金曜日のセッションが終了。パドック内をうろちょろしながら、
持ってきた本にサインを入れてもらおうと動いていて旧友に声をかけられる。

 立ち話をした後に私が今回お世話になっているAGVヘルメットのブースへと
移動して話をする。

 彼はヘルメットに関して大変興味があり、実際に色々と海外通販で買い付けたり各社、各メーカーのブランドに関して知識があり、使う側のユーザー目線、
買う立場でお金を使う心理、誰かに頼まれたり、自ら購入する時にカタログ
でわかる部分と実際に使ってみたり、お金を払う時の為替とか送料に関する
肌感覚を持っている人なので、話が深くて面白い。

 それを感じるのは私だけでなくて、AGVのマウリッツィオにしても
その感覚は有していて、彼の息子の使っていたであろうヘルメットの
レプリカの画像をスマホで表示して、これと同じものは何年まで使ってい
たのか、同じカラーリングなのか、レースに同じデザインで違うカラーリングの
ものを持ってきていたのかなど質問する。

 AGVヘルメットのブースに日本のレースの場合、ロッシのファンが
パドックパスを購入して入室するケースが多いが、ヘルメットメーカーの
人間が嬉しいのはロッシのシャツやキャップを身に着けている人よりも
実際にヘルメットを購入してくれたり、同じ会社の他のライダーのものや
ライダーレプリカでないものでも自社製品を買ってくれたり、興味を持って
くれる人であるのは当然なので、マウリッツィオも他のファンの場合だと
口にしないようなヘルメットの製造工程やデザイン、品質や使用感や民族的
な特性による帽体のサイズや骨格の違いに伴う修正後のフィット感であったり、
サーキットでの使用とバイカーが街乗りで使うヘルメットとの違いなど
を喜んで話してくれる。

 彼の場合、それに加えて少しではあるがイタリア語も話すので、その
あたりモノ作りの現場の人としては他のロッシファンでほぼ日本語のみで
自社製品を買ってくれているのか不透明な人との会話とは気持ちのオープン
加減が大きく違うなと思う。

 このことは私にもあって、レースが好きだから私と繋がりたいという
人からのコンタクトがあっても「レースが好きというよりロッシが好きな
だけな人」というのは心のドアをクローズすることがある。
私と親しいアンドレア・アントネッリがスーパースポート世界選手権での
レースでのアクシデントで生死がどうなるのかという時に友達申請して
きた人というのはレースが好きというより、特定のカテゴリーだけを見ていて
好きなライダーのレースを見る人なんだろうなと強く感じることがありました
が、レースというジャンルが好きという人とは話していて楽しいものが
あります。

 彼と別れてパドックを歩いていると見かけたのがカルロス・チェカ。
すぐに彼の掲載されているページにサインペンを差し込んで、彼に向って
「tanti auguri a te!」と歌い始める。久しぶりの再会である。

 他に何人かファンがいたが、この時期の誕生日であることを知らなかったり、
知っていても祝意の言葉を言わなかったり、緊張して言葉が出なかったり
する人が多かったみたいだが、私はいきなり歌い始めてしまうので、
かなり長い間あっていなくても、体は太ったが気持ち的な変化がなくて
スペイン語でも英語でもなくてイタリア語で会話をし始める。

 チェカ一家というのはレーシングファミリーで弟のダビデ・チェカ
はスプリントではチーム体制やマシンのこともあって、タイトルに届かなかった
が耐久に転向してからはリッターバイクとタイヤをいたわりながら高いレベル
で走ることやチームメイトとのセットアップのアジャストする能力などで
活躍して、今年の鈴鹿八耐で世界チャンピオンに輝いた。
このブログの読者の方はご存じかと思いますが、私は昨年と今年はイタリアの
サイトの特派員という立場で報道で出かけていたので、ダビデ・チェカの
タイトル獲得の現場にいたり、彼と言葉を交わすことが結構ありました。

 カルロス・チェカがスーパーバイク世界選手権で私と近いチームで
世界チャンピオンになり、ダビデ・チェカは私が長年親しくさせていた
だいているピレリタイヤのスタッフと共に開発を進めて、ライバルの
ダンロップ、急激に耐久での立ち位置を確立してきたブリヂストン、長年
の経験のあり勝ち味を知っているミシュランを相手にしてピレリタイヤを
用いて2018-2019シーズンを耐久の世界チャンピオンになった。
カルロスと直接会う機会は久しぶりでも共通の友人がいたり、弟のダビデと
鈴鹿で取材も兼ねて長く触れる機会があったりで、昔話と最近の話で
楽しい時間を過ごすことができたのはうれしかったですね。

 ペトロナスのピット裏に行くと、ヨハン・スティゲフェルトと会う。
彼とはライダー活動していた時期のチームアブルッツォで250のバイクを
走らせていた時代、ワールドスーパースポートでホンダのマシンで活動
していた時期など割に近い距離で接していたが、その後、チームマネージャー
としてスーパーバイク世界選手権での活動中に資金ショートを起こして
姿を消したものの、そこからMoto3のチームのマネージャーとして鮮やかな
復活を遂げて、今季はペトロナスヤマハでのマネージメントとして活躍
している。

 彼自身のチームの資金難ということでの活動停止とレースシーンからの
離脱というのは悲しいことではあったが、こうして人生の再スタートから
素晴らしいシーズンを送れているというのは一時期近い場所にいた私に
とってすごくうれしいことである。
(かつて、彼がスーパースポート世界選手権で走り始めた時期の記事は
こちらです。https://yasumarzo.diarynote.jp/200504280255090000/

 その後、ジーノ・ボルソイやダニーロ・ペトルッチと会う。
ボルソイと私は彼がヤマハの開発の止まっていたTZ125のバイクでグランプリ
に出てきてから話すようになったが、特に近くなったのは99年のチームカッパ
と彼が契約して、チームの登録出走台数の関係でレンタル移籍して
チームセンプルッチに所属していた時のことで、その時にチームのトラックを
運転していたのがペトルッチの親父であり、一見縁遠い関係に思えるボルソイ
とペトルッチと私yasumarzoとの距離は非常に近いものがあるので、
今は昔とはずいぶん立ち位置が変わったものの、会うとわいわいがやがやと
話し込む。 

 親しかったライダーが強力な戦闘力を持つチームのマネージャーに
なっていたり、父親に連れられてサーキットにやってきた子供が
ドゥカティのワークスライダーとなり、地元のムジェッロで初優勝
したりと居場所や肩書は違うがレースに対する愛とか情熱が出会ったり
再会する土壌を作ってくれることを実感する。また、彼らが私のイタリア語が
落ちていないことを褒めてくれるのは率直にうれしい。

 太ってしまったこととヨーロッパにいつ戻るのかを散々尋ねられた
金曜日のもてぎでした。 

コメント