2019年MotoGP日本グランプリどたばた日記その二。
2019年10月21日 スポーツ 例によって待ち合わせのホテルのロビーに入る通り道でアプリリアのスタッフ
と顔を合わせるが、そこにいたのが、アプリリアのスポーツ活動の責任者の
ロマーノ・アルベジアーノ。会いたいなと思っていながら会えなくてずいぶん
と久し振りの再会である。
マルコ・メランドリがアプリリアのスーパーバイクで走っていた時に
マレーシアに行き、ロマニョーロジャッポネーゼの私とラヴェンナ人との
ふざけた会話や近い関係性を見て面白がっていて、セパンでのレースで
見事なダブルウィンの後で表彰式では私がイタリア国歌を表彰台の前で歌って
いたのがとても印象に残っていたらしくて、頼みたいことがあったら、連絡したいと言われていた。しかし、その後連絡がなく、また彼も日本でのレースに
くることがなかったために久し振りの再会となった。
彼と挨拶してAGVとダイネーゼのスタッフの連中との待ち合わせのために
ホテルのロビーに向かうと前日同様いたのがドゥカティコルセの
ダビデ・タルドッツィ。週末の天気の話をするが雨が降ったら、金銭感覚が
非常にシビアになってきたアンドレア・ドヴィツィオーゾと安い値段で
高いコストパフォーマンスのダニーロ・ペトルッツィの二人の
レインマスターは速いのではないかなどと話す。
長い歴史のレース界で80年代以降は日本メーカーが強い時期があったけれ
ど、雨が降ってイタリアのメーカーが勝利することを見てきたわけで、
『ブタペストの奇跡』のグランプリのカジバ初、エディ・ローソン最後の
優勝であったり、ワールドスーパーバイクの『狂乱のフィリップアイランド』
のビモータがホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキの日本の四メーカーと
ドゥカティ、アプリリアがワークスチームを結成していながら、雨を味方に
して、難しいコンディションながらアンソニー・ゴバートというど天才
の信じられないマシンコントロールとレースマネージメントを発揮して
従業員50人の小さなメーカーが大きな勝利を奪った時のように雨が見方に
できることもあるわけで、空が泣いたら、あなた方は笑うのではないかと
いうとこの優秀なチームマネージャーは静かに微笑んでいました。
ただし、勝負師の彼なので冗談交じりでも何か感じることがあったのか、
口元は笑っていたが目は笑っていなかった。
(『ブタペストの奇跡』に関しては過去のブログをご覧ください。
https://yasumarzo.diarynote.jp/201507132146102404/
『狂乱のフィリップアイランド』に関してはこちらになります。
https://yasumarzo.diarynote.jp/201802201424434915/)
AGVとダイネーゼのスタッフと会うが、これが私を含めて四人での移動
ということになった。理由は単純で元ライダーのマウリッツィオ・ビターリ
の運転が荒い(本人の中ではグランプリで勝ったようなライダーなので
速度が速かったり、激しくコーナーリングしていて周りが危険に見えても
十分に安全に走っていると理解している。)ためでスタッフの二人は
ヘルメットメーカーとしてはライバル関係にあるノーランヘルメットのスタッフ
に乗せてもらって移動したという。まぁ、イタリア人のなかでは商売敵という
面もあるが、同時に同じ業界の仲間という意識が強いので、こういう時に
こんな呉越同舟や助け舟というのが存在します。
サーキットに到着。AGVの隣がアルパインスターの仮設オフィスですが、
そこにやってきたのがランディ・マモラ。今回持ってきた本にサインを入れて
もらう。写真は彼がグランプリで活動し始めた時期なので髪の毛はふさふさで
ヘルメットはアライでもAGVでもなくて、NOVAである。
レッドブルのホスピタリティでエスプレッソをいただきながら、Moto3で
走っているニッコロ・アントネッリの親父のイゴール・アントネッリと
うだうだ話す。彼としては息子の体調が今二つなので、三週連続開催
のレースで最初に無理して転んだりしたら3レース連続ノーポイントという
ようなことになりかねないので、できうる限りの最高のタイムと順位で
ここのレースをまとめて欲しいということである。
AGVのブースに戻ってきたところでルーチョ・チェッキネッロと会う。
彼は2000年までに一勝しているので持ってきた本にサインを入れてもらい、
記念にツーショットの写真を撮る。チームマネージャーとして色々な問題やら
思っていても話せないことが多いのだが、かつてのライダー時代の話をする
時はノーストレスで話すこととなる。冗談とかつての昔話で盛り上がる。
シャークヘルメットのブースに行って、ここのスタッフとうだうだ話す。
私が聞きたかったのはDORNAは極めて近い将来に年間22レースを考えて
いるということだが、そうなるとグランプリで22レース。ワールド
スーパーバイクが13ぐらいあり、これが増える可能性があり、世界耐久
選手権のレースがあり、国内選手権がある。そうなると本当にとんでもない
スケジュールになるわけで、いくらなんでも多すぎるということを口に
している。
私としてはメーカー関係者の方々の人的、物的、金銭的な負担も大変
だろうし、私が考えているのは小さなチームやビッグスポンサーがない
チームは今以上にスポンサー持参のライダーの優遇であったり、小額しか
持って来れないライダーはいわゆるパフォーマンス条項などを入れるのでは
ないか。また、持参金の額も上昇することになって、速いがスポンサー
を持って来れない、持参金がないというライダーが単純に走る能力は
あるが、今以上に相当困るのではないかということを話す。
その私の意見にほとんど納得しながら、合意していたが、これはここの
人たちだけでなくて、多くの業界関係者が感じていることだと思う。
チームフォワードのピットに行き、マウロ・ノッチョリと会う。
彼がイタリアを離れる前に彼とチームマネージャーに水戸北インターのあたりが
ひどいことになって、水戸からサーキットに行くのに、そこを避けない
といけないということやら、メカニックが来日の時に行きたがるホームセンター
のことやら情報を送っていて、それに関して御礼を言われる。
マックス・ビアッジと会い、彼のサインを本に入れてもらう。今回、この
本を持ってきたのは元ライダーと会いたいときに会っておかないといけない
ということが理由なのだが、これはマックス・ビアッジの親父のピエトロ・
ビアッジに関しても言えることで、しばらく会っていないなぁと思って
いるうちに永遠の別れとなってしまった。
彼と今シーズンの新しいチーム設立と参戦に関することや今後の予定に
関して話をする。AGVのマウリッツィオ・ビターリが引退したライダーが
ライディングスクールの先生という職業をすることが多い。しかし彼はお金を
稼ぐことができても、こちらが話すことがわからない人間は相手にしたくない
と言っていたが、マックス・ビアッジという人がマネージャーであり、指導者
という立場であるが、世界チャンピオンの感性や理解力や強い闘争心などを
説明しても伝わる部分と経験を重ねないと若いライダーが理解できない
ことがあるようだ。
ニコロ・ブレガと顔を合わせる。彼がここ日本にいるときに思うのは
彼が初めて見たレースというのは彼の父親のダビデ・ブレガがスーパースポート
世界選手権で戦っていた時に生後七ヶ月で両親と一緒にやってきた時のこと
であることやブレガファミリーと南海ショップに出かけたところ
レジ横にたまたまキックボードが売ってあった。
当時、ヨーロッパになくて、日本ではブームになっているので、試し乗り
してみたら、眠たそうだった彼が笑い出した時のことである。その彼が以前、
ここでポールポジションでありながら、決勝はだめだめな走りであったり、
やたらコーラばかり飲みたがったり、父親は三ヶ国語で母親は四ヶ国語
話せるのに彼はイタリア語のみだったり、何か走る才能はかなりあるのに、
才能を生かすための努力をしていないように思えてしまう。
ブレガと別れてから、AGVのブースに行くとイゴール・アントネッリ
とマウリッツィオ・ビターリが話している。ニコロ・アントネッリと
ルカ・ビターリが二世ライダーであり、似たような境遇ではあるが、
ライダーとしての記録はあまり芳しくなかったパパアントネッリだが
息子のニッコロ・アントネッリには能力を感じ、世界の頂上もいけるような
気がするのだが、世界グランプリは二勝して年間ランキングで4位までいき
イタリア選手権の125と250で二回づつタイトルを獲ったパパビターリだが
子供のルカ・ビターリは少なくとも今までは特筆する成績を残していない。
おまけにアプリリアで125ccに参戦していた年はもてぎとへレスのニ週
連続開催なのに水戸のレストランにパスポートを置き忘れるということを
しでかして、日本の小都市の小さなレストランなどはイタリア語も英語も
通じないわ、パスポート不携帯でイタリアに戻れなかったり、翌週のスペイン
のそれも西の端のジブラルタル海峡に近いへレスに行けないなんてことに
なると契約上、違約金の発生なんてこともあり得たわけで、私がいて、
レシートを出させて電話して話ができなかったら、あるいは店主がパスポート
のような重要度の高いものだと思わずに捨ててしまっていたらどえらいこと
になっていたのは間違いない。
元気が良すぎ、負けず嫌い、遊ぶのが好きというのを彼が五歳の時から
見ていてライダー向きだとは思うが、プロフェッショナルライダーとして
の欠けている部分を近い場所にいるから理解できています。その彼が遅咲きで
あることを父親であるマウリッツィオが理解ていて、パパマネージャーが
出来る限りのことをするのならいいが、早く次の進路を考えることも大事
ではないかとも思う。
母親はどう考えているかわからないが、父親としてはいい環境や体制を
作ってあげたいということなんだろう。アントネッリの来季はすでに発表に
なっているが、公式な発表はないがビターリの方は世界耐久選手権で
ストック1000クラスで走ることが決まっていて次戦のセパン八時間には
ルカ・スカッサのチームで走ることが確定しているが、イタリア選手権は
今のところ話がまとまっていないようだ。
何とか雨が降らず一日のセッションが終わった。雨になるとどうしても
ピット内や仮設オフィスにこもってしまうから、声が消したくてもできない
ケースが増えてしまうが今日に関しては雨予想だったが、何とか降らずに
全てのクラスがドライコンディションで行なわれて良かったと思う。
セッション終了後にもいろいろありましたが、長くなるので稿を改めて
この日の続編を書きます。
と顔を合わせるが、そこにいたのが、アプリリアのスポーツ活動の責任者の
ロマーノ・アルベジアーノ。会いたいなと思っていながら会えなくてずいぶん
と久し振りの再会である。
マルコ・メランドリがアプリリアのスーパーバイクで走っていた時に
マレーシアに行き、ロマニョーロジャッポネーゼの私とラヴェンナ人との
ふざけた会話や近い関係性を見て面白がっていて、セパンでのレースで
見事なダブルウィンの後で表彰式では私がイタリア国歌を表彰台の前で歌って
いたのがとても印象に残っていたらしくて、頼みたいことがあったら、連絡したいと言われていた。しかし、その後連絡がなく、また彼も日本でのレースに
くることがなかったために久し振りの再会となった。
彼と挨拶してAGVとダイネーゼのスタッフの連中との待ち合わせのために
ホテルのロビーに向かうと前日同様いたのがドゥカティコルセの
ダビデ・タルドッツィ。週末の天気の話をするが雨が降ったら、金銭感覚が
非常にシビアになってきたアンドレア・ドヴィツィオーゾと安い値段で
高いコストパフォーマンスのダニーロ・ペトルッツィの二人の
レインマスターは速いのではないかなどと話す。
長い歴史のレース界で80年代以降は日本メーカーが強い時期があったけれ
ど、雨が降ってイタリアのメーカーが勝利することを見てきたわけで、
『ブタペストの奇跡』のグランプリのカジバ初、エディ・ローソン最後の
優勝であったり、ワールドスーパーバイクの『狂乱のフィリップアイランド』
のビモータがホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキの日本の四メーカーと
ドゥカティ、アプリリアがワークスチームを結成していながら、雨を味方に
して、難しいコンディションながらアンソニー・ゴバートというど天才
の信じられないマシンコントロールとレースマネージメントを発揮して
従業員50人の小さなメーカーが大きな勝利を奪った時のように雨が見方に
できることもあるわけで、空が泣いたら、あなた方は笑うのではないかと
いうとこの優秀なチームマネージャーは静かに微笑んでいました。
ただし、勝負師の彼なので冗談交じりでも何か感じることがあったのか、
口元は笑っていたが目は笑っていなかった。
(『ブタペストの奇跡』に関しては過去のブログをご覧ください。
https://yasumarzo.diarynote.jp/201507132146102404/
『狂乱のフィリップアイランド』に関してはこちらになります。
https://yasumarzo.diarynote.jp/201802201424434915/)
AGVとダイネーゼのスタッフと会うが、これが私を含めて四人での移動
ということになった。理由は単純で元ライダーのマウリッツィオ・ビターリ
の運転が荒い(本人の中ではグランプリで勝ったようなライダーなので
速度が速かったり、激しくコーナーリングしていて周りが危険に見えても
十分に安全に走っていると理解している。)ためでスタッフの二人は
ヘルメットメーカーとしてはライバル関係にあるノーランヘルメットのスタッフ
に乗せてもらって移動したという。まぁ、イタリア人のなかでは商売敵という
面もあるが、同時に同じ業界の仲間という意識が強いので、こういう時に
こんな呉越同舟や助け舟というのが存在します。
サーキットに到着。AGVの隣がアルパインスターの仮設オフィスですが、
そこにやってきたのがランディ・マモラ。今回持ってきた本にサインを入れて
もらう。写真は彼がグランプリで活動し始めた時期なので髪の毛はふさふさで
ヘルメットはアライでもAGVでもなくて、NOVAである。
レッドブルのホスピタリティでエスプレッソをいただきながら、Moto3で
走っているニッコロ・アントネッリの親父のイゴール・アントネッリと
うだうだ話す。彼としては息子の体調が今二つなので、三週連続開催
のレースで最初に無理して転んだりしたら3レース連続ノーポイントという
ようなことになりかねないので、できうる限りの最高のタイムと順位で
ここのレースをまとめて欲しいということである。
AGVのブースに戻ってきたところでルーチョ・チェッキネッロと会う。
彼は2000年までに一勝しているので持ってきた本にサインを入れてもらい、
記念にツーショットの写真を撮る。チームマネージャーとして色々な問題やら
思っていても話せないことが多いのだが、かつてのライダー時代の話をする
時はノーストレスで話すこととなる。冗談とかつての昔話で盛り上がる。
シャークヘルメットのブースに行って、ここのスタッフとうだうだ話す。
私が聞きたかったのはDORNAは極めて近い将来に年間22レースを考えて
いるということだが、そうなるとグランプリで22レース。ワールド
スーパーバイクが13ぐらいあり、これが増える可能性があり、世界耐久
選手権のレースがあり、国内選手権がある。そうなると本当にとんでもない
スケジュールになるわけで、いくらなんでも多すぎるということを口に
している。
私としてはメーカー関係者の方々の人的、物的、金銭的な負担も大変
だろうし、私が考えているのは小さなチームやビッグスポンサーがない
チームは今以上にスポンサー持参のライダーの優遇であったり、小額しか
持って来れないライダーはいわゆるパフォーマンス条項などを入れるのでは
ないか。また、持参金の額も上昇することになって、速いがスポンサー
を持って来れない、持参金がないというライダーが単純に走る能力は
あるが、今以上に相当困るのではないかということを話す。
その私の意見にほとんど納得しながら、合意していたが、これはここの
人たちだけでなくて、多くの業界関係者が感じていることだと思う。
チームフォワードのピットに行き、マウロ・ノッチョリと会う。
彼がイタリアを離れる前に彼とチームマネージャーに水戸北インターのあたりが
ひどいことになって、水戸からサーキットに行くのに、そこを避けない
といけないということやら、メカニックが来日の時に行きたがるホームセンター
のことやら情報を送っていて、それに関して御礼を言われる。
マックス・ビアッジと会い、彼のサインを本に入れてもらう。今回、この
本を持ってきたのは元ライダーと会いたいときに会っておかないといけない
ということが理由なのだが、これはマックス・ビアッジの親父のピエトロ・
ビアッジに関しても言えることで、しばらく会っていないなぁと思って
いるうちに永遠の別れとなってしまった。
彼と今シーズンの新しいチーム設立と参戦に関することや今後の予定に
関して話をする。AGVのマウリッツィオ・ビターリが引退したライダーが
ライディングスクールの先生という職業をすることが多い。しかし彼はお金を
稼ぐことができても、こちらが話すことがわからない人間は相手にしたくない
と言っていたが、マックス・ビアッジという人がマネージャーであり、指導者
という立場であるが、世界チャンピオンの感性や理解力や強い闘争心などを
説明しても伝わる部分と経験を重ねないと若いライダーが理解できない
ことがあるようだ。
ニコロ・ブレガと顔を合わせる。彼がここ日本にいるときに思うのは
彼が初めて見たレースというのは彼の父親のダビデ・ブレガがスーパースポート
世界選手権で戦っていた時に生後七ヶ月で両親と一緒にやってきた時のこと
であることやブレガファミリーと南海ショップに出かけたところ
レジ横にたまたまキックボードが売ってあった。
当時、ヨーロッパになくて、日本ではブームになっているので、試し乗り
してみたら、眠たそうだった彼が笑い出した時のことである。その彼が以前、
ここでポールポジションでありながら、決勝はだめだめな走りであったり、
やたらコーラばかり飲みたがったり、父親は三ヶ国語で母親は四ヶ国語
話せるのに彼はイタリア語のみだったり、何か走る才能はかなりあるのに、
才能を生かすための努力をしていないように思えてしまう。
ブレガと別れてから、AGVのブースに行くとイゴール・アントネッリ
とマウリッツィオ・ビターリが話している。ニコロ・アントネッリと
ルカ・ビターリが二世ライダーであり、似たような境遇ではあるが、
ライダーとしての記録はあまり芳しくなかったパパアントネッリだが
息子のニッコロ・アントネッリには能力を感じ、世界の頂上もいけるような
気がするのだが、世界グランプリは二勝して年間ランキングで4位までいき
イタリア選手権の125と250で二回づつタイトルを獲ったパパビターリだが
子供のルカ・ビターリは少なくとも今までは特筆する成績を残していない。
おまけにアプリリアで125ccに参戦していた年はもてぎとへレスのニ週
連続開催なのに水戸のレストランにパスポートを置き忘れるということを
しでかして、日本の小都市の小さなレストランなどはイタリア語も英語も
通じないわ、パスポート不携帯でイタリアに戻れなかったり、翌週のスペイン
のそれも西の端のジブラルタル海峡に近いへレスに行けないなんてことに
なると契約上、違約金の発生なんてこともあり得たわけで、私がいて、
レシートを出させて電話して話ができなかったら、あるいは店主がパスポート
のような重要度の高いものだと思わずに捨ててしまっていたらどえらいこと
になっていたのは間違いない。
元気が良すぎ、負けず嫌い、遊ぶのが好きというのを彼が五歳の時から
見ていてライダー向きだとは思うが、プロフェッショナルライダーとして
の欠けている部分を近い場所にいるから理解できています。その彼が遅咲きで
あることを父親であるマウリッツィオが理解ていて、パパマネージャーが
出来る限りのことをするのならいいが、早く次の進路を考えることも大事
ではないかとも思う。
母親はどう考えているかわからないが、父親としてはいい環境や体制を
作ってあげたいということなんだろう。アントネッリの来季はすでに発表に
なっているが、公式な発表はないがビターリの方は世界耐久選手権で
ストック1000クラスで走ることが決まっていて次戦のセパン八時間には
ルカ・スカッサのチームで走ることが確定しているが、イタリア選手権は
今のところ話がまとまっていないようだ。
何とか雨が降らず一日のセッションが終わった。雨になるとどうしても
ピット内や仮設オフィスにこもってしまうから、声が消したくてもできない
ケースが増えてしまうが今日に関しては雨予想だったが、何とか降らずに
全てのクラスがドライコンディションで行なわれて良かったと思う。
セッション終了後にもいろいろありましたが、長くなるので稿を改めて
この日の続編を書きます。
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