私がマルコ・メランドリと最初に会ったのは98年の鈴鹿でした。
「日本はどう思う。」という私の問いに「色々な意味で文化が違いすぎる」
と答えていた彼ですが、その後、日本メーカーとの付き合いや彼の考えの
変化などもあって、特に来日時には寿司を好んで食べるようになっていました。
人間関係なので、近い距離の時もあれば離れている立場の年もあり、
私の立ち位置も彼の帰属集団も変わることもありました。

 ロリス・レッジャーニが才能を見出して、彼のライダー生活は進んで
行きました。その才能を125cc時代はマッシモ・マッテオーニのチームで
過ごし、15歳324日にダッチTTで優勝して、最年少優勝記録を挙げます。
その時に私は現場に居て、彼や彼のチームクルーやレッジャーニと
一緒になって喜んでいました。

 125ccでわずか1ポイント差で世界タイトルには届かなかった時に
quasi world champion(=ほとんど世界チャンピオン)というTシャツで
表彰台に登壇して、そのイタリア語の意味を知らなかったのか、意図的
に知ろうとしなかったのか、日本のメディアが彼のことをワールドチャンピオンになりそこねたのに、ワールドチャンピオンTシャツを着用するひどい
性格のものだと報道したこと。それが多くのイタリア語を知らない日本人の
ファンに伝わること、あるいは当時のチームのスポンサーがベネトンだった
のですが、ベネトンの会社の姿勢に対して嫌悪感を持っている人がそれを
仕掛けたのではないかという想像をしていて、それが私がこのブログを
始める一つのきっかけとなりました。

 その後、250ccクラスでアプリリアワークスで難しい2シーズンの後に
ついにワールドチャンピオンになります。

 MotoGPクラスにスタップアップしたもののグレシーニホンダ時代に
輝きを放ったものの、それ以外の年では浮き沈みが激しいシーズンを
送ったり、カワサキの撤退に伴い、開発がきわめて限定的であった
ハヤテテーシングでのシーズンなど難しく、苦しいシーズンが多かった
彼がスーパーバイク世界選手権に転身して、再び彼の成績というのは
彼の能力が反映しているのではなくて、マシンパッケージによるもの
だということを示してくれました。

 その彼がチームやメーカーとの関係性という部分でうまくいかなかったのが
この二年のシーズンで今年はヤマハ系のチームとの契約がまとまりましたが
彼のライディングスタイルや好みに合わないということで浮上することが
できずに引退を発表しました。

 彼を見ていて思うのは、彼はいい人過ぎた。もう少し悪魔性があっても
良かったのではないか。それは私との関係性の中では楽しい時間を過ごす
ことができてうれしいことではあったのですが、ライダーとしての
強欲というものがあまり感じられなかった。そして、マシンがそれほど
調子が良くないときは余裕を持って走ることで限界走行をしなかった。

 まぁ、これはマシンの限界ぎりぎりの攻めた走りをしても優勝を
争えないという時に無理をして転んでしまったら意味がないという考えで
それ故に彼のライダー人生の中でひどいクラッシュやけががなかった
から、あの小さい体でずっとやってこれたということを意味するのですが
エンジニアやチームスタッフからの支持や信頼性という部分ではマイナスに
働くことにはなりました。

 まぁ、この辺りは彼はケビン・シュワンツやレジス・ラコニのような
タイプではなくて、ロリス・カピロッシやルカ・カダローラの思考と
方向性が同一でした。つまり、マシンが走らないときに無理して走ったり、
いいタイムが出ないのに気合いと技術でいいタイムを出したらエンジニアが
まずい部分がわからなくなるから、マシンセッティングで改良する部分が
わからなくなるし、エンジニアがいい調子だと錯覚する。それは良くない
と考えていたからマシンが悪い状態やマシンとサーキットの相性が悪い時
に無理して走ることがなく、それ故に転ぶことがなかったから、ライダー
生命が長くなったとも言えます。

 これからの彼がどんな活動をしていくのか、父親業を優先していく
のかわかりませんが、契約やいいパッケージを取るために政治的な動きを
したり、業界地勢図を利用するようなところがなくて、純粋に速く走りたい
という彼が第二の人生が楽しく豊かになることを願うばかりです。

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