尾崎豊さんのラジオ番組を制作していたディレクターさんとの話。
2020年1月26日 日常 お笑い芸人のそるとさんが尾崎豊さんのファンだったということで
前から折があれば書こうかなと思いながら書いていなかった東海ラジオの
ディレクターだった方のことを書いてみたいと思います。
高校時代、文化放送制作で全国ネットの番組だった「青春キャンパス」の
中部地方の東海ラジオのキャンパススタッフに選ばれたことによってローカル
パートの制作現場に週一で局に行くことになり、その後四か月の任期は切れた
ものの番組スタッフに気に入られて、半日で終わる学校のテスト期間で
あったり、春、夏、冬休みなどは局に出かけて遊んでもらったり、昼飯を
たかったりしていました。
そんなことをしていたら、高校生で面白くて、元気でラジオ愛がある人を
東海ラジオでオーディションで選んで、全国大会に出して、スターを作ろう
というようなことがあり、人が集まっていないし、君が向いていると思うから
いつも昼飯を食わせてあげているし、ちょっとした手助けをしてくれないと
軽く言われました。
まぁ、君を評価してのことだし、いい話だから出てくれないかという
ことで条件的には交通費を出すということと君の身近で能力を
知っている高校のクラスメートを出来れば二人用意して連れてきて、少し
話してほしいということで、あとは当日、私本人がアナウンサーを相手に
10分のテスト番組を作って審査するということで名古屋の東桜まで出かけ
ました。
その時の担当ディレクターだったのが、どういうわけか尾崎豊さんの番組
「誰かのクラクション」を担当していた加藤与佐雄さんでした。
発信の場が欲しかった尾崎豊さんとじっくりと番組制作に向き合う加藤与佐雄
さんが作り、制約のある全国ネットではなくて、予算規模は少なく、ラジコ
プレミアムなどのない時代で放送範囲が中部地方に限られているものの
やりたいことができる番組を作って放送しました。
そして、その番組は東海ラジオのサービスエリアだけでなくて、雑音交じり
の放送を他のエリアの尾崎ファンもAM1332に合わせて聴いていました。
尾崎ファンのなかでは知られていたり、東海地方の音楽業界、放送の世界
では「超」のつく業界内有名人ということであるということ。そして、私の敬愛
するラジオパーソナリティのつボイノリオさんのデビュー間もない時期に
付き合いがあったということで少々、緊張しながら収録に臨んだことを
覚えています。
ライブ感を大事にしたいとか同一条件で審査したいということで生放送
想定の一発録りの収録を終えて、もっとこんなことを話せばよかったとか、
この話の流れなら、あのネタを突っ込んで置いたらよかったなどと結構、
後悔があるなかで加藤さんと少し話すことになり、私の話しぶりやネタの
運び方がつボイノリオさんに似ているということを言われてうれしかったり、
70年代のフォークシーンやら、レコードからCDの時代になって、ラジオ番組
がどうなるのか、コンサートはどんなことになるのかということを話していて、話の流れで尾崎豊さんのことになりました。
私は当時「FMレコパル」を読んでいたのですが、その中でコンサート批評を
しているコーナーがあり、色々なライブに出かけているDJやディレクターも
しているの方が尾崎豊のコンサートについて触れていました。
簡単に要約してしまうと、尾崎豊の表現者としてのパワーやエネルギーは
素晴らしいがライブでのバックバンドのとりわけリズムパートの技術が不満足というものでした。
では、より高い音楽性を目指すとなると、バンドのメンバーを入れ替えて、
生まれ持った才能を有していて、コンサートでの経験があるドラマーや
ベーシストを引っ張ってきたらいいのか、あるいは今のメンバーが実力を
上げることを待つべきなのかという二つの選択肢がある。
私もそれはそうだなと思っていて、短期間に演奏レベルを上げるということ
ならば、外部から演奏能力の高い人に加入してもらうのが最良だと思ったの
ですが、加藤さんから教えていただいた尾崎豊の考えというのは気心が知れ
た方、彼の思いや能力を理解してくれる人にそばにいて欲しい。それでいい
ものややりたい作品を作りたいというものでした。
まぁ、突き抜けた能力のある人や過剰なエネルギーやパワーを持っている人
とお付き合いするのは、職能や技術力だけでなくて、キャパシティの大きな
人間性だったり、ある意味主役になる人を前にしてイエスマンでないといけ
なかったということだったのでしょう。
それ故にで音楽技術の部分で厳しい声を受けるのは仕方ないということ
だったのか、あるいは尾崎豊がそこの部分を読んだり聞いたりして
一緒にやる時間のなかで上手くなってほしいと願っていたのかもしれません。
そのあたりは当時、話題作を作り世に出してきた伊丹十三監督がほぼ同
じ制作スタッフ、役者陣を揃えて監督の意図や狙いをわかって準備してくれ
たり、動いてくれる人で固めて作品を作っていたことと同質なのかなと
思いましたね。そして、足りない部分は彼が見ていたテレビや映画で見て
気になった人を採用して補う。伊集院光の外見を見て、彼こそはスーパーの
肉屋の若手社員に相応しいということで採用したということがありました。
(ただ、思っていたよりもその時期は彼は痩せていたので、監督が求める
体形になるまでのデブ待ちなんてことが起きたりしていましたが)
そんなラジオの話、音楽やライブの話、映画の話を収録後うだうだ楽しく
できてうれしかったのですね。おそらく加藤さんやその時のパートナーとなった
アナウンサーの方は私の会話や態度から何かをジャッジしていたのだと思います。
加藤さんに人前に出る人は元気であること、好きなジャンルに関して愛が
あったり、研究熱心で掘り下げたり、勉強することや何かを届けたいというような強い思いがある人が優れた表現者になるわけで、収録終わりに君とこうして
ご一緒して楽しかったんで、審査の結果、君を選択するならまた、楽しく何かを作りたいし、もし、選ばれなかってもこれも縁なのでいつかどこかでご一緒
できたらいいですねなどて言われて感激しましたね。握手して別れる時に
この手で尾崎豊はじめ色々なミュージシャンのコアな部分を言葉にして発信
している番組のテープを編集しているのかと思いました。
(今とは違って、まだこの頃はオープンリールテープ)
まぁ、こういう人だから、尾崎豊が信頼を持って共に番組を作る
ことができるのか。そして加藤さんのキャリアを通じて、高い能力の
ある人のラジオパーソナリティとして個性と色の濃い番組を創造できたのかな
という思いを抱きました。
当該のオーディションの結果は二位でして、後日電話がかかってきて、
ベストだと思った高校生が学校の規則や家族の反対があって、彼女の活動辞退
ということになったら、君にお願いすると思うとお話をいただいたのですが
その女性はクリアすべきことが何とかなったので、彼女がメディア界の大人の
企画したことをやっていくことになりました。
まぁ、当時の東海ラジオはアイドルの一人喋りのラジオ番組が結構あり
ました。主にその東京制作の番組を東海ラジオもネット受けしていたり、
スポンサーがついて放送するような編成になっていました。
そんなアイドルの番組が多い中で「人にどう見られるかより、自分が何を
するのかとか、どう思っているのかが大事で周りがおぜん立てしてくれて、
放送作家がキャラに合わせて書いてくれた原稿を破綻なく進行通り進める
アイドルの30分番組は嫌い」なんて言っていた私のことを面白がってくれる
人もそうでない人もいて、適材適所ということとか女子高生のほうがいいとか
周りのクラスメートの応援体制とか色々なファクターで結論がでました。
結果は残念でしたが、加藤与佐雄さんとご一緒できたことや褒めていただいた
ことは今も鮮やかに記憶に残っています。
お笑いライブ終わりで芸人さんとうだうだ話していたりして、楽しい
時間を過ごすというのはこの頃からの土壌だろうし、発信したいとか面白い
ことや素晴らしいことを届けたいという思いがインターネットの時代になって
こうしてブログを始めるきっかけになったんだろうなと思いますね。
前から折があれば書こうかなと思いながら書いていなかった東海ラジオの
ディレクターだった方のことを書いてみたいと思います。
高校時代、文化放送制作で全国ネットの番組だった「青春キャンパス」の
中部地方の東海ラジオのキャンパススタッフに選ばれたことによってローカル
パートの制作現場に週一で局に行くことになり、その後四か月の任期は切れた
ものの番組スタッフに気に入られて、半日で終わる学校のテスト期間で
あったり、春、夏、冬休みなどは局に出かけて遊んでもらったり、昼飯を
たかったりしていました。
そんなことをしていたら、高校生で面白くて、元気でラジオ愛がある人を
東海ラジオでオーディションで選んで、全国大会に出して、スターを作ろう
というようなことがあり、人が集まっていないし、君が向いていると思うから
いつも昼飯を食わせてあげているし、ちょっとした手助けをしてくれないと
軽く言われました。
まぁ、君を評価してのことだし、いい話だから出てくれないかという
ことで条件的には交通費を出すということと君の身近で能力を
知っている高校のクラスメートを出来れば二人用意して連れてきて、少し
話してほしいということで、あとは当日、私本人がアナウンサーを相手に
10分のテスト番組を作って審査するということで名古屋の東桜まで出かけ
ました。
その時の担当ディレクターだったのが、どういうわけか尾崎豊さんの番組
「誰かのクラクション」を担当していた加藤与佐雄さんでした。
発信の場が欲しかった尾崎豊さんとじっくりと番組制作に向き合う加藤与佐雄
さんが作り、制約のある全国ネットではなくて、予算規模は少なく、ラジコ
プレミアムなどのない時代で放送範囲が中部地方に限られているものの
やりたいことができる番組を作って放送しました。
そして、その番組は東海ラジオのサービスエリアだけでなくて、雑音交じり
の放送を他のエリアの尾崎ファンもAM1332に合わせて聴いていました。
尾崎ファンのなかでは知られていたり、東海地方の音楽業界、放送の世界
では「超」のつく業界内有名人ということであるということ。そして、私の敬愛
するラジオパーソナリティのつボイノリオさんのデビュー間もない時期に
付き合いがあったということで少々、緊張しながら収録に臨んだことを
覚えています。
ライブ感を大事にしたいとか同一条件で審査したいということで生放送
想定の一発録りの収録を終えて、もっとこんなことを話せばよかったとか、
この話の流れなら、あのネタを突っ込んで置いたらよかったなどと結構、
後悔があるなかで加藤さんと少し話すことになり、私の話しぶりやネタの
運び方がつボイノリオさんに似ているということを言われてうれしかったり、
70年代のフォークシーンやら、レコードからCDの時代になって、ラジオ番組
がどうなるのか、コンサートはどんなことになるのかということを話していて、話の流れで尾崎豊さんのことになりました。
私は当時「FMレコパル」を読んでいたのですが、その中でコンサート批評を
しているコーナーがあり、色々なライブに出かけているDJやディレクターも
しているの方が尾崎豊のコンサートについて触れていました。
簡単に要約してしまうと、尾崎豊の表現者としてのパワーやエネルギーは
素晴らしいがライブでのバックバンドのとりわけリズムパートの技術が不満足というものでした。
では、より高い音楽性を目指すとなると、バンドのメンバーを入れ替えて、
生まれ持った才能を有していて、コンサートでの経験があるドラマーや
ベーシストを引っ張ってきたらいいのか、あるいは今のメンバーが実力を
上げることを待つべきなのかという二つの選択肢がある。
私もそれはそうだなと思っていて、短期間に演奏レベルを上げるということ
ならば、外部から演奏能力の高い人に加入してもらうのが最良だと思ったの
ですが、加藤さんから教えていただいた尾崎豊の考えというのは気心が知れ
た方、彼の思いや能力を理解してくれる人にそばにいて欲しい。それでいい
ものややりたい作品を作りたいというものでした。
まぁ、突き抜けた能力のある人や過剰なエネルギーやパワーを持っている人
とお付き合いするのは、職能や技術力だけでなくて、キャパシティの大きな
人間性だったり、ある意味主役になる人を前にしてイエスマンでないといけ
なかったということだったのでしょう。
それ故にで音楽技術の部分で厳しい声を受けるのは仕方ないということ
だったのか、あるいは尾崎豊がそこの部分を読んだり聞いたりして
一緒にやる時間のなかで上手くなってほしいと願っていたのかもしれません。
そのあたりは当時、話題作を作り世に出してきた伊丹十三監督がほぼ同
じ制作スタッフ、役者陣を揃えて監督の意図や狙いをわかって準備してくれ
たり、動いてくれる人で固めて作品を作っていたことと同質なのかなと
思いましたね。そして、足りない部分は彼が見ていたテレビや映画で見て
気になった人を採用して補う。伊集院光の外見を見て、彼こそはスーパーの
肉屋の若手社員に相応しいということで採用したということがありました。
(ただ、思っていたよりもその時期は彼は痩せていたので、監督が求める
体形になるまでのデブ待ちなんてことが起きたりしていましたが)
そんなラジオの話、音楽やライブの話、映画の話を収録後うだうだ楽しく
できてうれしかったのですね。おそらく加藤さんやその時のパートナーとなった
アナウンサーの方は私の会話や態度から何かをジャッジしていたのだと思います。
加藤さんに人前に出る人は元気であること、好きなジャンルに関して愛が
あったり、研究熱心で掘り下げたり、勉強することや何かを届けたいというような強い思いがある人が優れた表現者になるわけで、収録終わりに君とこうして
ご一緒して楽しかったんで、審査の結果、君を選択するならまた、楽しく何かを作りたいし、もし、選ばれなかってもこれも縁なのでいつかどこかでご一緒
できたらいいですねなどて言われて感激しましたね。握手して別れる時に
この手で尾崎豊はじめ色々なミュージシャンのコアな部分を言葉にして発信
している番組のテープを編集しているのかと思いました。
(今とは違って、まだこの頃はオープンリールテープ)
まぁ、こういう人だから、尾崎豊が信頼を持って共に番組を作る
ことができるのか。そして加藤さんのキャリアを通じて、高い能力の
ある人のラジオパーソナリティとして個性と色の濃い番組を創造できたのかな
という思いを抱きました。
当該のオーディションの結果は二位でして、後日電話がかかってきて、
ベストだと思った高校生が学校の規則や家族の反対があって、彼女の活動辞退
ということになったら、君にお願いすると思うとお話をいただいたのですが
その女性はクリアすべきことが何とかなったので、彼女がメディア界の大人の
企画したことをやっていくことになりました。
まぁ、当時の東海ラジオはアイドルの一人喋りのラジオ番組が結構あり
ました。主にその東京制作の番組を東海ラジオもネット受けしていたり、
スポンサーがついて放送するような編成になっていました。
そんなアイドルの番組が多い中で「人にどう見られるかより、自分が何を
するのかとか、どう思っているのかが大事で周りがおぜん立てしてくれて、
放送作家がキャラに合わせて書いてくれた原稿を破綻なく進行通り進める
アイドルの30分番組は嫌い」なんて言っていた私のことを面白がってくれる
人もそうでない人もいて、適材適所ということとか女子高生のほうがいいとか
周りのクラスメートの応援体制とか色々なファクターで結論がでました。
結果は残念でしたが、加藤与佐雄さんとご一緒できたことや褒めていただいた
ことは今も鮮やかに記憶に残っています。
お笑いライブ終わりで芸人さんとうだうだ話していたりして、楽しい
時間を過ごすというのはこの頃からの土壌だろうし、発信したいとか面白い
ことや素晴らしいことを届けたいという思いがインターネットの時代になって
こうしてブログを始めるきっかけになったんだろうなと思いますね。
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