性格が悪いライダーのこと
2004年11月30日 スポーツ世界選手権の掛かったバイクのレースを見て周るように
なり、色々な話を耳にするようになりました。
今回はライダーの性格のいい奴、悪い奴の話を。
いいライダーの筆頭というのは私にとっては
トロイ・ベイリスですね。初めて会ったのは97年
のオーストラリアGPの時で、この時は怪我で走れなく
なった沼田のスズキ250のマシンに代役で走った
のですが、これが周囲はスズキのこのマシンは戦闘力が
劣ると評価していたものの、いきなり彼が乗って
速かった。地元でサーキットをよく理解している
という利点はあったのでしょうが、これには驚きました。
この時私は始めて彼と会話したのですが、いい奴だな
と思いましたね。
その後、彼はイギリスに渡りイギリス選手権でタイトルを
獲り、世界にたどりつくかに思えたものの、様々な要因
が重なり、イギリスで走り、その後アメリカで走ることに
なりました。
その彼がカール・フォガティが負傷し、代役に抜擢されて
走った日本で結果が出ずに、再びアメリカへ。
代役の代役のルカ・カダローラがひどい走りでイタリア
ラウンドでドゥカティから呼び戻され、モンツァで
私と彼は会いました。
そこには変わらない彼がいましたね。ただ、これが
最後で最大のチャンスだとよく認識していました。
お互い、メーカーとの結びつきとか、大きなスポンサー
を抱えていることもないというような共通項がフランクに
話せる要因だったのでしょうか。気がついたらかなり
話していました。
その彼がチャンスを掴み、シーズンエンドまで走ること
になり、翌年の契約を結び、01年には世界チャンピオン
になりました。
まぁ、自分のことのようにうれしかったですね。
オーストラリア国歌は歌えない私ですが、ドゥカティの
ために流されたイタリア国歌を表彰台の前で涙ながら
歌っていた私でした。
その彼ですが、非常にいい奴なのですが、ライディング
スーツを着たら、性格が変わるようです。
マシンのセットアップやタイヤのチョイス、色々な
仕様の変更などきつい言葉で物事をよりよい方向に
変えるために厳しい要求ときつい言葉を並べるようです。
ライダーというのは馬力のあるエンジン、よく機能する
サスペンション、垂れることなくよく持ってくれる
タイヤなどを求めて、それを安心して使うことで
より早く走ることができる。それを求める上で
わがままを言う。
そのわがままがエンジニアを育てて、いいセットアップに
つながり、そこから市販品にフィードバックされて
一般ユーザーが喜ぶ商品につながります。
普段はいい奴だが戦いの場になると豹変する。
いい性格から悪い奴になれるトロイ・ベイリスというのは
すばらしいライダーだと思います。
逆に普段からどうもというのは原田哲也でしょうか。
私が会う機会があってもこちらがあいさつしても
無視していますね。さすがに六回も無視されたら
話す気持ちはなくなりました。
また、彼がヤマハで走っていたときに250のバイクは
彼がエースで走っていたのですが、どうもエンジニア
などに話す口ぶりもかなり野卑だったようです。
もちろん、この野卑でしつこく車体やエンジン、サスペ
ンションなどの悪いところを言いまくり、ネガティブな
部分を潰していくことでいいマシンができることは
言うまでもなく、彼はいいテストライダーであり
実戦ライダーだと思うのですが、ひどいことを言っても
早く走ればいいんだろうというのがかなり強かったよう
です。
その彼はイタリアのアプリリアに迎えられて、
少しそういった部分がなくなっていったようですが。
ただ、環境保護を考えて無鉛ガソリンにしたり、
4ストローク化を進めていった世界グランプリの
世界ですが、どうも彼は汗をぬぐう時ペーパー
タオルを使うことが多く、何度も何度もテレビで
その姿を見ました。
木をいくつ倒そうが、石油をどれだけ使おうが
早く走る上でしったこっちゃないというのはわかる
一方で何だか嫌な印象を抱きました。タオルを使えば
いいのにと強く思いましたね。
もちろん、トロイ・ベイリスも原田哲也もいいライダー
ですが、個人的に好きなのは普段はいい奴でライダーと
して仕事に関わる時に悪い奴になれるライダーですね。
なり、色々な話を耳にするようになりました。
今回はライダーの性格のいい奴、悪い奴の話を。
いいライダーの筆頭というのは私にとっては
トロイ・ベイリスですね。初めて会ったのは97年
のオーストラリアGPの時で、この時は怪我で走れなく
なった沼田のスズキ250のマシンに代役で走った
のですが、これが周囲はスズキのこのマシンは戦闘力が
劣ると評価していたものの、いきなり彼が乗って
速かった。地元でサーキットをよく理解している
という利点はあったのでしょうが、これには驚きました。
この時私は始めて彼と会話したのですが、いい奴だな
と思いましたね。
その後、彼はイギリスに渡りイギリス選手権でタイトルを
獲り、世界にたどりつくかに思えたものの、様々な要因
が重なり、イギリスで走り、その後アメリカで走ることに
なりました。
その彼がカール・フォガティが負傷し、代役に抜擢されて
走った日本で結果が出ずに、再びアメリカへ。
代役の代役のルカ・カダローラがひどい走りでイタリア
ラウンドでドゥカティから呼び戻され、モンツァで
私と彼は会いました。
そこには変わらない彼がいましたね。ただ、これが
最後で最大のチャンスだとよく認識していました。
お互い、メーカーとの結びつきとか、大きなスポンサー
を抱えていることもないというような共通項がフランクに
話せる要因だったのでしょうか。気がついたらかなり
話していました。
その彼がチャンスを掴み、シーズンエンドまで走ること
になり、翌年の契約を結び、01年には世界チャンピオン
になりました。
まぁ、自分のことのようにうれしかったですね。
オーストラリア国歌は歌えない私ですが、ドゥカティの
ために流されたイタリア国歌を表彰台の前で涙ながら
歌っていた私でした。
その彼ですが、非常にいい奴なのですが、ライディング
スーツを着たら、性格が変わるようです。
マシンのセットアップやタイヤのチョイス、色々な
仕様の変更などきつい言葉で物事をよりよい方向に
変えるために厳しい要求ときつい言葉を並べるようです。
ライダーというのは馬力のあるエンジン、よく機能する
サスペンション、垂れることなくよく持ってくれる
タイヤなどを求めて、それを安心して使うことで
より早く走ることができる。それを求める上で
わがままを言う。
そのわがままがエンジニアを育てて、いいセットアップに
つながり、そこから市販品にフィードバックされて
一般ユーザーが喜ぶ商品につながります。
普段はいい奴だが戦いの場になると豹変する。
いい性格から悪い奴になれるトロイ・ベイリスというのは
すばらしいライダーだと思います。
逆に普段からどうもというのは原田哲也でしょうか。
私が会う機会があってもこちらがあいさつしても
無視していますね。さすがに六回も無視されたら
話す気持ちはなくなりました。
また、彼がヤマハで走っていたときに250のバイクは
彼がエースで走っていたのですが、どうもエンジニア
などに話す口ぶりもかなり野卑だったようです。
もちろん、この野卑でしつこく車体やエンジン、サスペ
ンションなどの悪いところを言いまくり、ネガティブな
部分を潰していくことでいいマシンができることは
言うまでもなく、彼はいいテストライダーであり
実戦ライダーだと思うのですが、ひどいことを言っても
早く走ればいいんだろうというのがかなり強かったよう
です。
その彼はイタリアのアプリリアに迎えられて、
少しそういった部分がなくなっていったようですが。
ただ、環境保護を考えて無鉛ガソリンにしたり、
4ストローク化を進めていった世界グランプリの
世界ですが、どうも彼は汗をぬぐう時ペーパー
タオルを使うことが多く、何度も何度もテレビで
その姿を見ました。
木をいくつ倒そうが、石油をどれだけ使おうが
早く走る上でしったこっちゃないというのはわかる
一方で何だか嫌な印象を抱きました。タオルを使えば
いいのにと強く思いましたね。
もちろん、トロイ・ベイリスも原田哲也もいいライダー
ですが、個人的に好きなのは普段はいい奴でライダーと
して仕事に関わる時に悪い奴になれるライダーですね。
阪神びいきのマスコミに対する疑問
2004年11月29日 スポーツ関西におけるスポーツ新聞に対して疑問を感じます。
関西における阪神タイガースの人気というのは
イタリアにおけるサッカーチームのようなもので
あるのですが、どうもあのチームを取り上げる上で
変に盛り上げようとして、事実とひどく異なるの
ではないかと思えることがあります。
よく夏の高校野球が甲子園で始まると、阪神タイガース
はアウェーの日々が続くことになり、在阪マスコミ
はよく「死のロード」と書きますし、話します。
でもこれって本当に「死のロード」なのでしょうか。
セントラルリーグの球団というのは東の隅が神宮と
東京ドーム、西の隅が広島です。
一方、パシフィックリーグというのは、北から
札幌、仙台、所沢、大阪および神戸、そして福岡
ということになります。(来年から)
ということは福岡から札幌に行き、そこから神戸に
入って、仙台に行き、さらに所沢という遠征も
あるわけですよね。
阪神の遠征といっても、東は東京までですし、
西は広島までです。
阪神の選手たちとパリーグの選手たちの遠征距離は
明らかに違うはずです。
昔ならともかく、今は交通手段も新幹線も飛行機も
アクセスが楽になっています。
私が思うに、日本人は苦労したり、しんどい思いを
している中で、そこから成功する人やチームを見るのが
好きみたいで、大阪のマスコミは阪神をそういう姿に
描きたがっている気がします。
もう一つは、昔から踏襲されてきたことを安易に
引っ張ろうとしている気がしますね。先輩たちが書いて
きたことと同じことを表現しようとしているような
気がします。
でも私が思うに「死のロード」というのは何十年も前の
交通機関が発達していなかった時代にのみ使える言葉で
あって、東京と広島の間を行き来すればいい現在の
阪神タイガースの移動のしんどさをあらわすには不適当
だと思います。移動の大変さであれば少なくとも
移動距離から考えてパリーグの選手の方が大変だと思います。
関西における阪神タイガースの人気というのは
イタリアにおけるサッカーチームのようなもので
あるのですが、どうもあのチームを取り上げる上で
変に盛り上げようとして、事実とひどく異なるの
ではないかと思えることがあります。
よく夏の高校野球が甲子園で始まると、阪神タイガース
はアウェーの日々が続くことになり、在阪マスコミ
はよく「死のロード」と書きますし、話します。
でもこれって本当に「死のロード」なのでしょうか。
セントラルリーグの球団というのは東の隅が神宮と
東京ドーム、西の隅が広島です。
一方、パシフィックリーグというのは、北から
札幌、仙台、所沢、大阪および神戸、そして福岡
ということになります。(来年から)
ということは福岡から札幌に行き、そこから神戸に
入って、仙台に行き、さらに所沢という遠征も
あるわけですよね。
阪神の遠征といっても、東は東京までですし、
西は広島までです。
阪神の選手たちとパリーグの選手たちの遠征距離は
明らかに違うはずです。
昔ならともかく、今は交通手段も新幹線も飛行機も
アクセスが楽になっています。
私が思うに、日本人は苦労したり、しんどい思いを
している中で、そこから成功する人やチームを見るのが
好きみたいで、大阪のマスコミは阪神をそういう姿に
描きたがっている気がします。
もう一つは、昔から踏襲されてきたことを安易に
引っ張ろうとしている気がしますね。先輩たちが書いて
きたことと同じことを表現しようとしているような
気がします。
でも私が思うに「死のロード」というのは何十年も前の
交通機関が発達していなかった時代にのみ使える言葉で
あって、東京と広島の間を行き来すればいい現在の
阪神タイガースの移動のしんどさをあらわすには不適当
だと思います。移動の大変さであれば少なくとも
移動距離から考えてパリーグの選手の方が大変だと思います。
日本のレース専門誌に対する疑問
2004年11月26日 スポーツバイクのレースの専門誌というのは日本に二つあります。
ライディングスポーツ(RS)とサイクルサウンズ(CS)です。
二つとも私は読んでいるのですが、正確性の強いのが
RSでいいグラフィックデザイナーがいて、読みやすくて
写真がきれいなのがCSといったところでしょうか。
RSに関しては時々間違えることもあるが大体において
信用できる記事が多く、間違えても訂正をすることで
読者の信用を得ているように思います。
対してCSの方ですがこれがひどいものです。
私はマスコミの書くことが信用できなくなった一つの
理由がこの雑誌にあります。
今回はいかにひどいことをこの雑誌がしたのか
を書こうと思います。
かつてマルコ・メランドリが125ccクラスで一ポイント
差でチャンピオンを獲り損ねたシーズンがありました。
その一点差というのは、オーストラリアでその年エミリオ・
アルサモラが転倒し、再スタートをして、16位で
ゴールしようとした時にチームメイトが最終コーナーから
少し先のところで待っていて、アルサモラを先に行かせて
1ポイントをゲットしました。その一点がモノをいって
タイトルを獲得しました。
でもって、最終戦でタイトルを一ポイント差で逃した
メランドリは表彰台の上でquasi world champion
と書かれたTシャツを着ました。
このquasi world championというのはほとんど世界チャンピオン
という意味です。
その時に放送していたNHKBSはそのイタリア語の意味がわか
らずに実況担当の方は世界チャンプのTシャツを着てい
るものだと思い、「これはいけません。」と言っていました。
このことに関しては仕方ないと思います。イタリア語を
やっていない人にはわからないことですからね。
ただ、そのタイトル決定とメランドリがTシャツを着ていた
時から次の雑誌の発売日までは結構日がありました。
あのTシャツに書かれていた意味を調べる時間はあった
はずです。
しかしながら、RSもCSも世界チャンピオンのTシャツを
着ていたものだと思い、そう報道しました。
その後、RSという雑誌はイタリア語のわかるライダーの
指摘によって訂正とお詫びをしました。
そのライバル雑誌であり、同じ業界の正しい記事を見て、
CSは何をしたのか、、、、。
何もしませんでした。
また、それだけでありません。
その後、メランドリが250ccクラスで世界タイトルを
獲り、その年の彼のシーズンを振りかえった記事の最後に
かつて125でタイトルを取り損ねた時に世界チャンピオン
Tシャツを着ていたことがあったが、こういった行動という
のはなどと非難をしていました。
非難されるべきはこの雑誌の人間であり、執筆していた
近藤氏であるはずです。
私は少なくともこの一件に関しては二度、近藤氏に
事実を申し上げました。しかし、訂正することはありません
でした。
私の想像ですが、メランドリというライダーが近藤氏は
嫌いなのではないか。あるいは当時メランドリは
ベネトンのスポンサードを受けていたのですが、
あのアパレルメーカーに関しては賛否両論わかれる
評価があります。でもって、ある種のアンチベネトン
キャンペーンを行ったのではないかと思いました。
他の事柄についても、同様でタイヤメーカーの記述の
違いなどは、当該のメーカーにとっては世界選手権の
掛かったレースで開発費用、移動費、人やモノの値段など
莫大なお金が掛かっているのですが、そうやって活動した
結果メーカーの名前を間違えられるというのはとんでも
ないことですし、間違いを指摘されても訂正しないという
のはひどいことです。
同業他社にとっても間違えて名前を出されたらいい迷惑
でしょう。
どうもあの雑誌は写真とレイアウトはきれいなのですが、
ある種のミスリードをしているように思えます。
また、彼らの報道したことが真実だと思って、
それが読者に広がっていくことに危険性を感じます。
これが一つ私がブログをやろうとしたきっかけに
なりましたけどね。
近藤氏に関しては私がサーキットで会ってもどうも
私を避けているような気がします。事実を理解して
それを読者に提供しようという意気込みというのが
彼にあるのでしょうか。ないから訂正することなく
やり過ごしてきた気がします。
ライディングスポーツ(RS)とサイクルサウンズ(CS)です。
二つとも私は読んでいるのですが、正確性の強いのが
RSでいいグラフィックデザイナーがいて、読みやすくて
写真がきれいなのがCSといったところでしょうか。
RSに関しては時々間違えることもあるが大体において
信用できる記事が多く、間違えても訂正をすることで
読者の信用を得ているように思います。
対してCSの方ですがこれがひどいものです。
私はマスコミの書くことが信用できなくなった一つの
理由がこの雑誌にあります。
今回はいかにひどいことをこの雑誌がしたのか
を書こうと思います。
かつてマルコ・メランドリが125ccクラスで一ポイント
差でチャンピオンを獲り損ねたシーズンがありました。
その一点差というのは、オーストラリアでその年エミリオ・
アルサモラが転倒し、再スタートをして、16位で
ゴールしようとした時にチームメイトが最終コーナーから
少し先のところで待っていて、アルサモラを先に行かせて
1ポイントをゲットしました。その一点がモノをいって
タイトルを獲得しました。
でもって、最終戦でタイトルを一ポイント差で逃した
メランドリは表彰台の上でquasi world champion
と書かれたTシャツを着ました。
このquasi world championというのはほとんど世界チャンピオン
という意味です。
その時に放送していたNHKBSはそのイタリア語の意味がわか
らずに実況担当の方は世界チャンプのTシャツを着てい
るものだと思い、「これはいけません。」と言っていました。
このことに関しては仕方ないと思います。イタリア語を
やっていない人にはわからないことですからね。
ただ、そのタイトル決定とメランドリがTシャツを着ていた
時から次の雑誌の発売日までは結構日がありました。
あのTシャツに書かれていた意味を調べる時間はあった
はずです。
しかしながら、RSもCSも世界チャンピオンのTシャツを
着ていたものだと思い、そう報道しました。
その後、RSという雑誌はイタリア語のわかるライダーの
指摘によって訂正とお詫びをしました。
そのライバル雑誌であり、同じ業界の正しい記事を見て、
CSは何をしたのか、、、、。
何もしませんでした。
また、それだけでありません。
その後、メランドリが250ccクラスで世界タイトルを
獲り、その年の彼のシーズンを振りかえった記事の最後に
かつて125でタイトルを取り損ねた時に世界チャンピオン
Tシャツを着ていたことがあったが、こういった行動という
のはなどと非難をしていました。
非難されるべきはこの雑誌の人間であり、執筆していた
近藤氏であるはずです。
私は少なくともこの一件に関しては二度、近藤氏に
事実を申し上げました。しかし、訂正することはありません
でした。
私の想像ですが、メランドリというライダーが近藤氏は
嫌いなのではないか。あるいは当時メランドリは
ベネトンのスポンサードを受けていたのですが、
あのアパレルメーカーに関しては賛否両論わかれる
評価があります。でもって、ある種のアンチベネトン
キャンペーンを行ったのではないかと思いました。
他の事柄についても、同様でタイヤメーカーの記述の
違いなどは、当該のメーカーにとっては世界選手権の
掛かったレースで開発費用、移動費、人やモノの値段など
莫大なお金が掛かっているのですが、そうやって活動した
結果メーカーの名前を間違えられるというのはとんでも
ないことですし、間違いを指摘されても訂正しないという
のはひどいことです。
同業他社にとっても間違えて名前を出されたらいい迷惑
でしょう。
どうもあの雑誌は写真とレイアウトはきれいなのですが、
ある種のミスリードをしているように思えます。
また、彼らの報道したことが真実だと思って、
それが読者に広がっていくことに危険性を感じます。
これが一つ私がブログをやろうとしたきっかけに
なりましたけどね。
近藤氏に関しては私がサーキットで会ってもどうも
私を避けているような気がします。事実を理解して
それを読者に提供しようという意気込みというのが
彼にあるのでしょうか。ないから訂正することなく
やり過ごしてきた気がします。
イタリアの悪いところ
2004年11月25日 旅行イタリアに関していいところというのは、料理にしても
ファッションにしても、サッカーにしても目にしている
人が多いので今日は日本人があまり知らない悪いところを。
私が初めてイタリアに行ったのは97年でした。
イタリアに行く前に思っていたのは、あの国では左翼政党が
強いこと。全産業のうち、第三番目の産業が観光業であること。
人がいいこと。そして愛とか情熱という言葉をよく口にする
ことでした。
そんなわけでヨーロッパは日本に比べて、ある部分が進んでいる
のだろうなと考えていました。
そう、私の祖父の足が不自由だったこともあって、
ヨーロッパ諸国、とりわけイタリアのように社会主義政党が
強くて、観光業で食べている人が多い、そして
人がやさしくて愛とか情熱という言葉を言うとなると
空港や駅などはバリアフリーが徹底されていて
エレバーターやエスカレーターがあって、障害を持っている
人や高齢者、小さな子どもを連れている家族なども
動きやすいシステムができているものだと考えていました。
そんなことを思って降り立ったローマのフィウミチーノ空港、
そしてテルミニ駅ですがバリアだらけでした。
さらにバスやトラム、電車などは床が高いこと。
そして、一部の例外(すでに私が書いたレッジョエミリア
の駅やミラノのマルペンサ空港、新しいタイプのバス)
を除いて、良くなることがありません。そして人々の
意識もそういったことに向いていない気がします。
イタリアという国も離婚や晩婚化が進み、少子高齢化が
進んでいるにも関わらず、愛とか情熱と言うのが
セックスとサッカーにばかり向けられているのが
イタリアの姿だと思います。
もっとこういったところに目が向けられる国が
いい国だと思うのですが、変わらないですね。
あの国は。
ファッションにしても、サッカーにしても目にしている
人が多いので今日は日本人があまり知らない悪いところを。
私が初めてイタリアに行ったのは97年でした。
イタリアに行く前に思っていたのは、あの国では左翼政党が
強いこと。全産業のうち、第三番目の産業が観光業であること。
人がいいこと。そして愛とか情熱という言葉をよく口にする
ことでした。
そんなわけでヨーロッパは日本に比べて、ある部分が進んでいる
のだろうなと考えていました。
そう、私の祖父の足が不自由だったこともあって、
ヨーロッパ諸国、とりわけイタリアのように社会主義政党が
強くて、観光業で食べている人が多い、そして
人がやさしくて愛とか情熱という言葉を言うとなると
空港や駅などはバリアフリーが徹底されていて
エレバーターやエスカレーターがあって、障害を持っている
人や高齢者、小さな子どもを連れている家族なども
動きやすいシステムができているものだと考えていました。
そんなことを思って降り立ったローマのフィウミチーノ空港、
そしてテルミニ駅ですがバリアだらけでした。
さらにバスやトラム、電車などは床が高いこと。
そして、一部の例外(すでに私が書いたレッジョエミリア
の駅やミラノのマルペンサ空港、新しいタイプのバス)
を除いて、良くなることがありません。そして人々の
意識もそういったことに向いていない気がします。
イタリアという国も離婚や晩婚化が進み、少子高齢化が
進んでいるにも関わらず、愛とか情熱と言うのが
セックスとサッカーにばかり向けられているのが
イタリアの姿だと思います。
もっとこういったところに目が向けられる国が
いい国だと思うのですが、変わらないですね。
あの国は。
私が感じたヨーロッパにおける反米感情
2004年11月21日 日常 コメント (2)ヨーロッパの国を周ってみて思うのは、当たり前の話ですが、
その国の言葉をあいさつ程度でも話すと対応の仕方が違うと
いうものです。
私が現在いるプラハにおいてもそうですね。また今週の
月曜日にスロバキアからチェコに戻ってきたときも
国境審査でチェコ語であいさつして、チェコ語で
「すいません。私はチェコ語が話せません。イタリア語か
フランス語か英語がわかりますか。」というと
驚いていました。
先日ヴェネツィアからプラハの空港に着いた時も
そうでしたね。
チェコのブルノではプライベートアパートメントに
泊まるのですが、ここのおばさんはフランス語が
わかるのでフランス語を。チェスキーブデヨビッチの
プライベートアパートメントで、ブザーを鳴らして
「すいません。私は旅行者です。チェコ語はわかりません。
イタリア語かフランス語か英語がわかりますか。」
なんてチェコ語で話したら、宿の主が「私はイタリア語
はうまくないですが、わかります。少し待ってください。」
とイタリア語で返してきて、ドアを開けたら目の前に
日本人。かなりびっくりしていました。
私の経験からして、英語以外の外国語を話すと非常に
親切にしてくれますね。
それとは全く逆に英語国民がどこに行っても彼らの
母国語で通すのを見て嫌な気持ちを抱いている人の
数というのは多いです。
イラク戦争や観光客の英語で通そうとする姿勢や
態度などを見ていると反米感情が強くなるのは
リアルによくわかります。
日本人の外国語下手を口にする人が多いと思いますが、
一番外国語が下手なのは、あるいは外国語を勉強する
気持ちがないのはアメリカ人やイギリス人だと
思います。
まぁ、そんな他の国の言葉を理解しようとしない
高飛車な姿勢が嫌われる理由の一つだと思います。
その国の言葉をあいさつ程度でも話すと対応の仕方が違うと
いうものです。
私が現在いるプラハにおいてもそうですね。また今週の
月曜日にスロバキアからチェコに戻ってきたときも
国境審査でチェコ語であいさつして、チェコ語で
「すいません。私はチェコ語が話せません。イタリア語か
フランス語か英語がわかりますか。」というと
驚いていました。
先日ヴェネツィアからプラハの空港に着いた時も
そうでしたね。
チェコのブルノではプライベートアパートメントに
泊まるのですが、ここのおばさんはフランス語が
わかるのでフランス語を。チェスキーブデヨビッチの
プライベートアパートメントで、ブザーを鳴らして
「すいません。私は旅行者です。チェコ語はわかりません。
イタリア語かフランス語か英語がわかりますか。」
なんてチェコ語で話したら、宿の主が「私はイタリア語
はうまくないですが、わかります。少し待ってください。」
とイタリア語で返してきて、ドアを開けたら目の前に
日本人。かなりびっくりしていました。
私の経験からして、英語以外の外国語を話すと非常に
親切にしてくれますね。
それとは全く逆に英語国民がどこに行っても彼らの
母国語で通すのを見て嫌な気持ちを抱いている人の
数というのは多いです。
イラク戦争や観光客の英語で通そうとする姿勢や
態度などを見ていると反米感情が強くなるのは
リアルによくわかります。
日本人の外国語下手を口にする人が多いと思いますが、
一番外国語が下手なのは、あるいは外国語を勉強する
気持ちがないのはアメリカ人やイギリス人だと
思います。
まぁ、そんな他の国の言葉を理解しようとしない
高飛車な姿勢が嫌われる理由の一つだと思います。
私が世界で一番好きな街プラハ
2004年11月18日 旅行以前はベスト1の街はブタペストだったのですが、最近
はプラハがいいですね。
中世の町並みそのままで、景色が美しく、物価が安くて、
ビールが旨くて、女性がきれい。そんな街というのは
ほっとしたり、元気になりますね。
また、何だかチェコ人のメンタリティというのは少し日本人
を思わせるところがあります。すぐれた商品やサービスを
提供して、その見返りに儲けたいというところを感じる
ことがあったり、パブリックに対する尊重などはそうですね。
イタリア人のようなおれがおれがという感じを受けることは
少ないです。
もちろん、いい所ばかりでなく、悪い所もあります。
まだまだ障害者のかたにとってバリアだらけであるところや
ここのところチェココルナが円に対してもユーロやドルに
対しても強くて、私のような立場の人や旅行者にとって
つらいこともあります。
しかしながら、まだまだ安いし、来るたびに「プラハはいいなぁ」
と思わせるものがたくさんあります。
チェコ語というのは母音が五つなので、わからないまでも
耳に残るし、人もいいですしね。
そんなわけでヨーロッパの最初と最後はプラハになって
いるここ最近の私です。
はプラハがいいですね。
中世の町並みそのままで、景色が美しく、物価が安くて、
ビールが旨くて、女性がきれい。そんな街というのは
ほっとしたり、元気になりますね。
また、何だかチェコ人のメンタリティというのは少し日本人
を思わせるところがあります。すぐれた商品やサービスを
提供して、その見返りに儲けたいというところを感じる
ことがあったり、パブリックに対する尊重などはそうですね。
イタリア人のようなおれがおれがという感じを受けることは
少ないです。
もちろん、いい所ばかりでなく、悪い所もあります。
まだまだ障害者のかたにとってバリアだらけであるところや
ここのところチェココルナが円に対してもユーロやドルに
対しても強くて、私のような立場の人や旅行者にとって
つらいこともあります。
しかしながら、まだまだ安いし、来るたびに「プラハはいいなぁ」
と思わせるものがたくさんあります。
チェコ語というのは母音が五つなので、わからないまでも
耳に残るし、人もいいですしね。
そんなわけでヨーロッパの最初と最後はプラハになって
いるここ最近の私です。
ジュニアのテニスプレイヤーに見た勝利に対する欲望
2004年11月18日 スポーツかつて、あるライダーとチームマネージャーとの間の
話でdeterminazione(イタリア語。英語ではdetermination)
ということについて書いたことがありますが、訳した時の
ことでなく実際感じたときのお話を。
大阪で毎年開かれている大阪スーパージュニアを見に行った
時のこと。
私がイタリア語なり英語がわかると知って、色々モノを頼んで
くるようになりました。
ある時のこと。大会役員か関係者らしき人がタバコを吸って
いました。
これに対して、確か14か15歳のプレイヤーが
私の言うことを訳して欲しいといって訳すことになりました。
「あなたが吸うのは構わないけれど、ここで吸わないで欲しい。
吸うのだったら違う場所に行って吸ってくれ。あなたが
具合悪くなるのは構わないけれど、私はプレイヤーで
受動喫煙は嫌だし不快だ。」と言っていました。
日本人が通訳する時に婉曲な言い方を好み、「出て行け」と
言うのを、「すいません、ここは関係者のみなのでご遠慮
ください。」なんて訳すことがあるますが、私はそんなことを
しなくて、言っている言葉を率直に訳しました。
14か15の日本の子どもが40や50過ぎの親父にそういった
ことを言えるかどうか、なかなか難しいのでしょうが、子供の
頃から、自分に何が必要で、何が足りなくて、何を求めている
のかを率直に言うというのはいいことだと思いますね。
また、ヨーロッパでは、飲み物の自販機は少ないし、また
ビール会社が缶コーヒーを発売したり、コーヒー会社が
スポーツドリンクを作ることは考えられないのですが
日本ではそれが当たり前のことで、自販機には多くの種類が
あります。
それでもって、自販機を前に、あるジュニアのプレイヤーが
言った言葉というのが、
「どのコーヒーが砂糖が入っていないものなのか教えてくれ。」
というものでした。
世界のトップに行こうとするプレイヤーの勝利に対する欲望を
強く感じた瞬間でした。
話でdeterminazione(イタリア語。英語ではdetermination)
ということについて書いたことがありますが、訳した時の
ことでなく実際感じたときのお話を。
大阪で毎年開かれている大阪スーパージュニアを見に行った
時のこと。
私がイタリア語なり英語がわかると知って、色々モノを頼んで
くるようになりました。
ある時のこと。大会役員か関係者らしき人がタバコを吸って
いました。
これに対して、確か14か15歳のプレイヤーが
私の言うことを訳して欲しいといって訳すことになりました。
「あなたが吸うのは構わないけれど、ここで吸わないで欲しい。
吸うのだったら違う場所に行って吸ってくれ。あなたが
具合悪くなるのは構わないけれど、私はプレイヤーで
受動喫煙は嫌だし不快だ。」と言っていました。
日本人が通訳する時に婉曲な言い方を好み、「出て行け」と
言うのを、「すいません、ここは関係者のみなのでご遠慮
ください。」なんて訳すことがあるますが、私はそんなことを
しなくて、言っている言葉を率直に訳しました。
14か15の日本の子どもが40や50過ぎの親父にそういった
ことを言えるかどうか、なかなか難しいのでしょうが、子供の
頃から、自分に何が必要で、何が足りなくて、何を求めている
のかを率直に言うというのはいいことだと思いますね。
また、ヨーロッパでは、飲み物の自販機は少ないし、また
ビール会社が缶コーヒーを発売したり、コーヒー会社が
スポーツドリンクを作ることは考えられないのですが
日本ではそれが当たり前のことで、自販機には多くの種類が
あります。
それでもって、自販機を前に、あるジュニアのプレイヤーが
言った言葉というのが、
「どのコーヒーが砂糖が入っていないものなのか教えてくれ。」
というものでした。
世界のトップに行こうとするプレイヤーの勝利に対する欲望を
強く感じた瞬間でした。
ドリアーノ・ロンボニとの思い出
2004年11月16日私がサーキットの中に足を入れるようになって
一番早く打ち解けて仲良くなったライダーが彼、
ドリアーノ・ロンボニです。
今回は彼との出会いから書くことにします。
レースを単に客の立場として見に行っていた時期。
あるきっかけから当時のアプリリアのチームのスタッフ
からパスを出していただき、パドックの中に入る
ことができました。
当時の私のイタリア語というのは、コンジュンティーボ
もコンディツィオナーレも話せずにとりあえず現在形の
簡単な言葉だけが話せる状態だったのですが、業界の
人でイタリア人と見るや話し掛けていた私を面白がって
こうしてパスを出していただけることになりました。
その年の世界グランプリの250ccクラスは多くの日本人
が出走していて、鈴鹿の日本GPもあわや表彰台を日本人
ライダーが独占かと思えるようなレースでした。
それを最終ラップのシケインでオーバーテイクして三位に
入り阻んだのがドリアーノ・ロンボニでした。
人と人が出会うときに、初めて会ったのに何故だか昔から
の友達のように感じることがあったりしますが、まさに
私と彼とはそんな空気を感じました。
ぐだぐだ話をして、写真の撮影も快く応じてくれました。
その翌年はちょっとした手違いでパスが手に入らず、
再会は翌々年になりました。
彼はアプリリアの500ccで最高峰クラスへ参戦し、
私はそろそろ会社を辞めてイタリアに行きたいなと
思っていた時期のこと。その年の鈴鹿でコーナーリング
はいいが、エンジン性能の面では非力と評価されていた
アプリリアの二気筒で何と予選一列目をゲットした彼に
近づいて、祝福の言葉を口にして、翌日のレースを楽しみ
にしていました。
その後の彼ですが、アプリリアの500でいいところを
見せながらも転んだり、怪我から復帰して無理がたたって
再び手首を痛めたりということの繰り返しのシーズンと
なってしまいました。
今のようにネットが普及していない時代。情報はレース
専門誌とジャパンタイムズなどの外国語新聞、そして
丸善などの洋書売り場で目にする外国の雑誌ぐらいでした。
その記事を読んでいると、怪我が理由で引退するのでは
ないかというものが多く、とても心配になりました。
電話を掛けようかと思いながら「辞めることにした。」
と言われたら激励も何もないわけで、結局何の連絡も
取らずにオフシーズンを送りました。
翌年の鈴鹿、彼は怪我の回復が進まず、代役はグラミー二
でした。彼はヘレスからの復帰となりました。
私は会社を辞め、五月にヨーロッパへ。そしてオーストリア
に飛びました。
お世話になっているフランス人にパスを出していただき、
サーキットの中に、しばらく動き回っていたらスクーター
に乗ったドリアーノと会いました。鈴鹿で会っていないので
一年二ヶ月ぶりの再会です。
話し始めて5分ほどでいつもの空気感を感じましたね。
そこに当時ガールフレンドだったアリアーナもやって来て
何やかんやと話し込んでいるうちに寒かったのですが
気持ちは暖かくなってきました。
オーストリアの後、フランスで予選でいいところを見せるが
なかなか決勝ではうまくいかないことが多かったのですが
オランダの決勝。雨で二ヒート制になったレースで彼は
みせてくれました。
他の多くのライダーと違いタイヤでギャンブルをして
それを当てた彼はレース後半、他のライダーよりも
3秒以上も速いラップタイムを連発。そして最高峰クラス
で初の、そしてそれはアプリリアにとっても
初めての表彰台をゲットしました。
彼の苦しい時、怪我でつらい時期、引退ではないかと
ささやかれた時期にずっと一緒だったアリアーナが
表彰台の前で泣いていました。それを見ていて私も
胸が熱くなり涙がこぼれてきました。アプリリアの
カルロ・ペルナットは満面の笑みでべネツィアの
本社に携帯で電話していました。
私も表彰台の前に行き、アリアーナに祝福のキスをして
メカニックやダンロップのスタッフと共に喜びを
分かち合いました。私の涙はドリアーノがシャンパンで
吹き飛ばしてきれました。
我々のことを知らない人は何でイタリア人ライダーが
イタリア製のマシンで三位になって日本人が一緒に喜んで
いるのかわからなかったでしょうが、私たちには
強い友情が存在し、彼のキャリア初の500ccクラス
の表彰台で喜びが爆発しました。何とも美しく
うれしい瞬間でした。
その後の彼と私の付き合いや関係に関してはまた
書いてみたいと思います。
一番早く打ち解けて仲良くなったライダーが彼、
ドリアーノ・ロンボニです。
今回は彼との出会いから書くことにします。
レースを単に客の立場として見に行っていた時期。
あるきっかけから当時のアプリリアのチームのスタッフ
からパスを出していただき、パドックの中に入る
ことができました。
当時の私のイタリア語というのは、コンジュンティーボ
もコンディツィオナーレも話せずにとりあえず現在形の
簡単な言葉だけが話せる状態だったのですが、業界の
人でイタリア人と見るや話し掛けていた私を面白がって
こうしてパスを出していただけることになりました。
その年の世界グランプリの250ccクラスは多くの日本人
が出走していて、鈴鹿の日本GPもあわや表彰台を日本人
ライダーが独占かと思えるようなレースでした。
それを最終ラップのシケインでオーバーテイクして三位に
入り阻んだのがドリアーノ・ロンボニでした。
人と人が出会うときに、初めて会ったのに何故だか昔から
の友達のように感じることがあったりしますが、まさに
私と彼とはそんな空気を感じました。
ぐだぐだ話をして、写真の撮影も快く応じてくれました。
その翌年はちょっとした手違いでパスが手に入らず、
再会は翌々年になりました。
彼はアプリリアの500ccで最高峰クラスへ参戦し、
私はそろそろ会社を辞めてイタリアに行きたいなと
思っていた時期のこと。その年の鈴鹿でコーナーリング
はいいが、エンジン性能の面では非力と評価されていた
アプリリアの二気筒で何と予選一列目をゲットした彼に
近づいて、祝福の言葉を口にして、翌日のレースを楽しみ
にしていました。
その後の彼ですが、アプリリアの500でいいところを
見せながらも転んだり、怪我から復帰して無理がたたって
再び手首を痛めたりということの繰り返しのシーズンと
なってしまいました。
今のようにネットが普及していない時代。情報はレース
専門誌とジャパンタイムズなどの外国語新聞、そして
丸善などの洋書売り場で目にする外国の雑誌ぐらいでした。
その記事を読んでいると、怪我が理由で引退するのでは
ないかというものが多く、とても心配になりました。
電話を掛けようかと思いながら「辞めることにした。」
と言われたら激励も何もないわけで、結局何の連絡も
取らずにオフシーズンを送りました。
翌年の鈴鹿、彼は怪我の回復が進まず、代役はグラミー二
でした。彼はヘレスからの復帰となりました。
私は会社を辞め、五月にヨーロッパへ。そしてオーストリア
に飛びました。
お世話になっているフランス人にパスを出していただき、
サーキットの中に、しばらく動き回っていたらスクーター
に乗ったドリアーノと会いました。鈴鹿で会っていないので
一年二ヶ月ぶりの再会です。
話し始めて5分ほどでいつもの空気感を感じましたね。
そこに当時ガールフレンドだったアリアーナもやって来て
何やかんやと話し込んでいるうちに寒かったのですが
気持ちは暖かくなってきました。
オーストリアの後、フランスで予選でいいところを見せるが
なかなか決勝ではうまくいかないことが多かったのですが
オランダの決勝。雨で二ヒート制になったレースで彼は
みせてくれました。
他の多くのライダーと違いタイヤでギャンブルをして
それを当てた彼はレース後半、他のライダーよりも
3秒以上も速いラップタイムを連発。そして最高峰クラス
で初の、そしてそれはアプリリアにとっても
初めての表彰台をゲットしました。
彼の苦しい時、怪我でつらい時期、引退ではないかと
ささやかれた時期にずっと一緒だったアリアーナが
表彰台の前で泣いていました。それを見ていて私も
胸が熱くなり涙がこぼれてきました。アプリリアの
カルロ・ペルナットは満面の笑みでべネツィアの
本社に携帯で電話していました。
私も表彰台の前に行き、アリアーナに祝福のキスをして
メカニックやダンロップのスタッフと共に喜びを
分かち合いました。私の涙はドリアーノがシャンパンで
吹き飛ばしてきれました。
我々のことを知らない人は何でイタリア人ライダーが
イタリア製のマシンで三位になって日本人が一緒に喜んで
いるのかわからなかったでしょうが、私たちには
強い友情が存在し、彼のキャリア初の500ccクラス
の表彰台で喜びが爆発しました。何とも美しく
うれしい瞬間でした。
その後の彼と私の付き合いや関係に関してはまた
書いてみたいと思います。
ライダーのレース中のメンタル
2004年11月15日 スポーツスーパーバイク世界選手権や世界グランプリを見に行って
かなりの年数になります。
私はグランプリの125ccクラスが好きなのですが、
今回はこのクラスに参戦しているライダーについてです。
ブルノやバルセロナ、アッセンなどの直線が長いサーキット
では125ccと言えども楽に200キロオーバーの
スピードが出ます。
そこから減速してコーナーに入り、次なる直線やコーナーに
進んで行きます。
ただでさえ、コンマ一秒ブレーキングが遅れたり、五度倒し込み
が過度だったら大変なことになるのですが、レース中とも
なるとこれが他のライダーと駆け引きを考えながら、
さらにタイヤの減り具合やガソリンを消費してからの
マシンの変化などを考えながらライディングを考えなければ
いけません。
非常に繊細なことを走りながらライダーは考えながら
ベストなライディングをしようとしているのですが、
ここにライバルの存在があります。
これがきれいなバトルで堂々と戦える相手ならばいいのですが、
とりわけラテン的なライダーだと、人を押しのけてとか
無理やりなブレーキングで突っ込んで来たりとか神経を
使うことが多く出て来ます。
そこで魂が燃えるのはいいのですが、心までホットになって
しまっては、マシンの状況、タイヤの具合などを考えずに
走っては、トラブルやクラッシュのもとになってしまいます。
今はどうかわかりませんが、かつて宇井陽一君がヤマハの125
のマシンで戦っていたときにメーターとメーターの間に
自筆で「平常心」と書いていました。
コンマ一秒のブレーキングや繊細さや用心が必要となる
レースの時、とりわけほかのライダーと競り合っているとき
闘争心というのは当然必要なのでしょうが、同時に
冷静に状況を読み取る平常心も必要不可欠なものなのでしょう。
かなりの年数になります。
私はグランプリの125ccクラスが好きなのですが、
今回はこのクラスに参戦しているライダーについてです。
ブルノやバルセロナ、アッセンなどの直線が長いサーキット
では125ccと言えども楽に200キロオーバーの
スピードが出ます。
そこから減速してコーナーに入り、次なる直線やコーナーに
進んで行きます。
ただでさえ、コンマ一秒ブレーキングが遅れたり、五度倒し込み
が過度だったら大変なことになるのですが、レース中とも
なるとこれが他のライダーと駆け引きを考えながら、
さらにタイヤの減り具合やガソリンを消費してからの
マシンの変化などを考えながらライディングを考えなければ
いけません。
非常に繊細なことを走りながらライダーは考えながら
ベストなライディングをしようとしているのですが、
ここにライバルの存在があります。
これがきれいなバトルで堂々と戦える相手ならばいいのですが、
とりわけラテン的なライダーだと、人を押しのけてとか
無理やりなブレーキングで突っ込んで来たりとか神経を
使うことが多く出て来ます。
そこで魂が燃えるのはいいのですが、心までホットになって
しまっては、マシンの状況、タイヤの具合などを考えずに
走っては、トラブルやクラッシュのもとになってしまいます。
今はどうかわかりませんが、かつて宇井陽一君がヤマハの125
のマシンで戦っていたときにメーターとメーターの間に
自筆で「平常心」と書いていました。
コンマ一秒のブレーキングや繊細さや用心が必要となる
レースの時、とりわけほかのライダーと競り合っているとき
闘争心というのは当然必要なのでしょうが、同時に
冷静に状況を読み取る平常心も必要不可欠なものなのでしょう。
フランス人に助けられた話
2004年11月14日 スポーツしばらくレースのことを書いていなかったので、今回はレースの
ことを。
私があるイタリアのスーパースポート世界選手権に参戦していた
チームと一緒にいた年のこと。
私はチェコのブルノに世界グランプリのために出かけて、その後
ドイツのオッシャースレーベンに行くというスケジュール。
彼らはイタリアから直接ドイツのサーキットに入り、現場で
顔を合わせるということになっていました。
チェコのレースが終わり、プラハに入り、電車を乗り継いで
ライプツヒからマグデブルグを経てオッシャースレーベンに
着き、そこからありがたいことに地元の人に車に乗せて
いただいてサーキットに着きました。
ゲートに着いて、中に入ろうとすると、SBKインター
ナショナルの係の人に「あぁ、あいつはここに来ない。
ここは怪我で走らないから。」などと言われてしまいました。
全くメールで来ないのならその旨を伝えればいいのに、
こういったところはイタリア人の全く悪いところで、
私は目の前が真っ暗になりました。
とは言ってもここまで来て、チェコに戻るのも嫌だし、
レースの世界にいたいしということで、日本のレース関係の
メーカーの名前を出して、「あの部品を使っているチームが
あるから、とりあえず、中に入れてくれ。今日は水曜日で
レースファンも来ていないし、仕事なり手伝うことが他の
チームでもあるから。」と言って中に入れてもらえました。
そこから、とりあえず、その年、ユーロスーパーストックに
参戦していたチームのところに荷物を置かしてもらい、
パドックの中をぐるぐる周り、寝る場所を提供してくれる
チームを探すことになりました。
ヨーロッパ人というのはよくあいさつするのですが、
いつものように「元気か」あいさつされて、私が
「元気じゃない」と返答するといつもと違う何かがこの男に
起こったことをすぐに察知していました。当然、
イタリアのチームがここに来ないこと、この週末どうす
るか困っていることを説明しましたが、
いくらレース界で知られている男だからと言って、
急に寝泊まりする場所を用意してくれるかといったら
それは難しいですね。
それでもあきらめの悪さはオリヴィエ・ジャック並み
の私です。色々な人と交渉していて、少し休んで、また
歩いての繰り返しをしていました。
そこにヤマハフランスのガルシアがやって来ました。
いつものようにフランス語であいさつして、「元気じゃない」と
言い、怪訝そうな顔をする彼に状況を説明すると
「そういうことか。車の中で寝てもらうことになるけれど
いいか。それからホスピタリティの仕事をちょっと手伝って
もらうけれど、それでもいいか」と言ってきました。
私はもちろん、「OK!」と答えました。
助かったという思いと彼のやさしさに胸がいっぱいに
なりましたね。と同時にフランス語ができてよかったと
いう気持ちと普段からどこのメーカーやチームの人とも
言葉を交わしていたことが何かの形になることもあるの
だと思いました。
ホスピタリティというのは、ヨーロッパのサーキットでは
チームやメーカーが自分のチームのライダー、メカニック、
チームスタッフ、協力体制のある各パーツのエンジニアや
スポンサー関係の方のために朝、昼、夜と食事を出すとこ
ろですが、そこでお手伝いすることになりました。
野菜を切ったり、鍋を洗ったり、掃除をしたりということ
ですが、ここのホスピタリティというのは、スーパーバイク
のヤマハフランスとスーパースポートのドイツヤマハの
ために料理を作っていました。
でもって、シェフはフランス人が二人だったのですが、
チーフのフランス人の作る料理というのが、まぁ、すごかった。
私はそれまで色々なチームで食事をさせていただきましたが
ベストと言えるのが、このヤマハフランスだったと思います。
初めて彼の料理を食べた時に、すぐに言葉が出てこなか
ったです。
口の中でおいしさが広がり、「おいしい」と言う前に
言葉を飲み込みました。
ブーギニオンというシチューに似た料理を食べたときには
まず最初にうなりました。
また、デザートも手抜きなし。
彼に「お前はよく食べるなぁ。」と言われましたが、
正確には彼の素晴らしい料理が私に食指を動かせるといった
方が正しい。
このチームとはこのドイツと翌週のオランダと二週ご一緒
させていただき、おかげでしっかり太りましたね。
つくづくフランス語ができてよかったし、彼らの
親切心に感謝の気持ちで一杯の二週間でした。
惜しむらくはこの翌週にフランスのマニクールで
ボルドー24時間レースがあって、フランスで一番の
レースで忙しくなることは間違いないので私を一人
使う方が彼らにとっていいので誘われたのですが、
世界グランプリの仕事が入っていて、断ってしまいました。
オランダのアッセンの後、チェコのピルセンに入り、
その翌週の世界グランプリのヴァレンシアのための
打ち合わせのためにメールをチェックしようとした
私の目に入ってきた報道各社のHPの動画、静止画の映像は
飛行機がニューヨークのワールドトレーディングセンター
に突っ込んで行くものでした。
当然、日本の会社は全面的に出張中止。私も仕事を失い
ました。
フランス人と直接マニクールに行っていたら世界で一番
盛り上がる耐久レースをフランス人のホスピタリティで
おいしいものを食べながら体感できたのにと思いましたが
まぁ、仕方ないですね。
ことを。
私があるイタリアのスーパースポート世界選手権に参戦していた
チームと一緒にいた年のこと。
私はチェコのブルノに世界グランプリのために出かけて、その後
ドイツのオッシャースレーベンに行くというスケジュール。
彼らはイタリアから直接ドイツのサーキットに入り、現場で
顔を合わせるということになっていました。
チェコのレースが終わり、プラハに入り、電車を乗り継いで
ライプツヒからマグデブルグを経てオッシャースレーベンに
着き、そこからありがたいことに地元の人に車に乗せて
いただいてサーキットに着きました。
ゲートに着いて、中に入ろうとすると、SBKインター
ナショナルの係の人に「あぁ、あいつはここに来ない。
ここは怪我で走らないから。」などと言われてしまいました。
全くメールで来ないのならその旨を伝えればいいのに、
こういったところはイタリア人の全く悪いところで、
私は目の前が真っ暗になりました。
とは言ってもここまで来て、チェコに戻るのも嫌だし、
レースの世界にいたいしということで、日本のレース関係の
メーカーの名前を出して、「あの部品を使っているチームが
あるから、とりあえず、中に入れてくれ。今日は水曜日で
レースファンも来ていないし、仕事なり手伝うことが他の
チームでもあるから。」と言って中に入れてもらえました。
そこから、とりあえず、その年、ユーロスーパーストックに
参戦していたチームのところに荷物を置かしてもらい、
パドックの中をぐるぐる周り、寝る場所を提供してくれる
チームを探すことになりました。
ヨーロッパ人というのはよくあいさつするのですが、
いつものように「元気か」あいさつされて、私が
「元気じゃない」と返答するといつもと違う何かがこの男に
起こったことをすぐに察知していました。当然、
イタリアのチームがここに来ないこと、この週末どうす
るか困っていることを説明しましたが、
いくらレース界で知られている男だからと言って、
急に寝泊まりする場所を用意してくれるかといったら
それは難しいですね。
それでもあきらめの悪さはオリヴィエ・ジャック並み
の私です。色々な人と交渉していて、少し休んで、また
歩いての繰り返しをしていました。
そこにヤマハフランスのガルシアがやって来ました。
いつものようにフランス語であいさつして、「元気じゃない」と
言い、怪訝そうな顔をする彼に状況を説明すると
「そういうことか。車の中で寝てもらうことになるけれど
いいか。それからホスピタリティの仕事をちょっと手伝って
もらうけれど、それでもいいか」と言ってきました。
私はもちろん、「OK!」と答えました。
助かったという思いと彼のやさしさに胸がいっぱいに
なりましたね。と同時にフランス語ができてよかったと
いう気持ちと普段からどこのメーカーやチームの人とも
言葉を交わしていたことが何かの形になることもあるの
だと思いました。
ホスピタリティというのは、ヨーロッパのサーキットでは
チームやメーカーが自分のチームのライダー、メカニック、
チームスタッフ、協力体制のある各パーツのエンジニアや
スポンサー関係の方のために朝、昼、夜と食事を出すとこ
ろですが、そこでお手伝いすることになりました。
野菜を切ったり、鍋を洗ったり、掃除をしたりということ
ですが、ここのホスピタリティというのは、スーパーバイク
のヤマハフランスとスーパースポートのドイツヤマハの
ために料理を作っていました。
でもって、シェフはフランス人が二人だったのですが、
チーフのフランス人の作る料理というのが、まぁ、すごかった。
私はそれまで色々なチームで食事をさせていただきましたが
ベストと言えるのが、このヤマハフランスだったと思います。
初めて彼の料理を食べた時に、すぐに言葉が出てこなか
ったです。
口の中でおいしさが広がり、「おいしい」と言う前に
言葉を飲み込みました。
ブーギニオンというシチューに似た料理を食べたときには
まず最初にうなりました。
また、デザートも手抜きなし。
彼に「お前はよく食べるなぁ。」と言われましたが、
正確には彼の素晴らしい料理が私に食指を動かせるといった
方が正しい。
このチームとはこのドイツと翌週のオランダと二週ご一緒
させていただき、おかげでしっかり太りましたね。
つくづくフランス語ができてよかったし、彼らの
親切心に感謝の気持ちで一杯の二週間でした。
惜しむらくはこの翌週にフランスのマニクールで
ボルドー24時間レースがあって、フランスで一番の
レースで忙しくなることは間違いないので私を一人
使う方が彼らにとっていいので誘われたのですが、
世界グランプリの仕事が入っていて、断ってしまいました。
オランダのアッセンの後、チェコのピルセンに入り、
その翌週の世界グランプリのヴァレンシアのための
打ち合わせのためにメールをチェックしようとした
私の目に入ってきた報道各社のHPの動画、静止画の映像は
飛行機がニューヨークのワールドトレーディングセンター
に突っ込んで行くものでした。
当然、日本の会社は全面的に出張中止。私も仕事を失い
ました。
フランス人と直接マニクールに行っていたら世界で一番
盛り上がる耐久レースをフランス人のホスピタリティで
おいしいものを食べながら体感できたのにと思いましたが
まぁ、仕方ないですね。
ブラティスラバにてスロバキア政府を思う
2004年11月13日 旅行今日もスロバキアのブラティスラバのネット屋からです。
この国に滞在するのは、今回が初めてです。
前回、ここに来たときはただ、領土内を通り過ぎるだけ
でしたからね。
私がこの国について思うのは、チェコとスロバキアの大きな
違いとビジネスマインドについてですね。
チェコという国は98年にビザが要らなくなりました。
一般的な観光客というのはビザなしで入国が可能になりました。
それ以前というのはビザが必要だったのですが、これも
私はブタペストで入手したのですが、これは簡単に手続き
ができてすぐに発給してくれました。また、ボーダーでも
簡単に手に入れることができたようです。
ところが、スロバキアという国は、チェコとはまるで違って、
ビザが02年の四月まで必要でした。
さらにこれが発給が時間がかかったり、何と信じられな
い話ですがボーダーで申請できずに隣国に追い返されたり
した日本人が多かったです。
チェコのプラハというのは、商業都市であり、観光都市で
日本人に対してウェルカムという姿勢であり、それが
ビザの発給の容易さとボーダーでの迅速な対応、そして98年
以降はノービザという形になっていて、プラハの夏休みや
卒業旅行のシーズンなど多くの日本人を見ることができます。
それに比べてスロバキアのブラティスラバというのは、
あまりぱっとしない印象が強いですね。また、先に述べた
ようにビザの入手の難しさやボーダーでの発給不可という
こと、そして02年までビザが必要だったということに現れ
ていました。
地図を見ていただけるとわかりやすいのですが、オースト
リアのウィーンとスロバキアのブラティスラバとは60キロ
の距離。バスで鉄道でも一時間です。
でもって、東京からも大阪からもオーストリア航空が
ウィーンに直行便を飛ばしています。つまり、ウィーンに
入る日本人観光客というのはかなりの数になるはずです。
それであるなら、チェコが98年にビザなし入国に切り
替えて多くの日本人観光客を呼び込むことに成功して
いたのに、ずっとビザの状況が変わらず、日本人を一つ
のマーケットとして考えずにようやく02年になって
ビザ無しになったことはスロバキアの観光業界にとって
は大きなマイナスだったはずです。
また、今現在でも、ウィーンに来た日本人をブラティス
ラバに呼び込もうという意志というかビジネスマインド
を感じることができません。
日本人やイタリア人が(まぁ、私の二番目の言葉は
イタリア語でイタリア人と接する機会が多いのですが)
チェコスロバキアと口にすることが多いのですが、
チェコとスロバキアには大きな違いがあると思います。
その大きなものが観光業に対する考え方で日本人の多い
プラハとそうでないブラティスラバによく表れていると
思います。
この国に滞在するのは、今回が初めてです。
前回、ここに来たときはただ、領土内を通り過ぎるだけ
でしたからね。
私がこの国について思うのは、チェコとスロバキアの大きな
違いとビジネスマインドについてですね。
チェコという国は98年にビザが要らなくなりました。
一般的な観光客というのはビザなしで入国が可能になりました。
それ以前というのはビザが必要だったのですが、これも
私はブタペストで入手したのですが、これは簡単に手続き
ができてすぐに発給してくれました。また、ボーダーでも
簡単に手に入れることができたようです。
ところが、スロバキアという国は、チェコとはまるで違って、
ビザが02年の四月まで必要でした。
さらにこれが発給が時間がかかったり、何と信じられな
い話ですがボーダーで申請できずに隣国に追い返されたり
した日本人が多かったです。
チェコのプラハというのは、商業都市であり、観光都市で
日本人に対してウェルカムという姿勢であり、それが
ビザの発給の容易さとボーダーでの迅速な対応、そして98年
以降はノービザという形になっていて、プラハの夏休みや
卒業旅行のシーズンなど多くの日本人を見ることができます。
それに比べてスロバキアのブラティスラバというのは、
あまりぱっとしない印象が強いですね。また、先に述べた
ようにビザの入手の難しさやボーダーでの発給不可という
こと、そして02年までビザが必要だったということに現れ
ていました。
地図を見ていただけるとわかりやすいのですが、オースト
リアのウィーンとスロバキアのブラティスラバとは60キロ
の距離。バスで鉄道でも一時間です。
でもって、東京からも大阪からもオーストリア航空が
ウィーンに直行便を飛ばしています。つまり、ウィーンに
入る日本人観光客というのはかなりの数になるはずです。
それであるなら、チェコが98年にビザなし入国に切り
替えて多くの日本人観光客を呼び込むことに成功して
いたのに、ずっとビザの状況が変わらず、日本人を一つ
のマーケットとして考えずにようやく02年になって
ビザ無しになったことはスロバキアの観光業界にとって
は大きなマイナスだったはずです。
また、今現在でも、ウィーンに来た日本人をブラティス
ラバに呼び込もうという意志というかビジネスマインド
を感じることができません。
日本人やイタリア人が(まぁ、私の二番目の言葉は
イタリア語でイタリア人と接する機会が多いのですが)
チェコスロバキアと口にすることが多いのですが、
チェコとスロバキアには大きな違いがあると思います。
その大きなものが観光業に対する考え方で日本人の多い
プラハとそうでないブラティスラバによく表れていると
思います。
テニスの大会を見るためにスロバキアの首都のブラティスラバに
来ています。この町の中のネット屋が30スロバキアコルナ
でなおかつ日本語が打てるということで喜んで書こうと思った
次第です。
この国というのは、かつてはチェコスロバキアという一つの国
でした。その中でチェコ人とスロバキア人がお互いの利益やら
大国の影響下でチェコスロバキアという国にしておいた方が
いいということでかつては一つの国でした。
冷戦が終結し、プラハの春から長い年月を経て、民主化に成功し
体制を移行したのですが、同時に政権の内部にチェコ人が多く
占めていたことや自らの国を持ちたいという気持ちがスロバキア人
に芽生えて、独立し、スロバキア共和国が生まれました。
という経緯からして、この国の人はすごくナショナリズムが
強いですね。町のいたるところにこの国の国旗がなびいています。
また、昨日、今日とテニスの大会を見に行ったのですが、
まぁ、自国のプレイヤーに対する応援がすごいこと。
何だか、かつての軍事政権下の時のソウルで行われた
金一(キムイル=大木金太郎)とアントニオ猪木の試合
のような盛り上がりというか、イタリアグランプリの
フェッラーリの応援のような空気を感じました。
チェコと違って、失業率が高く、基本的に農業国で物作りの
ノウハウに乏しい国で、それほど大きくない国の人の
熱狂の対象が他民族への排斥でなく、テニスで自国のプレイヤー
を応援するというのはいいことだと思うのですが、平日の
昼間にテニスを見てこれだけ盛り上がるというのはいいこと
なのか考えてしまった私です。
来ています。この町の中のネット屋が30スロバキアコルナ
でなおかつ日本語が打てるということで喜んで書こうと思った
次第です。
この国というのは、かつてはチェコスロバキアという一つの国
でした。その中でチェコ人とスロバキア人がお互いの利益やら
大国の影響下でチェコスロバキアという国にしておいた方が
いいということでかつては一つの国でした。
冷戦が終結し、プラハの春から長い年月を経て、民主化に成功し
体制を移行したのですが、同時に政権の内部にチェコ人が多く
占めていたことや自らの国を持ちたいという気持ちがスロバキア人
に芽生えて、独立し、スロバキア共和国が生まれました。
という経緯からして、この国の人はすごくナショナリズムが
強いですね。町のいたるところにこの国の国旗がなびいています。
また、昨日、今日とテニスの大会を見に行ったのですが、
まぁ、自国のプレイヤーに対する応援がすごいこと。
何だか、かつての軍事政権下の時のソウルで行われた
金一(キムイル=大木金太郎)とアントニオ猪木の試合
のような盛り上がりというか、イタリアグランプリの
フェッラーリの応援のような空気を感じました。
チェコと違って、失業率が高く、基本的に農業国で物作りの
ノウハウに乏しい国で、それほど大きくない国の人の
熱狂の対象が他民族への排斥でなく、テニスで自国のプレイヤー
を応援するというのはいいことだと思うのですが、平日の
昼間にテニスを見てこれだけ盛り上がるというのはいいこと
なのか考えてしまった私です。
レッジョエミリアがいい
2004年11月9日 旅行イタリアという国に縁のある私ですが、よく居る町という
のがレッジョエミリアです。
このパルマとモデナの間の町ですが、ミラノやピアチェンツァ
に出るにも、ボローニャやイモラ、リミニに行くにも
幹線の中の町なので乗り換えなく行けて楽ですね。
また、私はかつてリミニで勉強していた時期があったのですが
レッジョエミリアの訛りというのは私にはわかりやすいです。
イタリア語というのは、私たち日本人やイタリア人以外の
人は簡単につい「イタリア語」と口にしてしまいますが、
まぁ、あの国には地方語がやたらと多い。
イタリア語というのは、いわゆるフィオレンティーノ
つまりフィレンツェ訛りのことをさしますね。
レッジョエミリアの言葉というのはわかりやすくて、
きれいだと思います。
さらに安く旅行をしたいと思っている人間にとっても
レッジョエミリアはいいところです。
ミラノのユースホステル(YH)などは高い上に駅から
離れているので、地下鉄に乗らなければいけない。
そして、再び町の真ん中に出るのに、もう一回乗り、
戻るのにさらにもう一回。そして翌日に駅に行くのに
もう一回乗る必要性があるし、その他にも食べる飲むが
高くつく。
その点、レッジョエミリアというのは、小さな町なので、
駅から15分程の所にYHがあるので歩けない距離ではない。
また、これが町の真ん中にあるので、真向かいが
ピッツェリア、歩いて二分の所にエッセルンガという
全国規模のスーパー。そして図書館も近いし、
町の行政サービスのビルが近くて、予約は必要だが、
ネットがただでできる。(これは図書館もです。)
飲食関係も安いし、中華やケバブを食べることが
できる場所も多い。
YHについてさらに触れるとイタリアのYHというのは、
大体昼間外に出なければいけないところが多いのですが
ここは昼間の出入りも管理人が許してくれているし
また、F1やバイクのレースをテレビルームで一緒に
盛り上がりながら見ることができます。
(昨年のF1の鈴鹿、モトGPのマレーシアなど時差の関係
で朝、相当早かったのですが、宿泊者の多くが起きて
集まっていました。)
さらに日本人にはうれしいことに、駅の近くに中国人
経営のスーパーがありインスタントラーメンやら
醤油なども買うことができ、外国人が経営する
国際電話のコールセンターもある。
また、私はイタリアという国は障害者差別が強いと
思うのですが、レッジョエミリアの駅というのは
スロープがあり、04年11月初旬現在、エレベーターは
まだ稼動していないのですが、これが動き始めると
恐らくエミリアロマーニャ州で一番障害者やお年寄りの
移動にやさしい駅になると思われます。
別に特別な建造物があるわけでも、世界的なお祭りが
あるわけでもないのですが、私がほっとできて、
温もりを感じることができ、安く収めることができる
そんな町がレッジョエミリアです。
ただこれは私がイタリア語がわかるという理由も
大きいのかも知れませんが(日本人の私がイタリア語を
話すと本当にイタリア人はよくしてくれます)
それにしても小さくていい町です。
のがレッジョエミリアです。
このパルマとモデナの間の町ですが、ミラノやピアチェンツァ
に出るにも、ボローニャやイモラ、リミニに行くにも
幹線の中の町なので乗り換えなく行けて楽ですね。
また、私はかつてリミニで勉強していた時期があったのですが
レッジョエミリアの訛りというのは私にはわかりやすいです。
イタリア語というのは、私たち日本人やイタリア人以外の
人は簡単につい「イタリア語」と口にしてしまいますが、
まぁ、あの国には地方語がやたらと多い。
イタリア語というのは、いわゆるフィオレンティーノ
つまりフィレンツェ訛りのことをさしますね。
レッジョエミリアの言葉というのはわかりやすくて、
きれいだと思います。
さらに安く旅行をしたいと思っている人間にとっても
レッジョエミリアはいいところです。
ミラノのユースホステル(YH)などは高い上に駅から
離れているので、地下鉄に乗らなければいけない。
そして、再び町の真ん中に出るのに、もう一回乗り、
戻るのにさらにもう一回。そして翌日に駅に行くのに
もう一回乗る必要性があるし、その他にも食べる飲むが
高くつく。
その点、レッジョエミリアというのは、小さな町なので、
駅から15分程の所にYHがあるので歩けない距離ではない。
また、これが町の真ん中にあるので、真向かいが
ピッツェリア、歩いて二分の所にエッセルンガという
全国規模のスーパー。そして図書館も近いし、
町の行政サービスのビルが近くて、予約は必要だが、
ネットがただでできる。(これは図書館もです。)
飲食関係も安いし、中華やケバブを食べることが
できる場所も多い。
YHについてさらに触れるとイタリアのYHというのは、
大体昼間外に出なければいけないところが多いのですが
ここは昼間の出入りも管理人が許してくれているし
また、F1やバイクのレースをテレビルームで一緒に
盛り上がりながら見ることができます。
(昨年のF1の鈴鹿、モトGPのマレーシアなど時差の関係
で朝、相当早かったのですが、宿泊者の多くが起きて
集まっていました。)
さらに日本人にはうれしいことに、駅の近くに中国人
経営のスーパーがありインスタントラーメンやら
醤油なども買うことができ、外国人が経営する
国際電話のコールセンターもある。
また、私はイタリアという国は障害者差別が強いと
思うのですが、レッジョエミリアの駅というのは
スロープがあり、04年11月初旬現在、エレベーターは
まだ稼動していないのですが、これが動き始めると
恐らくエミリアロマーニャ州で一番障害者やお年寄りの
移動にやさしい駅になると思われます。
別に特別な建造物があるわけでも、世界的なお祭りが
あるわけでもないのですが、私がほっとできて、
温もりを感じることができ、安く収めることができる
そんな町がレッジョエミリアです。
ただこれは私がイタリア語がわかるという理由も
大きいのかも知れませんが(日本人の私がイタリア語を
話すと本当にイタリア人はよくしてくれます)
それにしても小さくていい町です。
クロアチアのザグレブに行ったときの話しとその後
2004年11月3日 スポーツイタリアで勉強した後、ハンガリーのブタペストに温泉に
浸かりに行こうと思っていた私。
それだったら、それまで行ったことのないスロヴェニアと
クロアチアの方に行ってから、ハンガリーに入ろうかと
思い、鉄道で行きました。
スロヴェニアのリュブリアーナからクロアチアのザグレブに
入り、街中を歩いて驚きましたね。
大体ヨーロッパの町というのは、かなり一つのカラーというか
古い町並みだったり、新しく出来たビジネスエリアは新しい
高層ビルが立ち並ぶというようにはっきりと一つのカラーに
染まっているのですが、ここはばらばらでした。
(98年当時)
これはどう考えても、90年台前半のユーゴスラヴィアという
民族や宗教がばらばらで、そして経済の格差の激しい
バルカン半島の統一されていた国で、チトー亡き後、
血で血を争う内戦の影響であることは間違いないことでした。
古くからある建物の隣に立ち入り禁止の札がつけられて
さら地になってしまっているところ、(これは不発弾など
の処理がまだ済んでいないということだったようです。)
その隣が建て替えられて新しい建物になっている所と町
としての統一感が全くない町というのが私がクロアチア
の首都のザグレブに持った印象でした。
そんな国から出てきたテニスプレイヤーというのが
ゴーラン・イバニセビッチであり、その後、マリオ・
アンチッチでした。
世界の警察官を自認しながら、石油産出国でなく、
アメリカの経済利益とは無縁のバルカン半島に対して
ほとんど何もコミットしなかったアメリカ。
そのアメリカのデビスカップチームを地元に迎えて
ワールドグループの戦いを行い、アメリカチームを
ぶち破ったクロアチア。その勝利が決まったときに
会場は、そして、クロアチアでテレビで観戦していた
多くの家庭で、場所でとんでもない盛り上がりを
見せたようです。
プラハの春の翌年のアイスホッケー世界選手権で
決勝で当時のチェコスロバキアがソ連と戦い、
優勝した時にとんでもない大騒ぎになったことがあったと
聞きましたが、その時のようなことになったのかなと
いう印象を受けた私でした。
浸かりに行こうと思っていた私。
それだったら、それまで行ったことのないスロヴェニアと
クロアチアの方に行ってから、ハンガリーに入ろうかと
思い、鉄道で行きました。
スロヴェニアのリュブリアーナからクロアチアのザグレブに
入り、街中を歩いて驚きましたね。
大体ヨーロッパの町というのは、かなり一つのカラーというか
古い町並みだったり、新しく出来たビジネスエリアは新しい
高層ビルが立ち並ぶというようにはっきりと一つのカラーに
染まっているのですが、ここはばらばらでした。
(98年当時)
これはどう考えても、90年台前半のユーゴスラヴィアという
民族や宗教がばらばらで、そして経済の格差の激しい
バルカン半島の統一されていた国で、チトー亡き後、
血で血を争う内戦の影響であることは間違いないことでした。
古くからある建物の隣に立ち入り禁止の札がつけられて
さら地になってしまっているところ、(これは不発弾など
の処理がまだ済んでいないということだったようです。)
その隣が建て替えられて新しい建物になっている所と町
としての統一感が全くない町というのが私がクロアチア
の首都のザグレブに持った印象でした。
そんな国から出てきたテニスプレイヤーというのが
ゴーラン・イバニセビッチであり、その後、マリオ・
アンチッチでした。
世界の警察官を自認しながら、石油産出国でなく、
アメリカの経済利益とは無縁のバルカン半島に対して
ほとんど何もコミットしなかったアメリカ。
そのアメリカのデビスカップチームを地元に迎えて
ワールドグループの戦いを行い、アメリカチームを
ぶち破ったクロアチア。その勝利が決まったときに
会場は、そして、クロアチアでテレビで観戦していた
多くの家庭で、場所でとんでもない盛り上がりを
見せたようです。
プラハの春の翌年のアイスホッケー世界選手権で
決勝で当時のチェコスロバキアがソ連と戦い、
優勝した時にとんでもない大騒ぎになったことがあったと
聞きましたが、その時のようなことになったのかなと
いう印象を受けた私でした。
レースの時に話されている言葉
2004年11月2日 スポーツ私はかつてあるバイクのチームの通訳として仕事をしていた
ことがあります。
今回はそのときのことに触れてみたいと思います。
ただし、今回のことはまだ記憶に新しく生々しいので、名前は
控えることにします。
私が担当していたライダーとチームオーナーであり、監督に
呼び出されました。
ライダーと共に「どんな話があるんだろうね」と言いつつ
人目につかないようにトラックの中にあつらえてある
ちょっとした居間に入っていきました。
彼の話が始まりました。
「今回のレースは予選も良く、また決勝も非常に積極的な
走りでとてもよかった。私は満足している。」
「ただ、今回の結果だけで満足して欲しくない。
そして、君は今回良かったが、もう一人のライダーの方が
転んで怪我をしてしまった。
来週にレースが迫っているが、代役を立てることになるかも
知れないし、また、彼が走ることになっても、体調が完璧
ではないと思う。」
ここまで訳した後、少し顔を高潮させて彼は
「従って来週のレースだが、君が我々のチームという船の船長
であり、旗頭として周りの士気が上がるようにしなければ
いけない。君にはdeterminazioneを持って臨んで欲しい。」
と言ったところで私が
このdeterminazioneというイタリア語は日本語ではやる気と
訳せるのだろうけれど、何が何でもやり遂げるとか
石にかじりついてでもなしとげるという意味の言葉である
ことを説明して訳しました。
さらに彼は
「ということで、来週のレースだが悪魔の心を持って
臨んで欲しい。」と続けました。
これも日本語で頑張って欲しいという時には精一杯頑張って
下さいとか、一生懸命戦って下さいというのだろうが、
彼らの発想では、戦う相手を引きづりおろしてでも
前に行くとか、ライバルを蹴落とすという気持ちから
悪魔性を有して戦って欲しいと言っていました。
当然これもまた、全てを訳す前にこの言葉の持つ意味を説明して
から通訳しました。
世界のトップに行くにはライバルと技量や才能が一緒だったら、
よりハングリーガッツを持っている方が勝つと思います。
determinazioneと悪魔の心を持てるか、普段から目を血走らせて
いなくても、ヘルメットをかぶった瞬間から狂気を宿らせて
何が何でも一番になりたいと思うライダーがいいライダーだと
思います。普段から性格が悪くて悪魔な人は好きでは
ないけどね。
ことがあります。
今回はそのときのことに触れてみたいと思います。
ただし、今回のことはまだ記憶に新しく生々しいので、名前は
控えることにします。
私が担当していたライダーとチームオーナーであり、監督に
呼び出されました。
ライダーと共に「どんな話があるんだろうね」と言いつつ
人目につかないようにトラックの中にあつらえてある
ちょっとした居間に入っていきました。
彼の話が始まりました。
「今回のレースは予選も良く、また決勝も非常に積極的な
走りでとてもよかった。私は満足している。」
「ただ、今回の結果だけで満足して欲しくない。
そして、君は今回良かったが、もう一人のライダーの方が
転んで怪我をしてしまった。
来週にレースが迫っているが、代役を立てることになるかも
知れないし、また、彼が走ることになっても、体調が完璧
ではないと思う。」
ここまで訳した後、少し顔を高潮させて彼は
「従って来週のレースだが、君が我々のチームという船の船長
であり、旗頭として周りの士気が上がるようにしなければ
いけない。君にはdeterminazioneを持って臨んで欲しい。」
と言ったところで私が
このdeterminazioneというイタリア語は日本語ではやる気と
訳せるのだろうけれど、何が何でもやり遂げるとか
石にかじりついてでもなしとげるという意味の言葉である
ことを説明して訳しました。
さらに彼は
「ということで、来週のレースだが悪魔の心を持って
臨んで欲しい。」と続けました。
これも日本語で頑張って欲しいという時には精一杯頑張って
下さいとか、一生懸命戦って下さいというのだろうが、
彼らの発想では、戦う相手を引きづりおろしてでも
前に行くとか、ライバルを蹴落とすという気持ちから
悪魔性を有して戦って欲しいと言っていました。
当然これもまた、全てを訳す前にこの言葉の持つ意味を説明して
から通訳しました。
世界のトップに行くにはライバルと技量や才能が一緒だったら、
よりハングリーガッツを持っている方が勝つと思います。
determinazioneと悪魔の心を持てるか、普段から目を血走らせて
いなくても、ヘルメットをかぶった瞬間から狂気を宿らせて
何が何でも一番になりたいと思うライダーがいいライダーだと
思います。普段から性格が悪くて悪魔な人は好きでは
ないけどね。
世界規模のテニス界とマイナーな言葉
2004年10月28日 スポーツ三年ほど前、テニスのAIGオープンを見に行ったときのこと。
有明に着き、当時付き合いのあった、メル友と彼女の友達と
三人で観戦していました。
そこで、出てきた話というのが、ゴーラン・イバニセビッチ
のファンのこと。
このゴーランマニアというのが、すごい人で、彼のことを
応援したいという気持ちが高まって、クロアチア語を勉強
し始めて、彼の試合を見に行ったらクロアチア語で応援している
という人でした。
私がイタリア語を話しても、かなり驚かれるのに、それが
クロアチア語となると、相当サプライズを持って受けいれられ
るらしく、当初相当びっくりしたとのことでした。
コート上では現役時代悪童というイメージが強かった
イバニセビッチですが、この熱狂的なファンの応援には
すごく喜んで、色々とよくしてくれたらしいです。
そんなことを聞いてから一週間後、私は大阪のスーパージュニア
の会場にいました。
ルーシー・サファローバというかつて、天才少女と呼ばれ
12歳当時は世界で一番であったが、肩を故障したこと、
フォアハンドは強力だが、バックサイドはそれほどでもないこと
など、一時期調子を落として、再びジュニアテニスのトップに
上がってきたチェコ人と会い、いつも私がチェコ人と会った
ときに口にするように「dobry den 」と話すと靴のひも
を結びながら同じ言葉を返してきました。
そして、顔を上げたら彼女の目の前には私の姿。
さすがにびっくりしていましたね。
私はチェコ語は挨拶しかできないこと。チェコは何度も
行ったことがあること、プラハが大好きなことなどを
説明したら喜んでいましたね。
その彼女のプレイをコートサイドで見ていて、素晴らしい
パッシングショットを決めたときに、私は近くで思わず
「ano!」と叫んだら、何とも言えない可愛い笑顔を世界で
ただ一人私だけに見せてくれました。
恐らく、ゴーランマニアの彼女はこういった時に幸せを
感じていたのだろうなと思いましたね。
私ですが、折角私だけに可愛い微笑を見せてくれているのに
そこから先に何も言わなかったことを少々後悔しました。
これがイタリア語でモノを考えていたら、ウィンクするなり、
他の言葉を継ぎ足すなりしたのでしょうが、、、。
有明に着き、当時付き合いのあった、メル友と彼女の友達と
三人で観戦していました。
そこで、出てきた話というのが、ゴーラン・イバニセビッチ
のファンのこと。
このゴーランマニアというのが、すごい人で、彼のことを
応援したいという気持ちが高まって、クロアチア語を勉強
し始めて、彼の試合を見に行ったらクロアチア語で応援している
という人でした。
私がイタリア語を話しても、かなり驚かれるのに、それが
クロアチア語となると、相当サプライズを持って受けいれられ
るらしく、当初相当びっくりしたとのことでした。
コート上では現役時代悪童というイメージが強かった
イバニセビッチですが、この熱狂的なファンの応援には
すごく喜んで、色々とよくしてくれたらしいです。
そんなことを聞いてから一週間後、私は大阪のスーパージュニア
の会場にいました。
ルーシー・サファローバというかつて、天才少女と呼ばれ
12歳当時は世界で一番であったが、肩を故障したこと、
フォアハンドは強力だが、バックサイドはそれほどでもないこと
など、一時期調子を落として、再びジュニアテニスのトップに
上がってきたチェコ人と会い、いつも私がチェコ人と会った
ときに口にするように「dobry den 」と話すと靴のひも
を結びながら同じ言葉を返してきました。
そして、顔を上げたら彼女の目の前には私の姿。
さすがにびっくりしていましたね。
私はチェコ語は挨拶しかできないこと。チェコは何度も
行ったことがあること、プラハが大好きなことなどを
説明したら喜んでいましたね。
その彼女のプレイをコートサイドで見ていて、素晴らしい
パッシングショットを決めたときに、私は近くで思わず
「ano!」と叫んだら、何とも言えない可愛い笑顔を世界で
ただ一人私だけに見せてくれました。
恐らく、ゴーランマニアの彼女はこういった時に幸せを
感じていたのだろうなと思いましたね。
私ですが、折角私だけに可愛い微笑を見せてくれているのに
そこから先に何も言わなかったことを少々後悔しました。
これがイタリア語でモノを考えていたら、ウィンクするなり、
他の言葉を継ぎ足すなりしたのでしょうが、、、。
すぐれたダブルスパートナーとは
2004年10月26日 スポーツテニス、バドミントン、卓球、プロレスなどには、個人で戦う
以外に二人で組んで試合をすることがあります。
テニスで言うと、シングルスではぱっとしないのに、ダブルス
ではトップ10に入るようなプレイヤーもいたり、はなから
シングルスを捨ててダブルスに絞って世界に挑むプレイヤーも
います。
そこである時、すぐれたダブルスプレイヤーというのはどんな
ものなのか考えたことがありました。
テレビを見ていて、例えば長嶋一茂という人は、さんまの番組に
出ると、さんまちゃんが彼のおかしさを上手いこと引き出して
笑いに結び付けているなという気がします。
同じように、島田紳助と一緒の時の磯野貴理子というのは
半径五メートルほどの距離で起きたハプニングなどを
ネタに昇華して、紳助の素晴らしいネタの振り方にちゃんと
応えて大きな笑いを取っていって番組を盛り上げることが
数多くあります。
ところが、面白いと思われているこの長嶋一茂と磯野貴理子が
一緒に組んで、2004年の四月からTBSの正午からの
時間帯の新番組をやったのですが、大きくはずしてしまいましたね。
ある種、明石家さんまと島田紳助という二人がいいネタの振り方を
したり、にじみ出るおかしさを拾って行くからさんまと一茂、
紳助と貴理子のコンビというのはスィングするわけだと
よくわかりました。
ということで、私の結論というのは、さんまと紳助というのは
ジョン・マッケンローで、一茂と貴理子というのは、ピーター・
フレミングだったということですね。ノアとルコントという
ペアではなかったと思います。
以外に二人で組んで試合をすることがあります。
テニスで言うと、シングルスではぱっとしないのに、ダブルス
ではトップ10に入るようなプレイヤーもいたり、はなから
シングルスを捨ててダブルスに絞って世界に挑むプレイヤーも
います。
そこである時、すぐれたダブルスプレイヤーというのはどんな
ものなのか考えたことがありました。
テレビを見ていて、例えば長嶋一茂という人は、さんまの番組に
出ると、さんまちゃんが彼のおかしさを上手いこと引き出して
笑いに結び付けているなという気がします。
同じように、島田紳助と一緒の時の磯野貴理子というのは
半径五メートルほどの距離で起きたハプニングなどを
ネタに昇華して、紳助の素晴らしいネタの振り方にちゃんと
応えて大きな笑いを取っていって番組を盛り上げることが
数多くあります。
ところが、面白いと思われているこの長嶋一茂と磯野貴理子が
一緒に組んで、2004年の四月からTBSの正午からの
時間帯の新番組をやったのですが、大きくはずしてしまいましたね。
ある種、明石家さんまと島田紳助という二人がいいネタの振り方を
したり、にじみ出るおかしさを拾って行くからさんまと一茂、
紳助と貴理子のコンビというのはスィングするわけだと
よくわかりました。
ということで、私の結論というのは、さんまと紳助というのは
ジョン・マッケンローで、一茂と貴理子というのは、ピーター・
フレミングだったということですね。ノアとルコントという
ペアではなかったと思います。
キモチを伝える、キモチは伝わる
2004年10月25日 日常私がかつてやった外国語の中で一番下手なのはフランス語です。
この言葉というのは話していてすごくきれいで、
好きなんですが難しいです。
でもって、下手だから話さないのではなくて、下手だからこそ
必死になって話すようにしています。
根本的に日本語を母国語にしている人がフランス語を話そうにも
発音が違い過ぎるので、どうしても発音は難しいですね。
ただ、あきらめの悪さはオリヴィエ・ジャックなみの私のこと
ですから、必死になって、単語を探しながら話しています。
そうすると、やはり言いたいこと、表現したいことというのは人に
通じますね。心の底から「私はこれを伝えたいんだ。」
とか「私はこう思っているんだ。」ということを訴える気持ちという
のは下手であっても、気持ちが入っていれば、人に伝わる気が
します。
また、レース業界のフランス人というのは、日本人がフランス語を
話すのがいかに大変かわかってくれているので、私の努力を
認めてくれています。
中森明菜という歌手のパフォーマンスを見ていたときに、
思ったのは、彼女は歌が上手いかと言うと、ちょっと疑問が残る。
それは本人もかつてインタビューで答えていて、彼女自身が
認めています。
だからと言って、彼女が子どものころから好きで仕方ない
歌というのを辞めてしまうのかというと、そうではない。
そして、長年上手いかどうか微妙ながらも、彼女の感性で
詞や曲を消化し、彼女らしい味というか、表現が原曲に加えられ
彼女ならではの作品が仕上がり、それを多くのファンが支持して
います。
上手いか下手か微妙であっても、自分のやりたいこと、
伝えたいことをやり続けて行くことは尊いことで、それを支持
してくれる人は必ずや存在するはずです。
フランス語を話しているときに、ついつい中森明菜という人を
思い浮かべる下手うまフランス語の私です。
そんなことを思っていたり、実際、多くの人に受け入れられている
経験をしてくると、難しいということは避けて、他の言葉を
勉強することなく、どこでも英語で話すアメリカ人やイギリス人
が非英語圏に滞在中に「何で英語が通じないんだ。」とか
「フランス人やイタリア人は本当に英語がわからない。
おかしい。」なんて言う英語国民は何とも怠け者で、ぐうたら
だなと思ってしまいます。
この言葉というのは話していてすごくきれいで、
好きなんですが難しいです。
でもって、下手だから話さないのではなくて、下手だからこそ
必死になって話すようにしています。
根本的に日本語を母国語にしている人がフランス語を話そうにも
発音が違い過ぎるので、どうしても発音は難しいですね。
ただ、あきらめの悪さはオリヴィエ・ジャックなみの私のこと
ですから、必死になって、単語を探しながら話しています。
そうすると、やはり言いたいこと、表現したいことというのは人に
通じますね。心の底から「私はこれを伝えたいんだ。」
とか「私はこう思っているんだ。」ということを訴える気持ちという
のは下手であっても、気持ちが入っていれば、人に伝わる気が
します。
また、レース業界のフランス人というのは、日本人がフランス語を
話すのがいかに大変かわかってくれているので、私の努力を
認めてくれています。
中森明菜という歌手のパフォーマンスを見ていたときに、
思ったのは、彼女は歌が上手いかと言うと、ちょっと疑問が残る。
それは本人もかつてインタビューで答えていて、彼女自身が
認めています。
だからと言って、彼女が子どものころから好きで仕方ない
歌というのを辞めてしまうのかというと、そうではない。
そして、長年上手いかどうか微妙ながらも、彼女の感性で
詞や曲を消化し、彼女らしい味というか、表現が原曲に加えられ
彼女ならではの作品が仕上がり、それを多くのファンが支持して
います。
上手いか下手か微妙であっても、自分のやりたいこと、
伝えたいことをやり続けて行くことは尊いことで、それを支持
してくれる人は必ずや存在するはずです。
フランス語を話しているときに、ついつい中森明菜という人を
思い浮かべる下手うまフランス語の私です。
そんなことを思っていたり、実際、多くの人に受け入れられている
経験をしてくると、難しいということは避けて、他の言葉を
勉強することなく、どこでも英語で話すアメリカ人やイギリス人
が非英語圏に滞在中に「何で英語が通じないんだ。」とか
「フランス人やイタリア人は本当に英語がわからない。
おかしい。」なんて言う英語国民は何とも怠け者で、ぐうたら
だなと思ってしまいます。
恐怖心に負けた人の話
2004年10月22日 スポーツ名古屋から岐阜に行って、女子テニスのトーナメントを見ていた
時のこと。
ダブルスの試合だったのですが、試合序盤は割に競り合って
いいゲームだったのですが、中盤に入り、サービスダッシュを
してきたプレイヤーに相手の選手がハードヒットでそのプレイヤー
にぶつけてきました。
その時はボールは直撃することなく、ラケットにはねてから、
体にあたり、肉体的なダメージはなかったのですが、どうも
精神的なダメージというか、恐怖心がこのプレイヤーに植え付け
られてしまいました。
その後の試合展開は一方的なものになりました。
このプレイヤーの体に、足元に速いボールがくると、一歩
まごついてから対応することになり、相手にチャンスがやって
きて決められてしまうというゲームの連続になり、ワンサイドで
破れてしまいました。
この試合を見ていて思い出したのが、ファッビオ・カルパーニ
というライダーのことです。
97年ヨーロッパ選手権の250ccクラスでいい成績を残し、
98年彼は世界グランプリの500ccにステップアップして
来ました。
将来が楽しみで多くの人に才能を認められていた彼ですが、
開幕戦の鈴鹿、彼は200キロオーバーでクラッシュしてしまい
ました。
その後の彼は鈴鹿での恐怖心から持ち前のスピードと思い切りの
良さを失ってしまいました。
失意のシーズンの翌年、彼は走るクラスをスーパースポート
世界選手権に替えて、再起を図りました。
私と彼とは会えばぐだぐだ話をするような仲だったので、
何事も率直に話をしていたのですが、一つだけ彼に対して、
口に出せないことが存在しました。
私がマウロ・サンキーニのチームでお手伝いをしていた時のこと。
(彼はこの年、スズキのマシンでスーパースポート世界選手権に
参戦していました。)ファッビオが我々のところにやってきました。
オランダのアッセンという、ライダーにとって、難易度の高い
サーキットで一回目の予選が終わって、その日の夜にタイムの
上がらなかった彼はマウロにタイムアタックの方法やライディング
について相談にやってきました。
コース図を手に取りながら、マウロが「ここは二速、ここは三速」
などと説明していたのですが、あるコーナーのこと、
マウロが五速で走っているコーナーをファッビオは三速で走って
いました。
一般の道でのドライビングでも一速や二速違えばかなり違うの
ですが、レーシングスピードで二速違えば、これは相当違います。
ファッビオはこの事実がショックだったようです。
顔からこの事実を受け入れたくない様子が伝わってきました。
マウロとファッビオは、激しいライバル意識を抱いているわけ
でも意識しあっているわけでもなかったので、別に相手が驚く
ようなことを言ってプレッシャーをかけるとか心理戦を使う必
要性など全くなかったので、マウロの言っていたのは真実だった
と思います。
その後のマウロは紆余曲折あったのですが、スーパーバイク世界
選手権のレギュラーライダーとして活躍し、未だ未勝利であるの
ですが、レースの世界で認められ、快走を見せることしばしば
です。(今年の雨のミザノの頑張りには涙が出そうになりました。)
一方ファッビオはこの会話の後、予選落ちを喫して、その後、
欠場し、サーキットで姿を見せなくなりました。
そう、私が仲のいい彼に言えなかったことというのは、
走るのを辞めて、違うことを考えた方がいいということでした。
ライダーにこんなきついことを言うのはどうかと思い、
言わなかったのですが、恐怖心が抜けず、他のライダーが五速
で走っているところを三速で走っているライダーは姿を消し、
ヘルメットを脱ぎました。
テニスプレイヤーが相手からハードヒットで体を狙われたり
ライダーが高速走行中にクラッシュしても、恐怖心を抱かなかった
り、怖さを簡単に克服できるプレイヤーやライダーが世界の
トップに行くことができるのでしょう。
時のこと。
ダブルスの試合だったのですが、試合序盤は割に競り合って
いいゲームだったのですが、中盤に入り、サービスダッシュを
してきたプレイヤーに相手の選手がハードヒットでそのプレイヤー
にぶつけてきました。
その時はボールは直撃することなく、ラケットにはねてから、
体にあたり、肉体的なダメージはなかったのですが、どうも
精神的なダメージというか、恐怖心がこのプレイヤーに植え付け
られてしまいました。
その後の試合展開は一方的なものになりました。
このプレイヤーの体に、足元に速いボールがくると、一歩
まごついてから対応することになり、相手にチャンスがやって
きて決められてしまうというゲームの連続になり、ワンサイドで
破れてしまいました。
この試合を見ていて思い出したのが、ファッビオ・カルパーニ
というライダーのことです。
97年ヨーロッパ選手権の250ccクラスでいい成績を残し、
98年彼は世界グランプリの500ccにステップアップして
来ました。
将来が楽しみで多くの人に才能を認められていた彼ですが、
開幕戦の鈴鹿、彼は200キロオーバーでクラッシュしてしまい
ました。
その後の彼は鈴鹿での恐怖心から持ち前のスピードと思い切りの
良さを失ってしまいました。
失意のシーズンの翌年、彼は走るクラスをスーパースポート
世界選手権に替えて、再起を図りました。
私と彼とは会えばぐだぐだ話をするような仲だったので、
何事も率直に話をしていたのですが、一つだけ彼に対して、
口に出せないことが存在しました。
私がマウロ・サンキーニのチームでお手伝いをしていた時のこと。
(彼はこの年、スズキのマシンでスーパースポート世界選手権に
参戦していました。)ファッビオが我々のところにやってきました。
オランダのアッセンという、ライダーにとって、難易度の高い
サーキットで一回目の予選が終わって、その日の夜にタイムの
上がらなかった彼はマウロにタイムアタックの方法やライディング
について相談にやってきました。
コース図を手に取りながら、マウロが「ここは二速、ここは三速」
などと説明していたのですが、あるコーナーのこと、
マウロが五速で走っているコーナーをファッビオは三速で走って
いました。
一般の道でのドライビングでも一速や二速違えばかなり違うの
ですが、レーシングスピードで二速違えば、これは相当違います。
ファッビオはこの事実がショックだったようです。
顔からこの事実を受け入れたくない様子が伝わってきました。
マウロとファッビオは、激しいライバル意識を抱いているわけ
でも意識しあっているわけでもなかったので、別に相手が驚く
ようなことを言ってプレッシャーをかけるとか心理戦を使う必
要性など全くなかったので、マウロの言っていたのは真実だった
と思います。
その後のマウロは紆余曲折あったのですが、スーパーバイク世界
選手権のレギュラーライダーとして活躍し、未だ未勝利であるの
ですが、レースの世界で認められ、快走を見せることしばしば
です。(今年の雨のミザノの頑張りには涙が出そうになりました。)
一方ファッビオはこの会話の後、予選落ちを喫して、その後、
欠場し、サーキットで姿を見せなくなりました。
そう、私が仲のいい彼に言えなかったことというのは、
走るのを辞めて、違うことを考えた方がいいということでした。
ライダーにこんなきついことを言うのはどうかと思い、
言わなかったのですが、恐怖心が抜けず、他のライダーが五速
で走っているところを三速で走っているライダーは姿を消し、
ヘルメットを脱ぎました。
テニスプレイヤーが相手からハードヒットで体を狙われたり
ライダーが高速走行中にクラッシュしても、恐怖心を抱かなかった
り、怖さを簡単に克服できるプレイヤーやライダーが世界の
トップに行くことができるのでしょう。
修造チャレンジジャパンオープンジュニア
2004年10月21日 スポーツかつて、テニスのジャパンオープンというのは、有明で
十月に行われていて、同時期にジュニアのトーナメントも
開催されていました。
それが、大阪スーパージュニアという大会ができたり、
大会運営上の問題もあったりというこもあったりということ
でジュニアのトーナメントを分離し、名古屋で四月に開催される
ことになりました。
その後、松岡修造という人が、かなり強くバックアップして
サポートイベントを交えてジュニアのトップクラスの大会で
なおかつ、子供の世代に楽しめるイベントを交えて、行われ
ているのが、名古屋で毎年四月に開催されている
修造チャレンジジャパンオープンジュニアです。
名古屋人の私はかつて何度か出かけたことがありますが、
あまり松岡修造に会いたいという気持ちは薄かったですね。
多分人がたくさん集まってサインや写真をリクエストする人が
多いだろうという予想(実際、その通りだった)がありました
からね。
そんな私が大会期間中にお会いできてうれしかったのが、
日本テニス協会専務理事の渡辺康ニさんでした。
この方はかつて、日本のトッププレイヤーとして活躍し、さらに
引退後はデビスカップの監督として指揮を取り、そして、
テレビ東京系列で長く「ワールドビッグテニス」の解説を
務めていらっしゃいました。
あいさつをして、テレビ愛知の開局によって、あの番組を見られる
ようになったこと、多くの非英語圏プレイヤーもインタビューに
英語で答えている姿を見て、英語を勉強しようと思ったこと、
後に英語以外の言葉に手を伸ばすようになったこと、
レースの世界の住人でいること、テニスプレイヤーやコーチ
とも親交を結ぶことになったことなどの全ての始まりはあの
「ワールドビッグテニス」のおかげであったことをご説明申し
お礼を申し上げると、笑みを浮かべ喜んでいらっしゃいました。
周りが「修造だ。修造だ。」という声がする中、何ともうれしくて
楽しい会話をすることができた私でした。
PS この時の女子シングルスの決勝というのは、スーウェイ
とマリア・シャラポーバの対決で、スーウェイが勝ってタイトル
を獲ったのですが、まさか、この二人の立場がこんな風になって
しまうとは予想できなかったですね。
どの世界でも小さい頃にそこそこ成功してしまったり、
ある程度お金を手にすると、ハングリーさが欠けてしまうの
でしょうか。
十月に行われていて、同時期にジュニアのトーナメントも
開催されていました。
それが、大阪スーパージュニアという大会ができたり、
大会運営上の問題もあったりというこもあったりということ
でジュニアのトーナメントを分離し、名古屋で四月に開催される
ことになりました。
その後、松岡修造という人が、かなり強くバックアップして
サポートイベントを交えてジュニアのトップクラスの大会で
なおかつ、子供の世代に楽しめるイベントを交えて、行われ
ているのが、名古屋で毎年四月に開催されている
修造チャレンジジャパンオープンジュニアです。
名古屋人の私はかつて何度か出かけたことがありますが、
あまり松岡修造に会いたいという気持ちは薄かったですね。
多分人がたくさん集まってサインや写真をリクエストする人が
多いだろうという予想(実際、その通りだった)がありました
からね。
そんな私が大会期間中にお会いできてうれしかったのが、
日本テニス協会専務理事の渡辺康ニさんでした。
この方はかつて、日本のトッププレイヤーとして活躍し、さらに
引退後はデビスカップの監督として指揮を取り、そして、
テレビ東京系列で長く「ワールドビッグテニス」の解説を
務めていらっしゃいました。
あいさつをして、テレビ愛知の開局によって、あの番組を見られる
ようになったこと、多くの非英語圏プレイヤーもインタビューに
英語で答えている姿を見て、英語を勉強しようと思ったこと、
後に英語以外の言葉に手を伸ばすようになったこと、
レースの世界の住人でいること、テニスプレイヤーやコーチ
とも親交を結ぶことになったことなどの全ての始まりはあの
「ワールドビッグテニス」のおかげであったことをご説明申し
お礼を申し上げると、笑みを浮かべ喜んでいらっしゃいました。
周りが「修造だ。修造だ。」という声がする中、何ともうれしくて
楽しい会話をすることができた私でした。
PS この時の女子シングルスの決勝というのは、スーウェイ
とマリア・シャラポーバの対決で、スーウェイが勝ってタイトル
を獲ったのですが、まさか、この二人の立場がこんな風になって
しまうとは予想できなかったですね。
どの世界でも小さい頃にそこそこ成功してしまったり、
ある程度お金を手にすると、ハングリーさが欠けてしまうの
でしょうか。