃でした。
その時に持ちあがったのがニ子山部屋の合併というか
拡大化でした。
これは当時の相撲協会に認められてニ子山部屋は大きな
勢力になりました。
となると、若とか貴は同部屋対決というのは優勝決定戦以外
ないという規約があるので、他の部屋の連中とばかりあたり
ます。自分の所属している部屋に強い力士ばかり集まれば
軽い相手とやることが当然多くなりますね。
逆に曙は強い力士をなぎ倒してようやく優勝争いに絡むことが
できる。
何だか二子山部屋の連中はシードプレイヤーの印象を受けました。
アメリカ人だったら、恐らく公平な競争ができていなくて
いびつで不公平な競争システムなどと言うような気がします。
その一方で相撲の世界で歴史や伝統を重んじる世界なのに
何だかアメリカの会社が大資本と大量生産大量消費で
他の国の市場を牛耳ってしまうようなあり方を当時の
ニ子山部屋に感じてしまいました。
いつだったか、強い力士とばかり当たってしまうことを
聞かれた彼でしたが、彼は不公平なシステムであることや
八百長性を感じるなどと私が思うようなことを口にする
ことなく
「頑張って稽古して勝ちたいです。」と話しているのを見て、
恐らく本心は違うのに、それを口にすることなく、稽古の
ことを話して、実際それを実践している姿は私の胸を
打ちました。
そんな時期、曙はこの私が思うニ子山部屋断然有利の
八百長性の高い相撲場所運営システムの中できつい相手を
破り若や貴に土をつけて何度も優勝してきました。
そんな力士時代の彼は本当に素晴らしかったと思います。
当然、大きなお金も入ったでしょうし、いい思いをしたこと
でしょう。そんな過程の中でひざを悪くしてしまいましたが。
そんな厳しい世界で私が八百長性を感じさせる不利な条件の
中でも数々の勝利を奪い、横綱になった彼ですが、
ひょっとしたらそこでかなり満足したのではないでしょうか。
満足で楽しい生活を送っている人間が厳しい練習に没頭する
のはかなり難しいと思います。
そして、K1という競技においては決して彼はかつての
ニ子山部屋の力士のようにマッチメークで優遇されている
ようには思えません。
技量が同じ位だったら、お金に困っている人やハングリー
ガッツを持っている人の方が勝つ確率は高くなると思います。
だんだん、あの曙という人がハルウララに見えてくるのですが、
若くてヒエラルヒーが強い環境の中で、相撲で成功しなかったら
人生の展望が開けないという中で言葉も習慣も理解しながら
稽古を重ねて強さを身につけて、毎場所ニ子山部屋勢の有利さ
ある種の八百長性をまともに感じながら戦いを挑んでいた彼
はまさにファイティングスピリットを持った飢えた獣だった
と思います。
その彼が色々なものを得て、趣味程度に体を動かしていた
ところから数週間でK1に初めて出場し、ボブ・サップと
対戦したのですが、やはりお金や家族など人生を快適に過ごせる
モノや人を得た後ではいい人であって、獲物を追い求める
肉食動物の性格が引っ込んでしまったと思えてなりません。
相撲の世界であの若とか貴とかを相手にあそこまで戦った
力士だから肉体的な能力というのは高いものがあるとは
思うのですが彼が野獣に見えず、ハルウララに見えてしまいます。
私やファンの多くにできることは今後を見守ることです。
どんな未来が待っているのでしょうか。高知競馬の
負けつづけている馬のようにはなって欲しくない一方で
簡単な相手をやっつけて喜んで欲しくない気持ちも抱いている
私です。
のですが、その八百長性の強い相撲で強かった曙がK1、そして
総合格闘技で連敗を重ねています。これはどうしてなのだろうか
と考えてみました。
相撲というのは非常に強いヒエラルヒーが存在します。
入門した新弟子というのは番付の上の力士の身の周りの
世話をしたり、戦う以前に様々な雑用をしなければいけない
必要性に迫られたり、大関や横綱といった力士とは明らかに
待遇が違い、勝負の世界で上に上り詰める前に色々なことを
やらされることがあります。そしてそれをこなさなければ
いけない。
そういった相撲の社会がハングリーガッツを産むことは否定
できません。少しでもトップクラスに近づけばおいしいものを
食べることができ、いい車に乗ることができる。
収入もよくなるし、雑用から解放されて自分のやりたいことが
できる時間を持つこともできるでしょう。
スタートラインが厳しいのですが、そこから出世を重ねれば
見返りが大きい。身体能力が優れていて、モータースポーツ
のように入門クラスでもお金がかかったり、テニスのように
いいコーチにつき、世界を周るとすごく費用がかさむ種目と
違って体一つでビッグマネーを得ることができることに
魅力を感じて習慣も文化も違う日本に体一つで成り上がろう
というのは十分に理解できます。
恐らく曙もそう考えた外国人の一人だったと思います。
そんな彼が好成績を上げていく中で私が感じたのは相撲の
八百長性です。
当時、若とか貴が出世街道をまっしぐらに走っていた頃でした。
その時に持ちあがったのがニ子山部屋の合併というか
拡大化でした。
これは当時の相撲協会に認められてニ子山部屋は大きな
勢力になりました。
となると、若とか貴は同部屋対決というのは優勝決定戦以外
ないという規約があるので、他の部屋の連中とばかりあたり
ます。自分の所属している部屋に強い力士ばかり集まれば
軽い相手とやることが当然多くなりますね。
逆に曙は強い力士をなぎ倒してようやく優勝争いに絡むことが
できる。
何だか二子山部屋の連中はシードプレイヤーの印象を受けました。
アメリカ人だったら、恐らく公平な競争ができていなくて
いびつで不公平な競争システムなどと言うような気がします。
その一方で相撲の世界で歴史や伝統を重んじる世界なのに
何だかアメリカの会社が大資本と大量生産大量消費で
他の国の市場を牛耳ってしまうようなあり方を当時の
ニ子山部屋に感じてしまいました。
いつだったか、強い力士とばかり当たってしまうことを
聞かれた彼でしたが、彼は不公平なシステムであることや
八百長性を感じるなどと私が思うようなことを口にする
ことなく
「頑張って稽古して勝ちたいです。」と話しているのを見て、
恐らく本心は違うのに、それを口にすることなく、稽古の
ことを話して、実際それを実践している姿は私の胸を
打ちました。
そんな時期、曙はこの私が思うニ子山部屋断然有利の
八百長性の高い相撲場所運営システムの中できつい相手を
破り若や貴に土をつけて何度も優勝してきました。
そんな力士時代の彼は本当に素晴らしかったと思います。
当然、大きなお金も入ったでしょうし、いい思いをしたこと
でしょう。そんな過程の中でひざを悪くしてしまいましたが。
そんな厳しい世界で私が八百長性を感じさせる不利な条件の
中でも数々の勝利を奪い、横綱になった彼ですが、
ひょっとしたらそこでかなり満足したのではないでしょうか。
満足で楽しい生活を送っている人間が厳しい練習に没頭する
のはかなり難しいと思います。
そして、K1という競技においては決して彼はかつての
ニ子山部屋の力士のようにマッチメークで優遇されている
ようには思えません。
技量が同じ位だったら、お金に困っている人やハングリー
ガッツを持っている人の方が勝つ確率は高くなると思います。
だんだん、あの曙という人がハルウララに見えてくるのですが、
若くてヒエラルヒーが強い環境の中で、相撲で成功しなかったら
人生の展望が開けないという中で言葉も習慣も理解しながら
稽古を重ねて強さを身につけて、毎場所ニ子山部屋勢の有利さ
ある種の八百長性をまともに感じながら戦いを挑んでいた彼
はまさにファイティングスピリットを持った飢えた獣だった
と思います。
その彼が色々なものを得て、趣味程度に体を動かしていた
ところから数週間でK1に初めて出場し、ボブ・サップと
対戦したのですが、やはりお金や家族など人生を快適に過ごせる
モノや人を得た後ではいい人であって、獲物を追い求める
肉食動物の性格が引っ込んでしまったと思えてなりません。
相撲の世界であの若とか貴とかを相手にあそこまで戦った
力士だから肉体的な能力というのは高いものがあるとは
思うのですが彼が野獣に見えず、ハルウララに見えてしまいます。
私やファンの多くにできることは今後を見守ることです。
どんな未来が待っているのでしょうか。高知競馬の
負けつづけている馬のようにはなって欲しくない一方で
簡単な相手をやっつけて喜んで欲しくない気持ちも抱いている
私です。
レコード大賞を見てゴールドディスク大賞を思う
2005年1月1日 TV大晦日恒例のレコード大賞をテレビで見ていました。
最優秀新人賞に関してはまぁ、順当かなと思いましたね。
もし、あれで北島三郎の弟子や猪木事務所の元アルバイトが
最優秀を取っていたら政治力というものをまともに見せられた
ことになったのでしょうが、そういうことは起きることなく
大塚愛が受賞しました。
また、あのウィナーズスピーチが良かったですね。いかにも
大阪の姉ちゃんという感じであり、大阪人がラテン的である
ということを見せてくれた感じがしました。
レコード大賞というのはまぁ、恐らくミスチルが獲るだろうな
と思い、実際そのとおりになりました。
何人かのグループと楽曲が候補に挙がっていましたが、
ミスチルがレコード大賞になったのはTBSのドラマの主題歌
の受賞曲をやっていたからというのもあるのだろうなというのが
私の率直な意見。そして、他の候補に上げられていた
曲というのが少なくともセールス的にはそのほとんどが成功し
たとは言えない気がしました。
随分昔から賞レースなんて言われて、お金やモノが審査員に
配られるという話を週刊誌で読んでいて、かつては
TBSはそれを否定し、その後部分肯定して、審査員の
数を減らすなどの政策を実施して今に至っていますが、
不透明感は残ったままです。(この不透明感は紅白歌合戦の
歌手の採用基準にも言えますが)
セールス的には成功していないが、少なくともレコード大賞の
候補にはなる。そんなところやかつてのような審査委員の
得票を得るためにお金やものが飛び交うというあり方。
いくつかの事務所やミュージシャンがレコード大賞の受賞を
拒否しているのもそういった点にあると思います。
そういったことからレコード大賞の表彰は拒否するが
ゴールドディスク大賞の受賞には応じるという人の気持ちが
よくわかります。これはマーケットにおいてどれだけ売れたのか
お客さんがお金を使って商品を買ってくれた数字から
表彰の対象にする。一般のマーケットから割り出されたものだから
どれだけ日本人や日本のマーケットで受け入れられたのか
非常に明解に理解できます。
政治色の強い賞よりお客さん一人一人が買ってくれて
積み重なった販売数によってできあがった賞に対して
表彰されるのを喜ぶというのは無いものからモノを作り
そしてそれが受け入れられていくことの方がうれしく
思うアーティストは多いと思います。
個人的には03年のレコード大賞は浜崎あゆみではなく
世界に一つだけの花のSMAPだと思っています。
まぁ、SMAPにナンバーワンでなくてオンリーワンと
言われたくなくて、作者のマッキーのソングライティング
にレコード大賞は相応しいと思っていましたが。
最優秀新人賞に関してはまぁ、順当かなと思いましたね。
もし、あれで北島三郎の弟子や猪木事務所の元アルバイトが
最優秀を取っていたら政治力というものをまともに見せられた
ことになったのでしょうが、そういうことは起きることなく
大塚愛が受賞しました。
また、あのウィナーズスピーチが良かったですね。いかにも
大阪の姉ちゃんという感じであり、大阪人がラテン的である
ということを見せてくれた感じがしました。
レコード大賞というのはまぁ、恐らくミスチルが獲るだろうな
と思い、実際そのとおりになりました。
何人かのグループと楽曲が候補に挙がっていましたが、
ミスチルがレコード大賞になったのはTBSのドラマの主題歌
の受賞曲をやっていたからというのもあるのだろうなというのが
私の率直な意見。そして、他の候補に上げられていた
曲というのが少なくともセールス的にはそのほとんどが成功し
たとは言えない気がしました。
随分昔から賞レースなんて言われて、お金やモノが審査員に
配られるという話を週刊誌で読んでいて、かつては
TBSはそれを否定し、その後部分肯定して、審査員の
数を減らすなどの政策を実施して今に至っていますが、
不透明感は残ったままです。(この不透明感は紅白歌合戦の
歌手の採用基準にも言えますが)
セールス的には成功していないが、少なくともレコード大賞の
候補にはなる。そんなところやかつてのような審査委員の
得票を得るためにお金やものが飛び交うというあり方。
いくつかの事務所やミュージシャンがレコード大賞の受賞を
拒否しているのもそういった点にあると思います。
そういったことからレコード大賞の表彰は拒否するが
ゴールドディスク大賞の受賞には応じるという人の気持ちが
よくわかります。これはマーケットにおいてどれだけ売れたのか
お客さんがお金を使って商品を買ってくれた数字から
表彰の対象にする。一般のマーケットから割り出されたものだから
どれだけ日本人や日本のマーケットで受け入れられたのか
非常に明解に理解できます。
政治色の強い賞よりお客さん一人一人が買ってくれて
積み重なった販売数によってできあがった賞に対して
表彰されるのを喜ぶというのは無いものからモノを作り
そしてそれが受け入れられていくことの方がうれしく
思うアーティストは多いと思います。
個人的には03年のレコード大賞は浜崎あゆみではなく
世界に一つだけの花のSMAPだと思っています。
まぁ、SMAPにナンバーワンでなくてオンリーワンと
言われたくなくて、作者のマッキーのソングライティング
にレコード大賞は相応しいと思っていましたが。
パリダカを眺め我を思う
2004年12月31日 スポーツ元旦スタートのパリダカールラリー。この過酷なラリー
がまた始まります。
二輪、四輪、カミオンの様々な車種がモーリタニア砂漠を
舞台に激しく厳しいラリーを戦います。
私はこのラリーが好きなのですが、自動車メーカーの景気が
いい時に勝利のためにお金、人、モノをかけて、参戦する
敷居がすごく高くなってしまった時期がありました。
多くのメーカーが参戦することというのはメリットというもの
もあるのですが、メーカーが威信をかけて大々的に参加しても
景気が悪くなればドラスティックに辞めてしまうわけで、
ものすごい欠落感を感じましたね。
こうしてメーカーが(具体的に言えばプジョーシトロエン
グループですが)いなくなって、逆に車の基本性能とドライバー
本位のレースに、このレース設立時の理念に戻った気がします。
衛星を使ったナビとか、メーカーの技術力やスペシャリスト
によって勝敗が決するレースではなく車とそれを操るドライバー
やライダーによって雌雄を決する部分がかなり多くなりましたね。
これと同じようなことをスーパーバイク世界選手権(SBK)
にも感じています。パオロ・フラミーニという人がタイヤメーカー
からスペシャルなタイヤを供給されて、その果実にありつける
一部のチームは突出して速く走ることができることというのは
当該のチームにとってはいいことかも知れませんが、政治力や
チームとメーカーとの関係の中でそのタイヤを使用できない
連中としては公平性が欠如するなか戦いをしなければいけないと
いうことを意味します。
ある意味このタイヤワンメイクというのはフラミーニ氏のタイヤ
メーカーに敵にまわしてしまうギャンブルだったと思うのですが
これは成功に終わりましたし、一部タイヤメーカーコンバイン
チームとその他のチームとの格差は明らかに縮まりました。
これは私としてはウェルカムでした。
今年のSBKを見ていて、日本のバブル景気が終わりを告げて、
NYのブラックマンデー以降、アメリカの消費者が買い控えから
市場が冷えてプジョーシトロエングループがパリダカからの撤退を
してからのパリダカを思い起こしましたね。
世界経済が不透明で原油価格が高くなっていく中、より安い値段
でできうる限りチーム間の格差を解消していき中小チームが
参戦しやすくしていくことがSBKという選手権を継続発展させる
ためで必要なことであり、反対意見もあった中で決断できた
のはギャンブルだったと思いますが、参加者に目を向けた
判断だったと思います。
パリダカは原点に戻り、より安い費用で参加できるようになり、
ドライバー、ライダー本位の大会になりました。
元旦の出発はバルセロナでここから海を越えてからモーリタニア
砂漠を舞台にした過酷なラリーが始まります。
大会を設立した主催者のティエリー・サビーヌはこのラリーを
思案に思案を重ねて概要を発表した時にこう話しました。
「冒険の扉を開くのは君だ。君が望むなら連れていこう。」
実に美しくいい言葉だと思います。
私はシングルで子供もいませんが、子供が難しいことかも
しれませんが、新しいことにチャレンジしたい時には
冒険の扉の前まで連れて行くことには協力したいなと思いますね。
それで扉を開くのは本人なのでしょうが。
この言葉を私が言うことというのは今までなかったのですが
何だか言われているような気持ちになったことはあります。
前述のSBKの現場やサーキットで私のような取りたてて
メーカーやメディアとの関係性もなく、別に私に対して何か
施しても私から何もお返しをすることはできないのに、
よくしてくれているSBKのスタッフやチーム関係者などには
この言葉を聞かされていませんが、この言葉を言われているような
気がします。
さぁ、パリダカが始まります。熱く激しく厳しいラリーが
行われます。モーリタニアの悪魔が牙をむき、参加者を
追い詰めることでしょう。しかし、苦しみを超えて完走した
ライダーにはダカールの美しい海が微笑むことでしょう。
そして冒険の扉を開くのは親でも友達でもなく、常に自分自身で
あり、栄冠を得るのも本人でしかないことを教えてくれるのも
このラリーだと思います。ティエリー・サビーヌという人は
残念ながら亡くなってしまい、彼の父親のジルベーヌ・サビーヌ
という人が準備や開催に駈け回っていますが、ティエリー・
サビーヌの残した言葉とこのラリーは生き続けています。
何かをチャレンジする時でも周りの人は助けてくれることは
あるが、冒険の扉を開くのは毎年年頭に自分だと思う私です。
がまた始まります。
二輪、四輪、カミオンの様々な車種がモーリタニア砂漠を
舞台に激しく厳しいラリーを戦います。
私はこのラリーが好きなのですが、自動車メーカーの景気が
いい時に勝利のためにお金、人、モノをかけて、参戦する
敷居がすごく高くなってしまった時期がありました。
多くのメーカーが参戦することというのはメリットというもの
もあるのですが、メーカーが威信をかけて大々的に参加しても
景気が悪くなればドラスティックに辞めてしまうわけで、
ものすごい欠落感を感じましたね。
こうしてメーカーが(具体的に言えばプジョーシトロエン
グループですが)いなくなって、逆に車の基本性能とドライバー
本位のレースに、このレース設立時の理念に戻った気がします。
衛星を使ったナビとか、メーカーの技術力やスペシャリスト
によって勝敗が決するレースではなく車とそれを操るドライバー
やライダーによって雌雄を決する部分がかなり多くなりましたね。
これと同じようなことをスーパーバイク世界選手権(SBK)
にも感じています。パオロ・フラミーニという人がタイヤメーカー
からスペシャルなタイヤを供給されて、その果実にありつける
一部のチームは突出して速く走ることができることというのは
当該のチームにとってはいいことかも知れませんが、政治力や
チームとメーカーとの関係の中でそのタイヤを使用できない
連中としては公平性が欠如するなか戦いをしなければいけないと
いうことを意味します。
ある意味このタイヤワンメイクというのはフラミーニ氏のタイヤ
メーカーに敵にまわしてしまうギャンブルだったと思うのですが
これは成功に終わりましたし、一部タイヤメーカーコンバイン
チームとその他のチームとの格差は明らかに縮まりました。
これは私としてはウェルカムでした。
今年のSBKを見ていて、日本のバブル景気が終わりを告げて、
NYのブラックマンデー以降、アメリカの消費者が買い控えから
市場が冷えてプジョーシトロエングループがパリダカからの撤退を
してからのパリダカを思い起こしましたね。
世界経済が不透明で原油価格が高くなっていく中、より安い値段
でできうる限りチーム間の格差を解消していき中小チームが
参戦しやすくしていくことがSBKという選手権を継続発展させる
ためで必要なことであり、反対意見もあった中で決断できた
のはギャンブルだったと思いますが、参加者に目を向けた
判断だったと思います。
パリダカは原点に戻り、より安い費用で参加できるようになり、
ドライバー、ライダー本位の大会になりました。
元旦の出発はバルセロナでここから海を越えてからモーリタニア
砂漠を舞台にした過酷なラリーが始まります。
大会を設立した主催者のティエリー・サビーヌはこのラリーを
思案に思案を重ねて概要を発表した時にこう話しました。
「冒険の扉を開くのは君だ。君が望むなら連れていこう。」
実に美しくいい言葉だと思います。
私はシングルで子供もいませんが、子供が難しいことかも
しれませんが、新しいことにチャレンジしたい時には
冒険の扉の前まで連れて行くことには協力したいなと思いますね。
それで扉を開くのは本人なのでしょうが。
この言葉を私が言うことというのは今までなかったのですが
何だか言われているような気持ちになったことはあります。
前述のSBKの現場やサーキットで私のような取りたてて
メーカーやメディアとの関係性もなく、別に私に対して何か
施しても私から何もお返しをすることはできないのに、
よくしてくれているSBKのスタッフやチーム関係者などには
この言葉を聞かされていませんが、この言葉を言われているような
気がします。
さぁ、パリダカが始まります。熱く激しく厳しいラリーが
行われます。モーリタニアの悪魔が牙をむき、参加者を
追い詰めることでしょう。しかし、苦しみを超えて完走した
ライダーにはダカールの美しい海が微笑むことでしょう。
そして冒険の扉を開くのは親でも友達でもなく、常に自分自身で
あり、栄冠を得るのも本人でしかないことを教えてくれるのも
このラリーだと思います。ティエリー・サビーヌという人は
残念ながら亡くなってしまい、彼の父親のジルベーヌ・サビーヌ
という人が準備や開催に駈け回っていますが、ティエリー・
サビーヌの残した言葉とこのラリーは生き続けています。
何かをチャレンジする時でも周りの人は助けてくれることは
あるが、冒険の扉を開くのは毎年年頭に自分だと思う私です。
世界グランプリの250cc、500cc、そしてMOTOGP
を走ってきた日本人ライダーの宇川徹という人を見て思うのは
彼は日本人のいい人であるということです。
私と彼とが初めて会ったのは世界グランプリの鈴鹿でのこと
でした。
彼がベネトンホンダというチームで250ccクラスを走っていて
私は単なる素人であり、レースファンであった時のこと。
私が彼のチームスタッフとお話する機会に恵まれてイタリア語で
お話をしていました。
そこにやって来たのが彼でして、少々私のイタリア語に驚いた
様子で私とイタリア人スタッフの間の話に乗ってきたのが最初
でした。
まだコンジュンティーボもコンディツィオナーレもわからなかった
ころの私のイタリア語でしたが、私の語学の能力を評価してくれた
のが心に残っています。
その後イタリアでイタリア語を勉強し、日本だけでなく
各地のサーキットに出入りするようになった私はこの日本人
ライダーと会えば友達とは呼べないまでも挨拶をして、
言葉を交わすようになりました。
そこで感じたのは彼の人柄の良さですね。
ただ、これは誉め言葉であると同時にライダーに対しては
否定的な意味合いにも取れる言葉です。
非常にいい人で周囲に対する人当たりもよく、穏やかで
そして大変な努力家である。そんな彼だからこそ多くの人に
愛されて、色々な人の支持を得て、全日本選手権で栄冠を
勝ち得た後に世界を舞台に活躍することができた。
これは間違いのない事実であり、評価に値するところです。
しかしながら、その一方でその人のよさというのが目的では
なく結果的にネガティブに働くこともあります。
私が以前トロイ・ベイリスや原田哲也のことを書いたときにも
指摘したのですが、ライダーというのは欲張りであり、わがまま
だからこそいいマシンを作ることができる。速く走るために
パワフルなエンジン、よく曲がる車体、機能するサスペンション、
グリップがいいタイヤを求め、気に入らなかったり、自分の
好みやライディングスタイルに合わないとやり直しを命じたり、
違うキャラクターのモノをリクエストしたり、改造させたり
する。その結果、すぐれたバイクやパーツ、自分のライディング
スタイルに合った実力を100%発揮できるモノができあがり
速く走ることができ、世界チャンピオンに近づくことができる。
ライダーの我の強さやわがままというのがエンジニアを育て
メカニックが成長し、同業他社よりいい製品ができ、
レースに勝つことができる。これは真実だと思います。
ところが宇川徹というライダーを見ていると、そういった
我の強さとかわがままさというのが感じられない。
そんな気がします。
人の良さや優れた人間性で多くの人に好かれ、ライダー
としての実力に対する評価と共に多くの人に支持され
たくさんの人が彼のために動いてくれて世界格式の
レースで戦うことができた。そのことは非常に美しく尊い
ことだと思います。
ただそういった性格がライダーとして言わなければいけないこと、
指摘しなければいけないことを自ら阻害して口を閉じることに
なっていないのかなという想像をしてしまいます。
彼が多くのエンジニアやメーカー関係者の働きに感謝すること
はいいことだと思うのですが、周りに対する感謝によって
ここまでいいマシンを用意してくれているのだからこのマシンが
自分の好みのキャラクターのマシンではないが、目の前にある
このマシンを速く走らせなければいけない。とか
コンピューターによる解析やエンジニアによるシュミレーション
でこういったバイクが速く走れるのだから、自分のいい
と思うことより、このバイクを上手く走らせるのが大事だ
と考えてしまい、自分にとって欲しいものや必要なものを
言わなくなってしまうとしたらそれはまずいことだと思います。
(このことはヴァレンティーノ・ロッシのチーフメカニックの
ジェレミー・バージェスが宇川がいいテストライダーに
なり得ない理由の一つとしてあげています。)
いい人であり、大変な努力家であり、多くの人に愛される
彼ですが、ライダーにとって必要な悪魔性というか
わがままさやアクの強さが感じられないのが何か
ある種のもの足りなさを彼から感じてしまいます。
アントニオ猪木という人はレスラーとしては優秀でしたが
私生活では色々あった人でしたし、彼の人生は彼の有する
悪魔性やわがままさで彼のせいで人生が変わってしまった人
も多かった。しかし、リングに立てば彼の様々なコンプレックス
や欲望が英雄願望や金銭欲などと美しいミクスチャーを見せて
プロレスファンだけでなく、多くの一般人にも愛され
認められるレスラー人生を歩んできました。
猪木の持つ毒気のほんの一部でも宇川君にもあれば、世界
チャンピオンにもなれたのではないかと思える私です。
を走ってきた日本人ライダーの宇川徹という人を見て思うのは
彼は日本人のいい人であるということです。
私と彼とが初めて会ったのは世界グランプリの鈴鹿でのこと
でした。
彼がベネトンホンダというチームで250ccクラスを走っていて
私は単なる素人であり、レースファンであった時のこと。
私が彼のチームスタッフとお話する機会に恵まれてイタリア語で
お話をしていました。
そこにやって来たのが彼でして、少々私のイタリア語に驚いた
様子で私とイタリア人スタッフの間の話に乗ってきたのが最初
でした。
まだコンジュンティーボもコンディツィオナーレもわからなかった
ころの私のイタリア語でしたが、私の語学の能力を評価してくれた
のが心に残っています。
その後イタリアでイタリア語を勉強し、日本だけでなく
各地のサーキットに出入りするようになった私はこの日本人
ライダーと会えば友達とは呼べないまでも挨拶をして、
言葉を交わすようになりました。
そこで感じたのは彼の人柄の良さですね。
ただ、これは誉め言葉であると同時にライダーに対しては
否定的な意味合いにも取れる言葉です。
非常にいい人で周囲に対する人当たりもよく、穏やかで
そして大変な努力家である。そんな彼だからこそ多くの人に
愛されて、色々な人の支持を得て、全日本選手権で栄冠を
勝ち得た後に世界を舞台に活躍することができた。
これは間違いのない事実であり、評価に値するところです。
しかしながら、その一方でその人のよさというのが目的では
なく結果的にネガティブに働くこともあります。
私が以前トロイ・ベイリスや原田哲也のことを書いたときにも
指摘したのですが、ライダーというのは欲張りであり、わがまま
だからこそいいマシンを作ることができる。速く走るために
パワフルなエンジン、よく曲がる車体、機能するサスペンション、
グリップがいいタイヤを求め、気に入らなかったり、自分の
好みやライディングスタイルに合わないとやり直しを命じたり、
違うキャラクターのモノをリクエストしたり、改造させたり
する。その結果、すぐれたバイクやパーツ、自分のライディング
スタイルに合った実力を100%発揮できるモノができあがり
速く走ることができ、世界チャンピオンに近づくことができる。
ライダーの我の強さやわがままというのがエンジニアを育て
メカニックが成長し、同業他社よりいい製品ができ、
レースに勝つことができる。これは真実だと思います。
ところが宇川徹というライダーを見ていると、そういった
我の強さとかわがままさというのが感じられない。
そんな気がします。
人の良さや優れた人間性で多くの人に好かれ、ライダー
としての実力に対する評価と共に多くの人に支持され
たくさんの人が彼のために動いてくれて世界格式の
レースで戦うことができた。そのことは非常に美しく尊い
ことだと思います。
ただそういった性格がライダーとして言わなければいけないこと、
指摘しなければいけないことを自ら阻害して口を閉じることに
なっていないのかなという想像をしてしまいます。
彼が多くのエンジニアやメーカー関係者の働きに感謝すること
はいいことだと思うのですが、周りに対する感謝によって
ここまでいいマシンを用意してくれているのだからこのマシンが
自分の好みのキャラクターのマシンではないが、目の前にある
このマシンを速く走らせなければいけない。とか
コンピューターによる解析やエンジニアによるシュミレーション
でこういったバイクが速く走れるのだから、自分のいい
と思うことより、このバイクを上手く走らせるのが大事だ
と考えてしまい、自分にとって欲しいものや必要なものを
言わなくなってしまうとしたらそれはまずいことだと思います。
(このことはヴァレンティーノ・ロッシのチーフメカニックの
ジェレミー・バージェスが宇川がいいテストライダーに
なり得ない理由の一つとしてあげています。)
いい人であり、大変な努力家であり、多くの人に愛される
彼ですが、ライダーにとって必要な悪魔性というか
わがままさやアクの強さが感じられないのが何か
ある種のもの足りなさを彼から感じてしまいます。
アントニオ猪木という人はレスラーとしては優秀でしたが
私生活では色々あった人でしたし、彼の人生は彼の有する
悪魔性やわがままさで彼のせいで人生が変わってしまった人
も多かった。しかし、リングに立てば彼の様々なコンプレックス
や欲望が英雄願望や金銭欲などと美しいミクスチャーを見せて
プロレスファンだけでなく、多くの一般人にも愛され
認められるレスラー人生を歩んできました。
猪木の持つ毒気のほんの一部でも宇川君にもあれば、世界
チャンピオンにもなれたのではないかと思える私です。
今年のプロ野球を振り返る(ドラゴンズファンの目から)
2004年12月27日 スポーツ友人の多くはすでに知っていますが、かつては年にニ十試合ほど
ナゴヤ球場に通っていたドラきちです。(ドラゴンズきちがい
という意味です。最近こういう言い方はしなくなりましたが)
小学四年ごろから六年までは少年ドラゴンズ会員で、一年に
3000円ほど払って、多くの外野席のチケットを手に入れて
ライトスタンドから田尾の背中越しに小松や星野の投球を眺めて
いたドラゴンズファンでしたね。
そんな私のことですから今年のドラゴンズの優勝というのは
うれしかったですね。それも私が好きな野球をやっての
優勝でしたからね。
私の場合、多少屈折したところがあって、一時期はオリックス
ブルーウェイブの外野守備が好きでした。
イチロー、田口、本西という三人の外野トリオ。この三人が
右中間や左中間を破られるかなと思った当たりが公式記録では
単純にフライとかライナーと記録される快足とグラブさばき。
ランナーが二塁からシングルヒットでホームに入れずに外野
からの送球でアウトになったり、強い当たりのシングルヒット
ではあの三人の肩を警戒して三塁でストップをかける場面と
いうのはあの当時のブルーウェイブの強さの象徴だったと思います。
神戸グリーンスタジアムに行ってから名古屋に戻って来て
ナゴヤ球場の狭さと外野陣の躍動感のなさに落胆したこと。
そして球場は広くなったのはいいことですが、私の嫌いな
人工芝とドーム球場となったドラゴンズの本拠地のナゴヤ
ドーム元年のドラゴンズの外野の守備範囲と肩に毎晩、
夜のスポーツニュースを見てため息をつき、オリックス
ブルーウェイブの俊敏さ、躍動感と力強さを感じさせる
外野守備に美しさを感じ、感嘆の声をあげていました。
そんな私ですから、前回の優勝も当然うれしかったのですが、
今年の優勝はうれしかったですね。
ライト福留、センターアレックス、そしてレフトが大西、井上、
英智が守った外野の布陣ですが、これはレフトが固定できなかった
というのはあまりにも競争が激しかったからであって、
ドラゴンズの今季のレベルの高さを示していると思います。
アテネ五輪でそして、デッドボールで福留が抜けてしまっても
確かに空いた穴は大きかったですが、外野守備という部分では
しっかり埋めていました。
今年の夏の甲子園での阪神戦でドラゴンズの攻撃では
ランナーが二塁にいて、レフト前に強い当たりのヒットが
出たときにドラゴンズの二塁ランナーは確実にホームに
帰ってきました。
逆にランナー一塁二塁で落合がレフト前にヒットを打たれて
テレビを見ていて「あぁ、サヨナラ負けだ」と思った私や
ドラゴンズファンの目にNHKBSでもサンテレビ製作で
三重テレビで放送されていた映像でも入ってきたのは
英智のノーバウンドのスーパースロー。そしてタイガースは
サヨナラならず本塁で憤死。甲子園球場のタイガースの
さよなら勝ちを信じて疑わずあげていた歓声が一気にため息に
変わりました。
強い当たりのヒットで二塁からのランナーの得点を許してし
まった阪神の金本と少しゆるい当たりで見事なバックホームで
ホームインを許さなかった英智。あれを見てドラゴンズファンの
多くは今年のドラゴンズの強さを感じたことでしょう。
阪神ファンの気持ちというのはいかがなものだったのでしょうか。
今までのドラゴンズの優勝した時というのは恐竜打線が打ちまくって
勝ったものでした。しかし、今回の優勝というのは全く色合いの
違うチームカラーで成し遂げられたものですし、投手陣の良さと
いうのは投げる本人の能力もそうですが、少々の当たりでも
守っている野手陣によって多くの得点を防ぐことができること
とか外野守備がすごいということがどれだけチームを強くするのか
といったことを示した上で非常に意義のあるものだったと
思いましたね。
アレックスがドラゴンズ残留し、福留は負傷から戻ってきます。
来年のドラゴンズのレフトはまた激しい競争になるのでしょうが、
ドラゴンズの外野が強いオフェンス力を有しているのは間違い
ないはずです。
また来年、ドラゴンズの外野守備を楽しみに落合ドラゴンズの
戦いぶりを見たいと思っています。
ニ遊間、投手陣、打撃や走塁に関しては機会を改めて
書きたいと思っています。それにしてもジャイアンツファンや
タイガースファンは今季のドラゴンズの外野をどういう目で
見ていたのでしょうか。うらやましかったとは思いますが、
そんなことよりたくさん打ってくれと思っていたのでしょうか。
ナゴヤ球場に通っていたドラきちです。(ドラゴンズきちがい
という意味です。最近こういう言い方はしなくなりましたが)
小学四年ごろから六年までは少年ドラゴンズ会員で、一年に
3000円ほど払って、多くの外野席のチケットを手に入れて
ライトスタンドから田尾の背中越しに小松や星野の投球を眺めて
いたドラゴンズファンでしたね。
そんな私のことですから今年のドラゴンズの優勝というのは
うれしかったですね。それも私が好きな野球をやっての
優勝でしたからね。
私の場合、多少屈折したところがあって、一時期はオリックス
ブルーウェイブの外野守備が好きでした。
イチロー、田口、本西という三人の外野トリオ。この三人が
右中間や左中間を破られるかなと思った当たりが公式記録では
単純にフライとかライナーと記録される快足とグラブさばき。
ランナーが二塁からシングルヒットでホームに入れずに外野
からの送球でアウトになったり、強い当たりのシングルヒット
ではあの三人の肩を警戒して三塁でストップをかける場面と
いうのはあの当時のブルーウェイブの強さの象徴だったと思います。
神戸グリーンスタジアムに行ってから名古屋に戻って来て
ナゴヤ球場の狭さと外野陣の躍動感のなさに落胆したこと。
そして球場は広くなったのはいいことですが、私の嫌いな
人工芝とドーム球場となったドラゴンズの本拠地のナゴヤ
ドーム元年のドラゴンズの外野の守備範囲と肩に毎晩、
夜のスポーツニュースを見てため息をつき、オリックス
ブルーウェイブの俊敏さ、躍動感と力強さを感じさせる
外野守備に美しさを感じ、感嘆の声をあげていました。
そんな私ですから、前回の優勝も当然うれしかったのですが、
今年の優勝はうれしかったですね。
ライト福留、センターアレックス、そしてレフトが大西、井上、
英智が守った外野の布陣ですが、これはレフトが固定できなかった
というのはあまりにも競争が激しかったからであって、
ドラゴンズの今季のレベルの高さを示していると思います。
アテネ五輪でそして、デッドボールで福留が抜けてしまっても
確かに空いた穴は大きかったですが、外野守備という部分では
しっかり埋めていました。
今年の夏の甲子園での阪神戦でドラゴンズの攻撃では
ランナーが二塁にいて、レフト前に強い当たりのヒットが
出たときにドラゴンズの二塁ランナーは確実にホームに
帰ってきました。
逆にランナー一塁二塁で落合がレフト前にヒットを打たれて
テレビを見ていて「あぁ、サヨナラ負けだ」と思った私や
ドラゴンズファンの目にNHKBSでもサンテレビ製作で
三重テレビで放送されていた映像でも入ってきたのは
英智のノーバウンドのスーパースロー。そしてタイガースは
サヨナラならず本塁で憤死。甲子園球場のタイガースの
さよなら勝ちを信じて疑わずあげていた歓声が一気にため息に
変わりました。
強い当たりのヒットで二塁からのランナーの得点を許してし
まった阪神の金本と少しゆるい当たりで見事なバックホームで
ホームインを許さなかった英智。あれを見てドラゴンズファンの
多くは今年のドラゴンズの強さを感じたことでしょう。
阪神ファンの気持ちというのはいかがなものだったのでしょうか。
今までのドラゴンズの優勝した時というのは恐竜打線が打ちまくって
勝ったものでした。しかし、今回の優勝というのは全く色合いの
違うチームカラーで成し遂げられたものですし、投手陣の良さと
いうのは投げる本人の能力もそうですが、少々の当たりでも
守っている野手陣によって多くの得点を防ぐことができること
とか外野守備がすごいということがどれだけチームを強くするのか
といったことを示した上で非常に意義のあるものだったと
思いましたね。
アレックスがドラゴンズ残留し、福留は負傷から戻ってきます。
来年のドラゴンズのレフトはまた激しい競争になるのでしょうが、
ドラゴンズの外野が強いオフェンス力を有しているのは間違い
ないはずです。
また来年、ドラゴンズの外野守備を楽しみに落合ドラゴンズの
戦いぶりを見たいと思っています。
ニ遊間、投手陣、打撃や走塁に関しては機会を改めて
書きたいと思っています。それにしてもジャイアンツファンや
タイガースファンは今季のドラゴンズの外野をどういう目で
見ていたのでしょうか。うらやましかったとは思いますが、
そんなことよりたくさん打ってくれと思っていたのでしょうか。
今年のテニス界を振り返る女子編
2004年12月26日 スポーツウィリアムス姉妹が強すぎて数年は彼女達の天下が
続くと思った次の年にベルギー人(一人はフランス系で
もう一人はフラマン系ですが)のエナンアルデンヌと
クリシュテルスが強く、この二人に立ち向かえるのは
誰だろうかと思っていたのですが、今年はロシア人の
年となりました。
シーズンのキックオフとなったオーストラリアは前の年の
勢いそのままにベルギー対決になったのですが、
クレーコートシーズンのクライマックスのロランギャロが
ロシア人対決となり、ミスキーナが勝利。
ウィンブルドンは杉山愛に期待が高まった
のですがその杉山をQFで破ったシャラポーバが優勝をさらい、
USオープンはロシア対決になりクズネツォーバ。
まぁ、ロシア旋風が吹き荒れた一年だったなというのが
実感ですね。恐らく世界中のテニスファンも同じことを
思ったことでしょう。
ロシアのポピュラーなスポーツというとサッカーとアイスホッケー
だと思うのですが、女子サッカーや女子アイスホッケーという
のはロシアでポピュラーな印象は受けません。
運動神経が発達していて、何らかのスポーツでロシア人の
女性がお金を儲けたいとなった時にテニスを選ぶのかなとか
ITFがテニスというスポーツの普及政策が種をまいた
ところから国際的な競争力のあるプレイヤーという花が咲いた
のかなとか同じ体力や技術を持っていたらハングリーガッツの
ある方が強いよなとか思ったりします。恐らくそれらは
当たっているとは思うのですが、それ以外にも正解があるようにも
思えます。
トップ10に四人もいるなんてすごい国だと思いますが、
ただ、自国で育った人もいれば、スペインにベースを構えて
トレーニングを積んだプレイヤーもいれば、シャラポーバ
などのように子供の頃からアメリカに行って練習を積んだ
人もいるので、世界のトップに行くという目標は一緒でも
方法論ややり方はかなり違うと思います。
色々な意味でミステリアスな国というのが私のロシアに
対する印象なのですが、そのミステリアスさを今年の
女子テニスにも感じた私でした。
続くと思った次の年にベルギー人(一人はフランス系で
もう一人はフラマン系ですが)のエナンアルデンヌと
クリシュテルスが強く、この二人に立ち向かえるのは
誰だろうかと思っていたのですが、今年はロシア人の
年となりました。
シーズンのキックオフとなったオーストラリアは前の年の
勢いそのままにベルギー対決になったのですが、
クレーコートシーズンのクライマックスのロランギャロが
ロシア人対決となり、ミスキーナが勝利。
ウィンブルドンは杉山愛に期待が高まった
のですがその杉山をQFで破ったシャラポーバが優勝をさらい、
USオープンはロシア対決になりクズネツォーバ。
まぁ、ロシア旋風が吹き荒れた一年だったなというのが
実感ですね。恐らく世界中のテニスファンも同じことを
思ったことでしょう。
ロシアのポピュラーなスポーツというとサッカーとアイスホッケー
だと思うのですが、女子サッカーや女子アイスホッケーという
のはロシアでポピュラーな印象は受けません。
運動神経が発達していて、何らかのスポーツでロシア人の
女性がお金を儲けたいとなった時にテニスを選ぶのかなとか
ITFがテニスというスポーツの普及政策が種をまいた
ところから国際的な競争力のあるプレイヤーという花が咲いた
のかなとか同じ体力や技術を持っていたらハングリーガッツの
ある方が強いよなとか思ったりします。恐らくそれらは
当たっているとは思うのですが、それ以外にも正解があるようにも
思えます。
トップ10に四人もいるなんてすごい国だと思いますが、
ただ、自国で育った人もいれば、スペインにベースを構えて
トレーニングを積んだプレイヤーもいれば、シャラポーバ
などのように子供の頃からアメリカに行って練習を積んだ
人もいるので、世界のトップに行くという目標は一緒でも
方法論ややり方はかなり違うと思います。
色々な意味でミステリアスな国というのが私のロシアに
対する印象なのですが、そのミステリアスさを今年の
女子テニスにも感じた私でした。
今年のテニス界を振り返る男子編
2004年12月25日 スポーツ今年のテニスの世界を振り返ると、強い横綱が確固たる
地位を築いたなという気がしましたね。
三十年前とは違って、旧ソ連、旧共産圏、南米大陸から
たくさん選手が世界のトップを目指して覇権を争い、
シーズンオフの少ないこのスポーツで群雄割拠してきた
ここ数年でしたが、今年のロジャー・フェデラーは本当に
強かった。
その強さは84年の一年に三敗しかしなかった絶頂期の
ジョン・マッケンローを思わせるものがありますが、
国際テニス連盟の世界政策とコマーシャリズムの拡大で
前述のように選手の層が厚くなった現今でグランドスラム
イベント三勝で年間に六敗しかしなかったというのは
かつてのマッケンロー以上のものを感じました。
またテニスの質というところでもこの人には苦手な
サーフェースがないような気がします。この人が好調だったら
まず、勝てない。そう思わせるものがあります。
また苦手な対戦相手というのも思い浮かびません。
彼に勝てる相手というのはとんでもない何かを持っていないと
いけないのではないか。桁の違うパワーであるとか、
予測能力の高さと足の速さを持っていてコートカバーリングが
完璧であるとか、フェデラーがその日あまり調子の出ないところ
をひたすら突つきまくれる悪魔性というものであるとかを
有していないと難しい気がします。あるいはクレーコートで
何時間でも打ち合っていられるクレーコートスペシャリストが
持っている根気という名前の武器とかですね。
今のフェデラーのライバルというのは彼自身であると思います。
グランドスラムに一番近い存在が彼だと思います。ハングリー
ガッツをなくし、世界中を周ってホテルと試合会場に行く
毎日に楽しみも興奮も感じることなく、退屈さを感じ、
体力トレーニングも技術の向上にもモチベーションを
高めることができなくなった時に勝利の女神は他者に
微笑む気がします。
地位を築いたなという気がしましたね。
三十年前とは違って、旧ソ連、旧共産圏、南米大陸から
たくさん選手が世界のトップを目指して覇権を争い、
シーズンオフの少ないこのスポーツで群雄割拠してきた
ここ数年でしたが、今年のロジャー・フェデラーは本当に
強かった。
その強さは84年の一年に三敗しかしなかった絶頂期の
ジョン・マッケンローを思わせるものがありますが、
国際テニス連盟の世界政策とコマーシャリズムの拡大で
前述のように選手の層が厚くなった現今でグランドスラム
イベント三勝で年間に六敗しかしなかったというのは
かつてのマッケンロー以上のものを感じました。
またテニスの質というところでもこの人には苦手な
サーフェースがないような気がします。この人が好調だったら
まず、勝てない。そう思わせるものがあります。
また苦手な対戦相手というのも思い浮かびません。
彼に勝てる相手というのはとんでもない何かを持っていないと
いけないのではないか。桁の違うパワーであるとか、
予測能力の高さと足の速さを持っていてコートカバーリングが
完璧であるとか、フェデラーがその日あまり調子の出ないところ
をひたすら突つきまくれる悪魔性というものであるとかを
有していないと難しい気がします。あるいはクレーコートで
何時間でも打ち合っていられるクレーコートスペシャリストが
持っている根気という名前の武器とかですね。
今のフェデラーのライバルというのは彼自身であると思います。
グランドスラムに一番近い存在が彼だと思います。ハングリー
ガッツをなくし、世界中を周ってホテルと試合会場に行く
毎日に楽しみも興奮も感じることなく、退屈さを感じ、
体力トレーニングも技術の向上にもモチベーションを
高めることができなくなった時に勝利の女神は他者に
微笑む気がします。
クロアチアのアンチッチ家
2004年12月23日 スポーツテニスを知っている人ならマリオ・アンチッチの名前を
知っている人は多いと思います。クロアチアのスプリットから
世界を目指すという彼はゴラン・イバニセビッチの
影響を濃厚に受けた彼ですが日本のチャレンジャーレベルの
大会でもプレイしましたし、また有明で毎年行われる
AIGオープンに来て戦ったこともありました。
私は彼と会ったことも話したこともありませんが、
彼の両親と妹と会ったことがあります。
今回はそのお話を。
サーニャ・アンチッチが十四歳と三ヶ月で日本の大阪に
乗りこんできました。大会は四大大会のすぐ下のカテゴリー
になる大阪スーパージュニアです。
この大会に私は出かけたのですが、まだ体が大人になって
いないが(当然ですが)強いショットとカンの良さを
感じさせるプレイをしたいたのが彼女でした。
コートサイドで満足げに見ていたおじさんに話しかけると
これがサーニャ・アンチッチの父親でした。
また彼としばらく話していたら一人の女性がやって来ました。
これが母アンチッチでした。
父アンチッチとは英語で話していたのですが、母アンチッチ
というのはスーパーマーケットをやっているのか、
スーパーで働いているのかわかりませんが、土地柄
夏場はイタリア人の観光客が多いのでイタリア語がわかる
ので私に合わせてイタリア語で話してくれる有り様。
まぁ、うれしかったですね。
そこにサーニャがやって来て少し話してから別れましたが、
近くで見ると本当に線が細く感じました。コート上で勝っている
時はオーラが出ていて大きく見えるのでしょうが、すぐそばで
見ると本当にまだまだ体ができていないなと思いましたね。
このサーニャですが、学習能力の高さに驚きました。
一回戦ではハードコートなのに足を滑らして危ういところを
感じましたが、ニ回戦以降はそんなシーンを目にすること
は全くなかったです。
さらに、彼女の英語というのはまだまだ話す前に単語を
探しているなとかまだまだ自信がないんだなと思わせるもの
でしたが、それでも自分にとって必要なものや伝えたいことを
話そうというのがしっかり伝わってきました。
私が14歳の頃などは挨拶程度しか英語が話せなかったのに
彼女は異国で初めて会った日本人の私にはっきりと
意思を表示できていました。私の中学時代を思い出しながら
大したもんだなと思いました。
学習能力の高さ、天性のセンスを感じさせるタッチや
自分を表現するのに何とか単語を探してきて英語を
話そうとする精神性、両親のバックアップなど将来に向けて
必要なものを有している彼女これからが
非常に楽しみです。何年か後にグランドスラムイベントの
舞台に立って大きなことをやってくれる可能性を感じさせる
プレイヤーです。
知っている人は多いと思います。クロアチアのスプリットから
世界を目指すという彼はゴラン・イバニセビッチの
影響を濃厚に受けた彼ですが日本のチャレンジャーレベルの
大会でもプレイしましたし、また有明で毎年行われる
AIGオープンに来て戦ったこともありました。
私は彼と会ったことも話したこともありませんが、
彼の両親と妹と会ったことがあります。
今回はそのお話を。
サーニャ・アンチッチが十四歳と三ヶ月で日本の大阪に
乗りこんできました。大会は四大大会のすぐ下のカテゴリー
になる大阪スーパージュニアです。
この大会に私は出かけたのですが、まだ体が大人になって
いないが(当然ですが)強いショットとカンの良さを
感じさせるプレイをしたいたのが彼女でした。
コートサイドで満足げに見ていたおじさんに話しかけると
これがサーニャ・アンチッチの父親でした。
また彼としばらく話していたら一人の女性がやって来ました。
これが母アンチッチでした。
父アンチッチとは英語で話していたのですが、母アンチッチ
というのはスーパーマーケットをやっているのか、
スーパーで働いているのかわかりませんが、土地柄
夏場はイタリア人の観光客が多いのでイタリア語がわかる
ので私に合わせてイタリア語で話してくれる有り様。
まぁ、うれしかったですね。
そこにサーニャがやって来て少し話してから別れましたが、
近くで見ると本当に線が細く感じました。コート上で勝っている
時はオーラが出ていて大きく見えるのでしょうが、すぐそばで
見ると本当にまだまだ体ができていないなと思いましたね。
このサーニャですが、学習能力の高さに驚きました。
一回戦ではハードコートなのに足を滑らして危ういところを
感じましたが、ニ回戦以降はそんなシーンを目にすること
は全くなかったです。
さらに、彼女の英語というのはまだまだ話す前に単語を
探しているなとかまだまだ自信がないんだなと思わせるもの
でしたが、それでも自分にとって必要なものや伝えたいことを
話そうというのがしっかり伝わってきました。
私が14歳の頃などは挨拶程度しか英語が話せなかったのに
彼女は異国で初めて会った日本人の私にはっきりと
意思を表示できていました。私の中学時代を思い出しながら
大したもんだなと思いました。
学習能力の高さ、天性のセンスを感じさせるタッチや
自分を表現するのに何とか単語を探してきて英語を
話そうとする精神性、両親のバックアップなど将来に向けて
必要なものを有している彼女これからが
非常に楽しみです。何年か後にグランドスラムイベントの
舞台に立って大きなことをやってくれる可能性を感じさせる
プレイヤーです。
台風の時の報道に感じたこと
2004年12月21日 TV今年の日本というのは本当に台風が多くて、
直接、間接問わず被害というものを感じることが多かった
です。
台風が日本に上陸した時にテレビのニュースで各地の映像を
見ていましたが、映像というのは大体一緒でも各局特徴という
のはここ数年感じることがあります。
今回はそのあたりのことを。
NEWS23を見ていた時のこと。いつもならスタジオから
原稿を読んでいる草野満代さんがスタジオを離れて、東京の
渋谷から生の状況を伝えたり、街中を歩く人にインタビューを
していました。
当然台風の接近によって大雨です。彼女もずぶ濡れになって
いました。当然外でのお仕事なのでスタジオにいるときの
様な強い照明はなく、雨のせいでメイクも落ちていました。
草野さんの化粧の落ちた顔が全国に生中継で流れていました。
この時なんですが実は、この台風が日本にやってくる前に
草野さんはテレビ番組の放送作家とデートしているところを
写真週刊誌に撮られてしまい、それが雑誌に載ってしまいました。
そんなこともあって、どうもこの時台風で大雨が降る中
赤坂のスタジオからでなく、渋谷に行かせてテレビのスタジオ
の照明とは違う明かりで、メイクが落ちるような雨の中で
レポートさせたのはTBSがある種のお灸をすえたのでは
ないのかなと思いましたね。
こんなことは仮にTBSがそういう狙いでやったとしても
素人にそう言われて認めることはないとは思いますが。
今年の夏、というか秋に入ってからも台風が多く襲来して
やはりTBSは今年の台風の時も草野さんを渋谷あたりに
行かせて同じようにノーメイクに近い状態でレポートさせて
いました。
本人の気持ちというのはいかがなものだったのでしょうか。
他の局に目を移すと女性のアナウンサーが増えたということ
なのでしょうか。他局でも私が若い頃は決まって若手の
男のアナウンサーばかりが大雨、強風の中レポートしていま
したが今年見た限りでは女性のアナウンサーも現場から
レポートをしていましたね。
これも時代の流れなのでしょうか。女性が職場に多く
アナウンス技術がある人で見たり感じた状況を言葉に
して表現できる人であれば私は女性だろうが男性だろうが
構わないので、若い女性のアナウンサーのレポートを
何も気にせずにこんな雨の中仕事とはいえ大変だなぁと
思いながら見ていました。
ただ、私は名古屋人でTBS系のCBCを見ていましたが
ここはどういうわけか昔から男性の若手のアナウンサーが
レポートをしていました。
色々な経験をしてきているベテランのアナウンサーが
レポートしてもいいでしょうし、あの局には女性のアナウンサー
もたくさんいるはずなのですが、どういうわけか男性の
若手のアナウンサーばかりでした(私の見た限りでは)
単純にすぐに現場に飛べるアナウンサーが男性の若手の
アナウンサーだったという理由だったり、出勤している
時間帯の関係でそのアナウンサーになったとか現地集合
になるので当該の男性の若手のアナウンサー
が都合がよかったということなら何も思わないのですが、
そうじゃない理由で若手の男性のアナウンサーのみがハードな
レポートをするということなら何だか報道機関としては
おかしいのではないかとか社内的に政治的なものがあって
気に入らない部下に対して上司がこういう仕事を回している
のではないかという気がした私でした。
かつて関西テレビのあるアナウンサーはかつらを着用していて
外の仕事や風の強い時の時にナーバスになっていたという
話がありましたけどね。
直接、間接問わず被害というものを感じることが多かった
です。
台風が日本に上陸した時にテレビのニュースで各地の映像を
見ていましたが、映像というのは大体一緒でも各局特徴という
のはここ数年感じることがあります。
今回はそのあたりのことを。
NEWS23を見ていた時のこと。いつもならスタジオから
原稿を読んでいる草野満代さんがスタジオを離れて、東京の
渋谷から生の状況を伝えたり、街中を歩く人にインタビューを
していました。
当然台風の接近によって大雨です。彼女もずぶ濡れになって
いました。当然外でのお仕事なのでスタジオにいるときの
様な強い照明はなく、雨のせいでメイクも落ちていました。
草野さんの化粧の落ちた顔が全国に生中継で流れていました。
この時なんですが実は、この台風が日本にやってくる前に
草野さんはテレビ番組の放送作家とデートしているところを
写真週刊誌に撮られてしまい、それが雑誌に載ってしまいました。
そんなこともあって、どうもこの時台風で大雨が降る中
赤坂のスタジオからでなく、渋谷に行かせてテレビのスタジオ
の照明とは違う明かりで、メイクが落ちるような雨の中で
レポートさせたのはTBSがある種のお灸をすえたのでは
ないのかなと思いましたね。
こんなことは仮にTBSがそういう狙いでやったとしても
素人にそう言われて認めることはないとは思いますが。
今年の夏、というか秋に入ってからも台風が多く襲来して
やはりTBSは今年の台風の時も草野さんを渋谷あたりに
行かせて同じようにノーメイクに近い状態でレポートさせて
いました。
本人の気持ちというのはいかがなものだったのでしょうか。
他の局に目を移すと女性のアナウンサーが増えたということ
なのでしょうか。他局でも私が若い頃は決まって若手の
男のアナウンサーばかりが大雨、強風の中レポートしていま
したが今年見た限りでは女性のアナウンサーも現場から
レポートをしていましたね。
これも時代の流れなのでしょうか。女性が職場に多く
アナウンス技術がある人で見たり感じた状況を言葉に
して表現できる人であれば私は女性だろうが男性だろうが
構わないので、若い女性のアナウンサーのレポートを
何も気にせずにこんな雨の中仕事とはいえ大変だなぁと
思いながら見ていました。
ただ、私は名古屋人でTBS系のCBCを見ていましたが
ここはどういうわけか昔から男性の若手のアナウンサーが
レポートをしていました。
色々な経験をしてきているベテランのアナウンサーが
レポートしてもいいでしょうし、あの局には女性のアナウンサー
もたくさんいるはずなのですが、どういうわけか男性の
若手のアナウンサーばかりでした(私の見た限りでは)
単純にすぐに現場に飛べるアナウンサーが男性の若手の
アナウンサーだったという理由だったり、出勤している
時間帯の関係でそのアナウンサーになったとか現地集合
になるので当該の男性の若手のアナウンサー
が都合がよかったということなら何も思わないのですが、
そうじゃない理由で若手の男性のアナウンサーのみがハードな
レポートをするということなら何だか報道機関としては
おかしいのではないかとか社内的に政治的なものがあって
気に入らない部下に対して上司がこういう仕事を回している
のではないかという気がした私でした。
かつて関西テレビのあるアナウンサーはかつらを着用していて
外の仕事や風の強い時の時にナーバスになっていたという
話がありましたけどね。
中島みゆきが出た時の紅白
2004年12月20日 音楽NHKが中島みゆきをくどいて紅白に出したことがありました。
プロジェクトXの例の曲を中継でオンエアーしたのですが、
歌詞を間違えてしまったのは生歌であることや生放送である
ことをアピールしたかったのでしょうか。それとも単純にミス
だったのか当人や関係者のみが知ることでしょう。
(同じことは倉木麻衣が出演した時にもありましたが、
ひょっとしたらこれは中島みゆきがやってしまったことを
ヒントにして考えてやったことだったのでしょうか)
この放送の後、年が明けて、再び紅白で見てCDを買い求める
人が増えてオリコン、各放送局のヒットチャートをかけあがって
行きました。
当時、私は土曜日の昼は一時からFM東京製作でFM愛知で
ネット放送しているダイハツカウントダウンジャパンを
そして、昼の三時からインターFM製作で名古屋ではRADIO
ーIが放送しているスズキアリーナJーPOPトップ20を
聞いていました
前者というのはTFMをキーステーションに全国のほとんどの
都道府県で聞くことができるし、長い歴史のある番組です。
後者は東京エリアがインターFM。名古屋圏がRADIOIという
二局ネットの放送です。また歴史も浅い番組でした。
また、名古屋においては多くの人がFM愛知かZIPFMを
聞いています。後発のRADIOIを聞くという人はごく僅か
でこの局のリスナーで多いのは在名古屋外国人です。
ということでPR活動を行うとなるとミュージシャンが
出て効果的なのは聞く人口が多く、長い間土曜の昼の一時という
枠でやっていて多くの日本人にとって聴取習慣のあるダイハツ
カウントダウンジャパンであるはずです。
ところが中島みゆきという人はチャートの上位に入ってきて
コメントを寄せたのは何とスズキアリーナJーPOPトップ20
の方でした。
これには私もかなりびっくりしました。
そして、この行動というのは何かを想像をさせるに十分でした。
ひょっとしたら中島みゆきとTFMの間に何かがかつて
起きたのではないか。そして、それ故にTFMの看板番組で
あり、全国ネットであるダイハツカウントダウンジャパン
にコメントを寄せずにインターFM製作で東京とおせじにも
名古屋でリスナーが多いとは言えないRADIO−Iの
二局ネットのスズキアリーナJ−POPトップ20に
コメントを寄せたのではないのかなという気がしましたね。
これはもちろんあくまで想像でしかないのですが、
サプライズを感じたと同時にこんな想像をした私でした。
プロジェクトXの例の曲を中継でオンエアーしたのですが、
歌詞を間違えてしまったのは生歌であることや生放送である
ことをアピールしたかったのでしょうか。それとも単純にミス
だったのか当人や関係者のみが知ることでしょう。
(同じことは倉木麻衣が出演した時にもありましたが、
ひょっとしたらこれは中島みゆきがやってしまったことを
ヒントにして考えてやったことだったのでしょうか)
この放送の後、年が明けて、再び紅白で見てCDを買い求める
人が増えてオリコン、各放送局のヒットチャートをかけあがって
行きました。
当時、私は土曜日の昼は一時からFM東京製作でFM愛知で
ネット放送しているダイハツカウントダウンジャパンを
そして、昼の三時からインターFM製作で名古屋ではRADIO
ーIが放送しているスズキアリーナJーPOPトップ20を
聞いていました
前者というのはTFMをキーステーションに全国のほとんどの
都道府県で聞くことができるし、長い歴史のある番組です。
後者は東京エリアがインターFM。名古屋圏がRADIOIという
二局ネットの放送です。また歴史も浅い番組でした。
また、名古屋においては多くの人がFM愛知かZIPFMを
聞いています。後発のRADIOIを聞くという人はごく僅か
でこの局のリスナーで多いのは在名古屋外国人です。
ということでPR活動を行うとなるとミュージシャンが
出て効果的なのは聞く人口が多く、長い間土曜の昼の一時という
枠でやっていて多くの日本人にとって聴取習慣のあるダイハツ
カウントダウンジャパンであるはずです。
ところが中島みゆきという人はチャートの上位に入ってきて
コメントを寄せたのは何とスズキアリーナJーPOPトップ20
の方でした。
これには私もかなりびっくりしました。
そして、この行動というのは何かを想像をさせるに十分でした。
ひょっとしたら中島みゆきとTFMの間に何かがかつて
起きたのではないか。そして、それ故にTFMの看板番組で
あり、全国ネットであるダイハツカウントダウンジャパン
にコメントを寄せずにインターFM製作で東京とおせじにも
名古屋でリスナーが多いとは言えないRADIO−Iの
二局ネットのスズキアリーナJ−POPトップ20に
コメントを寄せたのではないのかなという気がしましたね。
これはもちろんあくまで想像でしかないのですが、
サプライズを感じたと同時にこんな想像をした私でした。
北京の次のオリンピックはどこに
2004年12月18日 スポーツ今年はオリンピックイヤーということで時差と
戦いながらアテネオリンピックを見ていましたが、
このアテネの次が北京。そしてその次がどこになるのか
気になっています。
今年のくそがつく程暑いアテネで各候補地が誘致活動を
行っていたようですが、この候補地というのがニューヨーク、
ロンドン、そしてパリです。
ニューヨークというのは、まぁアメリカの経済の中心
ですし、いいのかも知れませんが、2012年の前に
カナダで冬季五輪が開かれるので、二年の間に北米大陸で
オリンピックが続くことに対する抵抗感を感じる人も
多いですし、スポンサーサイドも難しいと思うかも
しれませんね。
ロンドンというのは私はかつて行ったことがあります。
初めてあの町に着いたときに思ったのは、バリアフリー
とは程遠い町なんだなというものでした。
よく「日本は欧米諸国と違って障害者や老人にとって
動きにくい国で公共の場所でのエレベーターやエスカレ
ーターの設置なども数少なく、道路の段差なども大きい」
と耳にしました。
私もそういった意見を耳にしていて、恐らく左翼政党の
強い国では日本より生活者にやさしい町作りができている
のだろうなと思っていました。
ところが、そんな私はロンドンを周ってみて、これは
障害者やお年よりにとって大変移動が難しい町だなと
いう感想を抱きました。
ロンドンの地下鉄は車椅子などで移動している人は
どうやっているのだろうかと考えてしまいますし、
イギリス国鉄は床が高くて、足腰の弱っているお年寄の
ことを考えていない気がします。
全く欧米諸国という言葉は本当に範囲が広すぎるという
気がします。トルコとフィンランドでは文化も風習も
物価も相当違うと思いますね。私が知っている中で
障害者対策ができていて、足腰の弱くなったお年寄でも
楽に移動ができるシステムができているのは、ドイツ、
スイス、オランダですね。イタリアという国は左翼が
伝統的に強く、人がやさしく、観光で食っている人が多く
愛とか情熱とか口にしますが、愛と情熱はサッカーと
セックスに関してばかりで、福祉政策はセリエCのレベル
だと思います。
閑話休題。かつて大阪に行ったときに松岡修造が大阪
オリンピックパラリンピックの誘致活動に力を入れていて、
様々な発言をしているのを見て、大阪はオリンピックはできる
かも知れないけれど、あの町がパラリンピックに相応しい
とは思えないよなぁと思っていましたが、そのような
気持ちをロンドンに抱いています。
オリンピック、パラリンピックに相応しい町というのは
存在すると思いますが、ロンドンはとてもそうは思えない
私でした。
パリはどうなのかはわかりませんが、生活者の視点、
身内に障害者がいた家族の一員としての見方で一度
パリに行って色々なことを感じ取りないなと思っています。
戦いながらアテネオリンピックを見ていましたが、
このアテネの次が北京。そしてその次がどこになるのか
気になっています。
今年のくそがつく程暑いアテネで各候補地が誘致活動を
行っていたようですが、この候補地というのがニューヨーク、
ロンドン、そしてパリです。
ニューヨークというのは、まぁアメリカの経済の中心
ですし、いいのかも知れませんが、2012年の前に
カナダで冬季五輪が開かれるので、二年の間に北米大陸で
オリンピックが続くことに対する抵抗感を感じる人も
多いですし、スポンサーサイドも難しいと思うかも
しれませんね。
ロンドンというのは私はかつて行ったことがあります。
初めてあの町に着いたときに思ったのは、バリアフリー
とは程遠い町なんだなというものでした。
よく「日本は欧米諸国と違って障害者や老人にとって
動きにくい国で公共の場所でのエレベーターやエスカレ
ーターの設置なども数少なく、道路の段差なども大きい」
と耳にしました。
私もそういった意見を耳にしていて、恐らく左翼政党の
強い国では日本より生活者にやさしい町作りができている
のだろうなと思っていました。
ところが、そんな私はロンドンを周ってみて、これは
障害者やお年よりにとって大変移動が難しい町だなと
いう感想を抱きました。
ロンドンの地下鉄は車椅子などで移動している人は
どうやっているのだろうかと考えてしまいますし、
イギリス国鉄は床が高くて、足腰の弱っているお年寄の
ことを考えていない気がします。
全く欧米諸国という言葉は本当に範囲が広すぎるという
気がします。トルコとフィンランドでは文化も風習も
物価も相当違うと思いますね。私が知っている中で
障害者対策ができていて、足腰の弱くなったお年寄でも
楽に移動ができるシステムができているのは、ドイツ、
スイス、オランダですね。イタリアという国は左翼が
伝統的に強く、人がやさしく、観光で食っている人が多く
愛とか情熱とか口にしますが、愛と情熱はサッカーと
セックスに関してばかりで、福祉政策はセリエCのレベル
だと思います。
閑話休題。かつて大阪に行ったときに松岡修造が大阪
オリンピックパラリンピックの誘致活動に力を入れていて、
様々な発言をしているのを見て、大阪はオリンピックはできる
かも知れないけれど、あの町がパラリンピックに相応しい
とは思えないよなぁと思っていましたが、そのような
気持ちをロンドンに抱いています。
オリンピック、パラリンピックに相応しい町というのは
存在すると思いますが、ロンドンはとてもそうは思えない
私でした。
パリはどうなのかはわかりませんが、生活者の視点、
身内に障害者がいた家族の一員としての見方で一度
パリに行って色々なことを感じ取りないなと思っています。
昨年レッジョエミリアに居た時のこと
2004年12月17日 スポーツイタリアにいるときにはレッジョエミリアの
ユースホステルにいることが多いのですが、今回は
昨年の秋の滞在時の時のことを。
イタリアという国ではF1とMOTOGPは生放送で
オンエアーされています。でもって、私がいた時期という
のが、ちょうどF1の鈴鹿とMOTOGPのセパンが
重なった日のことでした。
F1の方ではシューマッハーが世界チャンピオンを決定
するのが確実視されたレース。そしてMOTOGPでは
ヴァレンティーノ・ロッシがタイトルに王手を掛けて
走るレースを前者は日本から後者はマレーシアから
生放送で中継するという状況でした。
イタリアという国はモータースポーツが盛んであるし、
見ている人も多いのですが、よく彼らは「F1が好きだ」と
口にしますが、これは私の理解では正しくないような
気がします。彼らは「フェッラーリが好きだ」というのが
正しい言い方だと思います。
私がサーキットでよく顔を合わせるイタリア人のモーター
スポーツジャーナリストのファブリッツィオ・カリアという
人はかつて私に「イタリアというのはF1という言葉の
意味の90%がフェッラーリで残りの10%がイタリア人
ドライバーなんだ」と言っていましたが、それは全くもって
正しいと思いますね。
そして、MOTOGPではイタリアを代表するスーパースター
となったヴァレンティーノ・ロッシの人気というのは
すさまじいもので、プライベートがなくなってしまうという
ことで彼はロンドンに引っ越してしまいました。
そんなイタリアの熱狂的な空気というのは同じ宿に泊まっていた
連中も有していましたね。朝の五時にテレビルームに行くと
すでにF1を見るために人が集まってきていました。
フェッラーリに乗るドイツ人のレースが始まりましたが、
これがまぁレースというのは何が起こるかわからないもので
シューマッハーと言えども思いもよらぬことでポジションを
落としたりしました。
まわりがイタリア人ばかりいたところで私はこの時の
レースに浪人生活から脱却し日曜日にヘルメットをかぶった
佐藤琢磨の応援をしていたのですが、よりによって
彼とシューマッハーが軽い接触を起こしてしまいました。
大事には至らなかったものの、まぁ周りの私に対する視線
の厳しさと冷たさは何とも言えない嫌なものでした。
シューマッハーはチャンピオンを決めたのですが、もし
あの時、接触によるダメージがひどくて走れなくなり
タイトルを他のドイラバーにさらわれたらどんなことに
なっていたのか考えるだけでもぞっとしました。
F1の日本が終わり、チャンネルを変えて今度は
MOTOGPのマレーシアに。
ヴァレンティーノの出身地のペーザロでは広場に
大きなスクリーンを設置して朝早くから黄色に青で46
と書かれたボードを持って応援していたようです。
現地の消費者物価からしたら高い値段となってしまって
いてマレーシア在住の方がレースに行くことなく
がらんとしたサーキットでヴァレンティーノは世界
タイトルを獲りました。
これもまた大きなニュースとなりました。イタリアで
最も人気のあるイタリア人ライダーがチャンピオンに
なったのでから当然ですね。テレビの前の連中も大喜び
でした。イタリアでモータースポーツをイタリア人と共に
見るというのはウィンブルドンのセンターコートで
テニスファンが好きなプレイヤーの試合を見るような
エキサイティングなものを感じます。
翌日のスポーツ新聞のトップは当然シューマッハーと
ロッシでした。
ユースホステルにいることが多いのですが、今回は
昨年の秋の滞在時の時のことを。
イタリアという国ではF1とMOTOGPは生放送で
オンエアーされています。でもって、私がいた時期という
のが、ちょうどF1の鈴鹿とMOTOGPのセパンが
重なった日のことでした。
F1の方ではシューマッハーが世界チャンピオンを決定
するのが確実視されたレース。そしてMOTOGPでは
ヴァレンティーノ・ロッシがタイトルに王手を掛けて
走るレースを前者は日本から後者はマレーシアから
生放送で中継するという状況でした。
イタリアという国はモータースポーツが盛んであるし、
見ている人も多いのですが、よく彼らは「F1が好きだ」と
口にしますが、これは私の理解では正しくないような
気がします。彼らは「フェッラーリが好きだ」というのが
正しい言い方だと思います。
私がサーキットでよく顔を合わせるイタリア人のモーター
スポーツジャーナリストのファブリッツィオ・カリアという
人はかつて私に「イタリアというのはF1という言葉の
意味の90%がフェッラーリで残りの10%がイタリア人
ドライバーなんだ」と言っていましたが、それは全くもって
正しいと思いますね。
そして、MOTOGPではイタリアを代表するスーパースター
となったヴァレンティーノ・ロッシの人気というのは
すさまじいもので、プライベートがなくなってしまうという
ことで彼はロンドンに引っ越してしまいました。
そんなイタリアの熱狂的な空気というのは同じ宿に泊まっていた
連中も有していましたね。朝の五時にテレビルームに行くと
すでにF1を見るために人が集まってきていました。
フェッラーリに乗るドイツ人のレースが始まりましたが、
これがまぁレースというのは何が起こるかわからないもので
シューマッハーと言えども思いもよらぬことでポジションを
落としたりしました。
まわりがイタリア人ばかりいたところで私はこの時の
レースに浪人生活から脱却し日曜日にヘルメットをかぶった
佐藤琢磨の応援をしていたのですが、よりによって
彼とシューマッハーが軽い接触を起こしてしまいました。
大事には至らなかったものの、まぁ周りの私に対する視線
の厳しさと冷たさは何とも言えない嫌なものでした。
シューマッハーはチャンピオンを決めたのですが、もし
あの時、接触によるダメージがひどくて走れなくなり
タイトルを他のドイラバーにさらわれたらどんなことに
なっていたのか考えるだけでもぞっとしました。
F1の日本が終わり、チャンネルを変えて今度は
MOTOGPのマレーシアに。
ヴァレンティーノの出身地のペーザロでは広場に
大きなスクリーンを設置して朝早くから黄色に青で46
と書かれたボードを持って応援していたようです。
現地の消費者物価からしたら高い値段となってしまって
いてマレーシア在住の方がレースに行くことなく
がらんとしたサーキットでヴァレンティーノは世界
タイトルを獲りました。
これもまた大きなニュースとなりました。イタリアで
最も人気のあるイタリア人ライダーがチャンピオンに
なったのでから当然ですね。テレビの前の連中も大喜び
でした。イタリアでモータースポーツをイタリア人と共に
見るというのはウィンブルドンのセンターコートで
テニスファンが好きなプレイヤーの試合を見るような
エキサイティングなものを感じます。
翌日のスポーツ新聞のトップは当然シューマッハーと
ロッシでした。
スーパーバイクに見るサーキットとファンの距離
2004年12月14日 スポーツ世界選手権の掛かったバイクのレースというのは
スーパーバイク世界選手権(SBK)とMOTOGP
と二つあるのですが、すでに書いているように私が好き
なのはスーパーバイクの方です。
SBKの方はチームやメーカーと何らかの関係
があればパスの入手が割に簡単であるし、仮に手に入れる
ことが不可能であった時でも購入することができる。
しかし、GPの方はパスの発給というのは実にシビアで
なかなか手にいれるのは難しい。
また、パドックの中において、SBKの場合、各バイクメーカー
がバイクを展示して、カタログを用意したり、ポスターを
配布していたり、部品メーカーなども市販品に関する
PR活動をしていて頻繁にサイン会などを催したり、
実際ファンでありバイカーであるお客さんがメーカーの
エンジニアや広報担当の方々と話す機会を得たり、質問
できる環境というのがあります。
ところがGPというのはパスの入手が難しい上にパドック
内でPR活動ができないような状況になっています。
これはお金と人とマテルアルをすごくかけても一般消費者に
どれだけアピールできるかという点で問題ですね。
SBKにはメーカーさんと消費者の皆さんとの間に
密接な関係というか美しい距離感というものを感じます。
一方、GPというのはレースのレベルというのは高いと
思うのですが、レースに参加する上でのインフレが進む
中、スポンサード活動をダイレクトに消費者に向けての
PR活動に結び付けられない現況があります。
さらにGPというのは125cc、250cc、MOTOGP
クラスの三クラスによって成り立っていますが、この125cc
クラスというのを主催者側は入門クラス、若年層によるクラス
という位置付けをここ数年していて、参加する上で
年齢制限を設けています。
私はこれは間違いだと思います。年齢を重ねていても速い
ライダーはいますし、様々な理由で250ccやMOTOGP
で参戦できない人もいて125ccなら自分の実力を
発揮できるというベテランライダーにとってはこの
カテゴライズのあり方は死活問題です。
実際、それが理由でライダー人生の再設計を迫られたり、
違うクラスへ転向することを余儀なくされたライダーも
たくさんいます。
この点においてもSBKはリアル最速ライダー世界一決定
戦を実践しているように思えます。
SBKはスーパーバイク(SBK)とスーパースポート(SS)
というクラス。そして、ヨーロッパではスーパーバイクと同じ
マシンを使ったヨーロッパスーパーストック選手権(EU STK)
が行われています。
このEU STKというのは125ccとMOTOGPのように
排気量が違うわけでなく、同じバイクを使って行われて
いていきなり世界選手権に行く前にヨーロッパ選手権という
格式で若いライダーに走らせるチャンスを世界選手権を
開催しているサーキットで走るチャンスを作っているわけで
一つのカテゴリーに若いライダーだけに走ってもらうという
ことではなく、いい勉強と経験の場を与えることにも
なっています。
そんなこともあって、私はSBKの方が行っていて、見ていて
楽しいですね。また、関係者の方々も私のような者でも
言っていることが筋が通っていたり、興味深いことであると
耳を傾ける方が多くいらっしゃいますね。
私にとって好きなレースはSBKということになります。
スーパーバイク世界選手権(SBK)とMOTOGP
と二つあるのですが、すでに書いているように私が好き
なのはスーパーバイクの方です。
SBKの方はチームやメーカーと何らかの関係
があればパスの入手が割に簡単であるし、仮に手に入れる
ことが不可能であった時でも購入することができる。
しかし、GPの方はパスの発給というのは実にシビアで
なかなか手にいれるのは難しい。
また、パドックの中において、SBKの場合、各バイクメーカー
がバイクを展示して、カタログを用意したり、ポスターを
配布していたり、部品メーカーなども市販品に関する
PR活動をしていて頻繁にサイン会などを催したり、
実際ファンでありバイカーであるお客さんがメーカーの
エンジニアや広報担当の方々と話す機会を得たり、質問
できる環境というのがあります。
ところがGPというのはパスの入手が難しい上にパドック
内でPR活動ができないような状況になっています。
これはお金と人とマテルアルをすごくかけても一般消費者に
どれだけアピールできるかという点で問題ですね。
SBKにはメーカーさんと消費者の皆さんとの間に
密接な関係というか美しい距離感というものを感じます。
一方、GPというのはレースのレベルというのは高いと
思うのですが、レースに参加する上でのインフレが進む
中、スポンサード活動をダイレクトに消費者に向けての
PR活動に結び付けられない現況があります。
さらにGPというのは125cc、250cc、MOTOGP
クラスの三クラスによって成り立っていますが、この125cc
クラスというのを主催者側は入門クラス、若年層によるクラス
という位置付けをここ数年していて、参加する上で
年齢制限を設けています。
私はこれは間違いだと思います。年齢を重ねていても速い
ライダーはいますし、様々な理由で250ccやMOTOGP
で参戦できない人もいて125ccなら自分の実力を
発揮できるというベテランライダーにとってはこの
カテゴライズのあり方は死活問題です。
実際、それが理由でライダー人生の再設計を迫られたり、
違うクラスへ転向することを余儀なくされたライダーも
たくさんいます。
この点においてもSBKはリアル最速ライダー世界一決定
戦を実践しているように思えます。
SBKはスーパーバイク(SBK)とスーパースポート(SS)
というクラス。そして、ヨーロッパではスーパーバイクと同じ
マシンを使ったヨーロッパスーパーストック選手権(EU STK)
が行われています。
このEU STKというのは125ccとMOTOGPのように
排気量が違うわけでなく、同じバイクを使って行われて
いていきなり世界選手権に行く前にヨーロッパ選手権という
格式で若いライダーに走らせるチャンスを世界選手権を
開催しているサーキットで走るチャンスを作っているわけで
一つのカテゴリーに若いライダーだけに走ってもらうという
ことではなく、いい勉強と経験の場を与えることにも
なっています。
そんなこともあって、私はSBKの方が行っていて、見ていて
楽しいですね。また、関係者の方々も私のような者でも
言っていることが筋が通っていたり、興味深いことであると
耳を傾ける方が多くいらっしゃいますね。
私にとって好きなレースはSBKということになります。
イタリアのテレビ局と仕事した時の話
2004年12月13日 スポーツ最後のトヨタカップが昨日終わりました。昨晩のあの
試合はテレビの前で一視聴者として見ていましたが、
昨年は現場に行っていました。
まぁ、これは仕事ということで行っていたのですが、
この時の仕事というのはタイトルにあるようにACミラン
がヨーロッパ代表として出場したので、イタリアにおける
地上波の放映権を有していたメディアセットの中の
製作会社のお手伝いをしていたわけです。
サッカーのことを知っている人にとってはミランが出てきて
そのチームの会長がベルルスコーニで、テレビ放映が
メディアセットになるというのはよくわかると思います。
今は政治の世界にいるベルルスコーニですが、もともとは
イタリアのメディア王ですからね。マスコミから政財界に
影響力があり、人にアドバイスを与えたり、支援するだけで
は物足りなくなり自ら政界入りしたのが彼です。
私は試合日の一週間前から試合翌日の彼らの帰国便まで
お付き合いしたのですが、色々な意味で面白かったですね。
日本という国は独裁国家でもなければ、どこかの国に占領
されているわけでもないので、個人の政治的な自由とか
お気に入りの野球チームがあってもいいはずです。
ところが、どういうわけか各社のカラーというのを濃厚に
感じることが多いです。
本当かうそか知りませんが、日本テレビはジャイアンツファン
でないと入社できないという噂もあるほどです。
実際、私は入社試験を受けたわけではないし、
社内に入ったこともないので当事者に話を聞いたわけでも
なく伝え聞いた範囲ですが何か信憑性は感じます。
また、私は名古屋人ですが、名古屋のテレビ局やラジオ局
はどうもドラゴンズファンを採用しているような
(とりわけスポーツアナウンサーに関しては)気がします。
そんな印象を日本のメディア関係者に抱いている私が
イタリアのベルルスコーニ系のテレビ関係者と会った
のですが、これがベルルスコーニ嫌いが多い。
彼の政治手法やビジネスの進め方が嫌だという人が
多かったですね。
さらにミランは好きだけれどベルルスコーニは嫌いと
いうのもいました。
実際イタリアではミラニスタだけど、アンチベルルスコーニ
でフォルツァイタリアに投票したことがないという人も
多いようですし、インテリスタだがベルルスコーニ支持
という人もいるようです。
当初私は何だか変だなと思いましたが、これは民主主義が
ある意味機能しているんだなと思いましたね。
独裁国家や独裁的な組織というのは他の意見や思想を受け入れ
ない体制を指すのでしょうが、政治的な意見を表明する自由
や好きなサッカーチームは自分の働く組織とは無関係でも
いいということはいいことのように思います。
ジャイアンツファンの中にナベツネ嫌いというのは
どれくらいいるのかわかりませんが、渡辺恒雄という
人が間違いを犯したり、変な方向に物事を導こうとした
時にNOを言える読売新聞社やジャイアンツファンという
のがどれほどいるのか知りたい私です。大橋巨泉という
人はそういう人の一人だと思いますが。
試合はテレビの前で一視聴者として見ていましたが、
昨年は現場に行っていました。
まぁ、これは仕事ということで行っていたのですが、
この時の仕事というのはタイトルにあるようにACミラン
がヨーロッパ代表として出場したので、イタリアにおける
地上波の放映権を有していたメディアセットの中の
製作会社のお手伝いをしていたわけです。
サッカーのことを知っている人にとってはミランが出てきて
そのチームの会長がベルルスコーニで、テレビ放映が
メディアセットになるというのはよくわかると思います。
今は政治の世界にいるベルルスコーニですが、もともとは
イタリアのメディア王ですからね。マスコミから政財界に
影響力があり、人にアドバイスを与えたり、支援するだけで
は物足りなくなり自ら政界入りしたのが彼です。
私は試合日の一週間前から試合翌日の彼らの帰国便まで
お付き合いしたのですが、色々な意味で面白かったですね。
日本という国は独裁国家でもなければ、どこかの国に占領
されているわけでもないので、個人の政治的な自由とか
お気に入りの野球チームがあってもいいはずです。
ところが、どういうわけか各社のカラーというのを濃厚に
感じることが多いです。
本当かうそか知りませんが、日本テレビはジャイアンツファン
でないと入社できないという噂もあるほどです。
実際、私は入社試験を受けたわけではないし、
社内に入ったこともないので当事者に話を聞いたわけでも
なく伝え聞いた範囲ですが何か信憑性は感じます。
また、私は名古屋人ですが、名古屋のテレビ局やラジオ局
はどうもドラゴンズファンを採用しているような
(とりわけスポーツアナウンサーに関しては)気がします。
そんな印象を日本のメディア関係者に抱いている私が
イタリアのベルルスコーニ系のテレビ関係者と会った
のですが、これがベルルスコーニ嫌いが多い。
彼の政治手法やビジネスの進め方が嫌だという人が
多かったですね。
さらにミランは好きだけれどベルルスコーニは嫌いと
いうのもいました。
実際イタリアではミラニスタだけど、アンチベルルスコーニ
でフォルツァイタリアに投票したことがないという人も
多いようですし、インテリスタだがベルルスコーニ支持
という人もいるようです。
当初私は何だか変だなと思いましたが、これは民主主義が
ある意味機能しているんだなと思いましたね。
独裁国家や独裁的な組織というのは他の意見や思想を受け入れ
ない体制を指すのでしょうが、政治的な意見を表明する自由
や好きなサッカーチームは自分の働く組織とは無関係でも
いいということはいいことのように思います。
ジャイアンツファンの中にナベツネ嫌いというのは
どれくらいいるのかわかりませんが、渡辺恒雄という
人が間違いを犯したり、変な方向に物事を導こうとした
時にNOを言える読売新聞社やジャイアンツファンという
のがどれほどいるのか知りたい私です。大橋巨泉という
人はそういう人の一人だと思いますが。
スーパーバイクライダージョバンニ・ブセイとの出会い
2004年12月11日 スポーツスーパーバイク世界選手権(SBK)に参戦している
ジョバンニ・ブセイとの出会いというのは99年のオース
トリアでした。
いつもサーキットで顔を合わせるスイス人のフォトグラファーと
会い、彼が「このブセイというのはいいライダーだ。」と
話していました。
当時の彼というのはドイツ選手権のSBKクラスに出走して
いて、このオーストリアラウンドの参加というのは
スポット参戦によるものでした。
型落ちのスズキGSV−R750。チームは小規模で
多くのメーカー系チームに比べると人やモノで相当見劣りする
チームでした。
その彼が雨のレースとなったこのA1リンクでの戦いで
寒い中熱い走りを見せてくれました。
第一レースは残念ながらリタイアに終わったものの、第二
レースで予選17位からロケットダッシュを決めて、何と
二周目のスタートフィニッシュラインでは二位浮上。
この年のSBKというのはドゥカティ、ホンダ、ヤマハ、スズキ
、カワサキ、アプリリアがワークス参加していて莫大な
お金とモノをかけている中、型落ちのマシン、小さな
プライベートチームの彼が何と二番手を走る大健闘を見せて
くれました。
残念ながら、その後コースアウトして順位を落としたものの
四位を走行して、レースが落ち着き彼の素晴らしい週末は
四位という考えられる上での最良の成績で終わるかに思え
ました。
ところが最終ラップ、ウィナ−のキリ、そして二位、三位
とライダーが雨しぶきをあげながらチェッカードフラッグ
を受ける中、ブセイが帰ってきません。
こういう時の待っている五秒、十秒は本当に長く感じるもの
です。
私の頭の中に転んだのか、マシンが壊れたのか、嫌な
想像がよぎります。
テレビを凝視している私に、最終コーナーからチームアルファ
テクニックのスズキGSV−Rがよろよろと現れました。
ガソリンがほとんど切れる状態で引きずるようにフィニッシュ
ラインをまたいだブセイとスズキのマシン。
そう、彼は雨のコンディションで、フルスロットルになる
時間が少なくなると見込んで、群雄が割拠するレースに
ぎりぎりのオイルを搭載して走るというギャンブルを
打ったのでした。
オイルが無くなりかけながら、レースを捨てずに六位という
リザルトを得たブセイはピットウォールにマシンをよせて
チームのメカニックと抱き合って、この素晴らしいリザルトと
喜びを分かち合いました。
何ともいいなぁと思いながら、テレビを見ていたところに
TMC(現La7)のピットレポーターが駆け寄り生々しい
インタビューをしようとしているのを見て、私は悔しさと
うらやましさが同居した気持ちを抱きました。
日本人でこれができるのはオレだけなのに、日本のテレビは
SBKの放送は現地に人を派遣しなくて、映像を送って
もらい、東京のスタジオで音声をつけてスカパーで放映して
いるわけで、この感動的なフィニッシュに関してインタビュー
できないでいる。また、私には表現の場所というのが
なかった。いいシーン、素晴らしいレースを言葉にして
発表する土壌がなかった。それに対して、イタリアのテレビ局は
ちゃんとレポーターがいて、インタビューを取っていた。
悔しいし、うらやましいし、さみしいし、悲しい気持ちになり
ましたね。
その後、レースが終わってブセイのピットに行くと彼は撤収作業
をメカニックと共に手伝いながらジャーナリストの質問に
答えていました。
そこに残念ながら日本人のジャーナリストの姿はなかった
ですね。
ひょっとしたらこの経験がこのブログを始める理由の一つに
なったかもしれません。
その後の彼と私の間にはつかず離れずのいい関係があり、
私がライバルチームの一員となった時も親しく話しますし、
昨年も今年も普通に会えば色々と会話を楽しんでいます。
彼のイタリア語というのは少し聞きにくいところもあり
ますが、楽しい時を過ごしています。
05年の彼はカワサキベルトッキでニンジャのリッターバイク
を駆ることになるようですが、彼のレースに対する
情熱や速さは変わらないと思います。
ジョバンニ・ブセイとの出会いというのは99年のオース
トリアでした。
いつもサーキットで顔を合わせるスイス人のフォトグラファーと
会い、彼が「このブセイというのはいいライダーだ。」と
話していました。
当時の彼というのはドイツ選手権のSBKクラスに出走して
いて、このオーストリアラウンドの参加というのは
スポット参戦によるものでした。
型落ちのスズキGSV−R750。チームは小規模で
多くのメーカー系チームに比べると人やモノで相当見劣りする
チームでした。
その彼が雨のレースとなったこのA1リンクでの戦いで
寒い中熱い走りを見せてくれました。
第一レースは残念ながらリタイアに終わったものの、第二
レースで予選17位からロケットダッシュを決めて、何と
二周目のスタートフィニッシュラインでは二位浮上。
この年のSBKというのはドゥカティ、ホンダ、ヤマハ、スズキ
、カワサキ、アプリリアがワークス参加していて莫大な
お金とモノをかけている中、型落ちのマシン、小さな
プライベートチームの彼が何と二番手を走る大健闘を見せて
くれました。
残念ながら、その後コースアウトして順位を落としたものの
四位を走行して、レースが落ち着き彼の素晴らしい週末は
四位という考えられる上での最良の成績で終わるかに思え
ました。
ところが最終ラップ、ウィナ−のキリ、そして二位、三位
とライダーが雨しぶきをあげながらチェッカードフラッグ
を受ける中、ブセイが帰ってきません。
こういう時の待っている五秒、十秒は本当に長く感じるもの
です。
私の頭の中に転んだのか、マシンが壊れたのか、嫌な
想像がよぎります。
テレビを凝視している私に、最終コーナーからチームアルファ
テクニックのスズキGSV−Rがよろよろと現れました。
ガソリンがほとんど切れる状態で引きずるようにフィニッシュ
ラインをまたいだブセイとスズキのマシン。
そう、彼は雨のコンディションで、フルスロットルになる
時間が少なくなると見込んで、群雄が割拠するレースに
ぎりぎりのオイルを搭載して走るというギャンブルを
打ったのでした。
オイルが無くなりかけながら、レースを捨てずに六位という
リザルトを得たブセイはピットウォールにマシンをよせて
チームのメカニックと抱き合って、この素晴らしいリザルトと
喜びを分かち合いました。
何ともいいなぁと思いながら、テレビを見ていたところに
TMC(現La7)のピットレポーターが駆け寄り生々しい
インタビューをしようとしているのを見て、私は悔しさと
うらやましさが同居した気持ちを抱きました。
日本人でこれができるのはオレだけなのに、日本のテレビは
SBKの放送は現地に人を派遣しなくて、映像を送って
もらい、東京のスタジオで音声をつけてスカパーで放映して
いるわけで、この感動的なフィニッシュに関してインタビュー
できないでいる。また、私には表現の場所というのが
なかった。いいシーン、素晴らしいレースを言葉にして
発表する土壌がなかった。それに対して、イタリアのテレビ局は
ちゃんとレポーターがいて、インタビューを取っていた。
悔しいし、うらやましいし、さみしいし、悲しい気持ちになり
ましたね。
その後、レースが終わってブセイのピットに行くと彼は撤収作業
をメカニックと共に手伝いながらジャーナリストの質問に
答えていました。
そこに残念ながら日本人のジャーナリストの姿はなかった
ですね。
ひょっとしたらこの経験がこのブログを始める理由の一つに
なったかもしれません。
その後の彼と私の間にはつかず離れずのいい関係があり、
私がライバルチームの一員となった時も親しく話しますし、
昨年も今年も普通に会えば色々と会話を楽しんでいます。
彼のイタリア語というのは少し聞きにくいところもあり
ますが、楽しい時を過ごしています。
05年の彼はカワサキベルトッキでニンジャのリッターバイク
を駆ることになるようですが、彼のレースに対する
情熱や速さは変わらないと思います。
日本という国を離れて、外国を周っていて、色々なものを
見て、肌で感じて、強く思うことがあります。
今はインターネットなどがあって、大新聞や部数の多い雑誌に
載らないことを読むことができますが、それ以前というのは
日本のマスメディアで取り上げられること、書かれていること
がかなりの確度で正しいことだと思っていました。
それが日本を離れて現場で自分の目で見て、感じることで
それが違うことも多いことに気がつきました。
例えばアメリカによるベオグラードの中国大使館誤爆の
ニュース。
日本やアメリカという国ではあれは誤爆ということになって
います。
でもって、あそこの写真を見せてもらってびっくり。
誤爆というのならピンポイントで間違えたとでも言えば
いいのでしょうか。
未だにアメリカ人や日本人は誤爆だと思っているようですが、
どうも違う気がします。
こういった話も何故か日本の全国紙に出ないですね。
ホワイトハウスに遠慮があるのは首相官邸だけでなく
新聞社や雑誌社にもあるのでしょうか。
そんなこんなでマスメディアよりナローメディアが
気になる最近の私です。
見て、肌で感じて、強く思うことがあります。
今はインターネットなどがあって、大新聞や部数の多い雑誌に
載らないことを読むことができますが、それ以前というのは
日本のマスメディアで取り上げられること、書かれていること
がかなりの確度で正しいことだと思っていました。
それが日本を離れて現場で自分の目で見て、感じることで
それが違うことも多いことに気がつきました。
例えばアメリカによるベオグラードの中国大使館誤爆の
ニュース。
日本やアメリカという国ではあれは誤爆ということになって
います。
でもって、あそこの写真を見せてもらってびっくり。
誤爆というのならピンポイントで間違えたとでも言えば
いいのでしょうか。
未だにアメリカ人や日本人は誤爆だと思っているようですが、
どうも違う気がします。
こういった話も何故か日本の全国紙に出ないですね。
ホワイトハウスに遠慮があるのは首相官邸だけでなく
新聞社や雑誌社にもあるのでしょうか。
そんなこんなでマスメディアよりナローメディアが
気になる最近の私です。
モトGPとスーパーバイクの違い
2004年12月6日 スポーツモトGP(GP)とスーパーバイク(SBK)とバイクの
レースの世界選手権の掛かったレースが二つありますが、
私の好きなのはSBKですね。
日本ではテレビの放送であるとか、日本人ライダーの参戦や
日本で開催されていることなどもあってGPの方が人気がある
のですが、どうもF1の悪いところ、好ましくないところを
取りいれていて最近の私は好きではないですね。
よくGPで規則を変えるときに環境問題を考えてと話して
から変えることがあります。
果たして彼らは本当にそう思っているのでしょうか。
私には全くそう思えません。
近年では無鉛ガソリンの採用やGPのモトGPクラスの
4ストロークエンジンの使用ということは環境問題を
考えてということでこれらの採用ということになりました。
そのこと自体は別に問題はないのですが、それであると
したら同時並行でやるべきことはたくさんあるはずです。
私がサーキットに行く時に大体、交通渋滞ということが
あります。
渋滞により、排気ガス、ごみを撒き散らしている気がします。
これなどパークアンドライドといった形のことを行うこと
で交通渋滞の解消とそれに伴って発生するガスやごみを
取り除くことができると思うのですが、これをやっているのは
私の知る限りオーストラリアやオランダぐらいだと思います。
サーキットの中ではどうでしょうか。
よく混ぜればごみ、分ければ資源だと言われますが、
パドックの中で何を留意して、どうしているのでしょうか。
まぁ、まぜてしまって捨てているように思います。
05年開港する中部新国際空港というのは環境保護に留意して
ソーラーパネルなどを設置してできる限り自然によって
得られるものを使って僅かかもしれませんが電気を自然の
力を利用して作り出してそれを使用することにしています。
少なくとも言っていることとやっていることに違いはないですね。
ところがあまりにもGPの場合は環境保護を言いながらやらなけれ
ばいけないことがやっていないですね。
環境保護グループや活動家にパスを発給して、何をどうすれば
いいのか意見を聞いて、それを運営に活かすということも
していません。
スーパーバイクに関してはルールを変える時には
少なくとも環境保護を考えて変えて何も環境保護を考えない
なんてことはないですね。
彼らがルールを変更する時にはよりチーム間の格差をなくす
とか、一つのメーカーが突出しないようにするという
ことを考えて変えているわけで、それが言葉通り
しているわけで言っていることと実際が違うということ
がないので筋が通っていて理解できます。
これはSBKのチームやライダーに出費している関連の
メーカーにもスポンサーの多くにも好ましい状況でしょう。
GPとSBKには主催者というか統括団体の正直さというか
実直さの大きな違いが存在していると思います。
レースの世界選手権の掛かったレースが二つありますが、
私の好きなのはSBKですね。
日本ではテレビの放送であるとか、日本人ライダーの参戦や
日本で開催されていることなどもあってGPの方が人気がある
のですが、どうもF1の悪いところ、好ましくないところを
取りいれていて最近の私は好きではないですね。
よくGPで規則を変えるときに環境問題を考えてと話して
から変えることがあります。
果たして彼らは本当にそう思っているのでしょうか。
私には全くそう思えません。
近年では無鉛ガソリンの採用やGPのモトGPクラスの
4ストロークエンジンの使用ということは環境問題を
考えてということでこれらの採用ということになりました。
そのこと自体は別に問題はないのですが、それであると
したら同時並行でやるべきことはたくさんあるはずです。
私がサーキットに行く時に大体、交通渋滞ということが
あります。
渋滞により、排気ガス、ごみを撒き散らしている気がします。
これなどパークアンドライドといった形のことを行うこと
で交通渋滞の解消とそれに伴って発生するガスやごみを
取り除くことができると思うのですが、これをやっているのは
私の知る限りオーストラリアやオランダぐらいだと思います。
サーキットの中ではどうでしょうか。
よく混ぜればごみ、分ければ資源だと言われますが、
パドックの中で何を留意して、どうしているのでしょうか。
まぁ、まぜてしまって捨てているように思います。
05年開港する中部新国際空港というのは環境保護に留意して
ソーラーパネルなどを設置してできる限り自然によって
得られるものを使って僅かかもしれませんが電気を自然の
力を利用して作り出してそれを使用することにしています。
少なくとも言っていることとやっていることに違いはないですね。
ところがあまりにもGPの場合は環境保護を言いながらやらなけれ
ばいけないことがやっていないですね。
環境保護グループや活動家にパスを発給して、何をどうすれば
いいのか意見を聞いて、それを運営に活かすということも
していません。
スーパーバイクに関してはルールを変える時には
少なくとも環境保護を考えて変えて何も環境保護を考えない
なんてことはないですね。
彼らがルールを変更する時にはよりチーム間の格差をなくす
とか、一つのメーカーが突出しないようにするという
ことを考えて変えているわけで、それが言葉通り
しているわけで言っていることと実際が違うということ
がないので筋が通っていて理解できます。
これはSBKのチームやライダーに出費している関連の
メーカーにもスポンサーの多くにも好ましい状況でしょう。
GPとSBKには主催者というか統括団体の正直さというか
実直さの大きな違いが存在していると思います。
テニスのチャレンジャークラスの大会の観戦に
スロバキアのブラティスラバに行ったときのこと。
泊まっていたプライベートアパートメントで
テレビを見ることができたのですが、
これが地理的条件から色々なチャンネルを
見ることができました。
スロバキアのテレビ、そして当然チェコTVに
チェコの民間放送。そして、スロバキアの首都の
ブラティスラバという所はウィーンからわずか60キロ
しか離れていないところなのでオーストリアの国営と
民間放送。さらにハンガリーの国営のマジャールTVに
民間のDUNAなども見られましたね。
知っている人は知っているのでしょうが、チェコ語と
スロバキア語とポーランド語というのはかなり
似ていて、大体お互いの話していることというのは
わかるので、チェコのテレビをスロバキア人が見ても
理解できます。
そして、歴史的、地理的な条件からかなりドイツ語を
話す人が多い。私はイタリア語やフランス語などは
いいのですが(だからスペインに行ってもイタリア語
を話せば大体通じるので、アルプスの南と西はいいので
すが)ドイツ語を聞くと私は頭が痛くなる。
しかしながら日本人が考えている以上にドイツ語の
浸透度というのは深く、スロバキアでもドイツ語人口
は多かった印象を抱きました。
でもって、隣国がハンガリーで歴史的にもハンガリー
人口も多いのでハンガリー語を話す人も結構いる。
そんなことをリアルにテレビのチャンネル数とともに
体感したのですが、同時に重厚な作品とか見る側に
理解力を求められるような番組だけでは疲れてしまう。
日本のアニメがここでも見られていましたね。
私は独ソ戦に関する本というのを見たことがありますが、
あの戦争をテーマにしたテレビ番組が作られたとしたら
チェコ、スロバキア、オーストリア、ハンガリーで
どんな違いが出てくるのか見てみたい気がします。
寒いブラティスラバなので夏装備のドイツ軍が冬将軍に敗れたことを
リアルに感じている私です。
スロバキアのブラティスラバに行ったときのこと。
泊まっていたプライベートアパートメントで
テレビを見ることができたのですが、
これが地理的条件から色々なチャンネルを
見ることができました。
スロバキアのテレビ、そして当然チェコTVに
チェコの民間放送。そして、スロバキアの首都の
ブラティスラバという所はウィーンからわずか60キロ
しか離れていないところなのでオーストリアの国営と
民間放送。さらにハンガリーの国営のマジャールTVに
民間のDUNAなども見られましたね。
知っている人は知っているのでしょうが、チェコ語と
スロバキア語とポーランド語というのはかなり
似ていて、大体お互いの話していることというのは
わかるので、チェコのテレビをスロバキア人が見ても
理解できます。
そして、歴史的、地理的な条件からかなりドイツ語を
話す人が多い。私はイタリア語やフランス語などは
いいのですが(だからスペインに行ってもイタリア語
を話せば大体通じるので、アルプスの南と西はいいので
すが)ドイツ語を聞くと私は頭が痛くなる。
しかしながら日本人が考えている以上にドイツ語の
浸透度というのは深く、スロバキアでもドイツ語人口
は多かった印象を抱きました。
でもって、隣国がハンガリーで歴史的にもハンガリー
人口も多いのでハンガリー語を話す人も結構いる。
そんなことをリアルにテレビのチャンネル数とともに
体感したのですが、同時に重厚な作品とか見る側に
理解力を求められるような番組だけでは疲れてしまう。
日本のアニメがここでも見られていましたね。
私は独ソ戦に関する本というのを見たことがありますが、
あの戦争をテーマにしたテレビ番組が作られたとしたら
チェコ、スロバキア、オーストリア、ハンガリーで
どんな違いが出てくるのか見てみたい気がします。
寒いブラティスラバなので夏装備のドイツ軍が冬将軍に敗れたことを
リアルに感じている私です。