2019年MotoGP日本グランプリどたばた日記その一。
 起床して待ち合わせ場所のホテルのロビーへと出かける。ソファーに座って
いたのはドゥカティのダビデ・タルドッツィとこのチームのメンバー。
ダビデは私を見るなり『yasuさん』と声を掛けてくれた。彼と先週の台風
のことと浜松、磐田といったあたりの状況を尋ねてきたのでできる限り
答える。メーカーは違うが、部品メーカーなどドゥカティと関係のあるところも
あるのだろう。かなり気にしている様子だった。

 私のことを知らなかった新しいドゥカティのメンバーが私のSOLINCOと
プリンスのラケットバッグを見てテニスをやるのかと尋ねてきた。
なかなかやれないが、テニスをやるし、テニスを見たり書いたりすることも
あり、イタリア人との関係性が深いこと、そして私とイタリアのテニス
ジャーナリストとの関係やかつて我が友ジョルジョ・スパルートに協力して
発表した錦織圭に関する記事を紹介したり、日本人との関係性はほぼないが
日本人の私がイタリア語を話すと特別なので私とイタリア人テニス関係者の
話などをする。まぁ、私のことを知らない人というのは私と初めて会った
時に驚くのですが、テニス関係のことを話すと彼の場合二度驚いていました。
http://www.blogquotidiani.net/tennis/indexa63d.html?p=1647

 そんな最中、AGVヘルメットとダイネーゼのスタッフがやってきて、朝食を一緒にしながら近況報告をする。

 彼らと一緒に車に乗り、サーキットに入る。木曜日のサーキットということで
まだ忙しさとお祭り気分と戦いが入り混じった独特の空気感にはなっていない。
そんななか、今回は『The Grand Prix Winners 1949-2000』という資料的
な価値がある重たい本を持参してきた。ライダーのサインをもらうことが
極めて少ない私だが、今回のもてぎでグランプリで2000年までのシーズンで
ウィナーになったことのあるのが今回の来場の目的でもある。

 私と親しかったドリアーノ・ロンボニの死亡事故、ラルフ・ヴァルドマンの
病死と近い距離感だったライダーが亡くなり、この本にサインをしてもらって
おけばよかったかなという思いが強くなり鈴鹿八耐の時に実家の本棚を整理
していて、もてぎに持っていくという思いが強くなった。名古屋から今住んで
いる松戸に持ってくることも今回こうやって持ち歩くのもしんどかったが
この本は本当に素晴らしいものだと思う。

 まずはAGVヘルメットのマウリッツィオ・ビターリにサインをお願いする。
83年の優勝した時の顔というのは当然のことながらとても若い。これに
サインをしてもらって、開いたままにしていたら、彼にヘルメットのケアを
してもらっているライダーが珍しいものを見ながら感嘆している。

 この重たい本を持って歩いていたら、青木三兄弟とお会いする。ウィナー
となった三兄弟のなかのお二人にサインをお願いすると、青木治親君は
『また、これはすごいものを持ってきましたね』と言われる。この本を
持っている人は日本ではかなり数が限られているし、この本を目にして
喜んでいた。

 しばらく歩くとイタリアのレーシングサイトのGPOneのパオロ・スカレーア
と顔を合わせる。近況を報告しながら、日本の観光業や外国人観光客の増大
などを話す。

 彼と長々話をした後にカルロ・ペルナットの親父さんに会う。私のこの
持っている本を見るとかなり興味を持っていた。そこに通りがかるレース関係者
などが『見てみろよ。この素晴らしい本を』と話していてベテランの業界
関係者と話すが、知っている人のほうが多い。さすがにこの本は業界的に
有名で所有している人も多いことを実感する。彼と最初に会ったのが1994年
でアプリリアの勝ち始めやら古い友人のことやら昔話に花が咲く。

 Moto3のピットのあたりに行くと、ヤクブ・コルンフェイルが私を見て
声を掛けてきた。先週の台風のこと、全日本選手権のこと、私の近況のこと
などを話す。今年は女子テニスの大会が東京ではなくて大阪になったり、
男子テニスの有明に行けなかったりで例年は9月に聞くことの多いチェコ語
を秋になってから彼の口から聞く。例によって三割のチェコ語と七割の英語で
会話する。

 どこにどのチームやメーカーの仮設オフィスがあるのか歩き回って
行きたい場所を何となく認識してAGVのオフィスに戻る前にレッドブルの
ホスピタリティを通りがかると昨年知り合ったレッドブル系のチームの
食事を出しているスタッフと顔を合わせる。ライダーやメカニックや
チームスタッフ以外にこうして久し振りの再会を喜びながら、歩き回って
疲れた体がレッドブルを求めていたので、一本いただく。

 チームフォワードに行くとここのチームのユニフォームを着ていたのが
ロベルト・ロカテッリ。昨年は彼はイタリアのテレビのSKYのコメンタリー
業というのが主な仕事だったので、チームの中で実務というのは久し振り
である。彼がいるもてぎというのは宇井陽一君と激しいバトルのタイトル争い
の年でここでワールドチャンピオンになったことが印象深い。

 私とは知り合ってなんだかんだ20年以上の付き合いで、昨年会えなかった
彼とこうして会えるのはうれしいものがある。特にしばらく会えなかった
ドリアーノ・ロンボニを失ったり、ラルフ・ヴァルドマンが亡くなったり、
マックス・ビアッジの親父のピエトロ・ビアッジと永遠のお別れをしてしまい、二度と会えなかった人たちがこの数年続いたためにこうしてお会いできる
のはうれしいものがある。

 ホンダLCRのピットの前を歩くとジャコモ・グイドッティと顔を合わせる。
彼は今年は中上貴晶のエンジニアとして働いているが、彼にこの日本人ライダー
に関する評価を聞く。ステーファノ・ぺルジーニ、フランコ・バッタイーニ、
トロイ・コーサー、芳賀紀行、レオン・ハスラム、ダニ・ペドロサといった
世界の列強と仕事をしてきた彼から見ての中上というライダーの実力を
聞く。逆に私は先日ブログで触れた彼のスポンサーに関する話などをする。
https://yasumarzo.diarynote.jp/201910160246364222/

 このあたりの出光の株価が一年前の半値になっていることやら出光と
昭和シェルとの合併後の新会社のことなどはホンダや出光の方々は口に
することがないというか、話題にならないようなので、彼にとっては貴重な
話だったようだ。まぁ、私が結果がチームやメーカーやスポンサーが求めている
レベルではないというか、もう少しいけるのではないかと思われている中で
スポンサーの株価が6300円ほどから3100円程度まで一年で激しく低下して
それでもなおビッグマネーを出してくれるというスポンサーは素晴らしい存在
であると思うが、払う立場の組織の株価が半分になったら、経営者も
投資家も大金とリターンが合わないということになるわけで来年は正念場
であると静かにうなづいていたのがジャコモ・グイドッティであった。

 ライダーであり、メカニックやエンジニアとして世界で戦っていた
ジャコモ・グイドッティであるが、昔から仲がいいのは、彼が知らないことや
普段目を向けてない視点の話をこうして時間が合った時に話すと喜んで
聞いたり、私としてはメカニック目線で素直なライダーの評価を聞けたりという
ことでお互いに知らないことを情報交換できていることが大きい。それは
私がステーファノ・ぺルジーニや彼の当時の彼女や両親を含めて仲が良かった
ころから変わらない。

 ジャコモと会った後に今度は弟のファブリッツィオ・グイドッティと
会う。グイドッティ兄弟に彼らの父親というのは昔も今も変わらずに
接してくれるのがうれしい。そこに前述のカルロ・ペルナットがやってきた。
昔も今も会えば必要なことを情報交換できる仲であるのがうれしい。
まぁ、彼らからするとメーカーの立場ではない私だからニュートラルな
意見をイタリア語で話せるというのが大きいのだろうが、私にとっては
日本のメディアで読めないことを大御所から事実関係を聞けるのは嬉しい。

 本を持っていて重たくなったのと歩き疲れたのだが、エミリオ・アルサモラ
と会う。

 近年はマルク・マルケスのマネージャーということで知られている彼で
あるが、125ccでワールドチャンピオンになった前後のことや彼が
チームマッテオーニで走っていて、レースウィークに顔を合わせてうだうだ
冗談を言い合っていた関係である。その彼に本にサインを入れてもらう。
彼にとってもこの本はとても印象深いのでどこでこの本は手に入るのか
尋ねられる。

 AGVの仮設オフィスに戻るとそこにやってきたのがエルベ・ポンシャラル。
昨年の今頃はヤマハとの別れの時期が近い中で迎えたシーズン後半のメーカー
のホストグランプリで長い付き合いの関係者で日本グランプリだけは来場
するという方々との会談などでかなり忙しかったようだが、今年はかなり
状況が異なる。昨年のような多忙さはないようだ。

 彼はライダーではなかったが、フォトグラファーだったモウリス・ビュラ
とは長い付き合いの友人であったから、この本のことは当然知っていて、
広告ページにオリビエ・ジャックや中野真矢君と一緒に移っている写真の
ことを見て、ホンダからヤマハへのスイッチや毎年参戦資金で脳みそから
汗がでることばかりだが、ヤマハで250ccのタイトルを獲った年の後半は
500ccクラスの挑戦を考えていた時はヤマハといい関係であったことに加えて
フィリップモーリス(チェスターフィールドブランド)もゴロワーズも
ウエストもかなりいい条件の話を持ってきて、色々な意味でいいシーズンオフ
だったということを思い出しながら話してくれた。

 当然のことながら、その広告ページにサインを入れてもらう。
彼にとっても、そんな会話や思い出話がうれしかったのか笑顔ばかりの
時間であった。

 モウリス・ビュラが亡くなって、ずいぶんになるが彼が私のフランス語を
褒めてくれたり、私が知らないがいいライダーのことを紹介してくれたり
したときのこと(私は99年のスーパーバイクのオーストリアラウンドで
ジョバンニ・ブセイのことを知った)があったり、思い出が尽きないが
映画監督が亡くなっても素晴らしい作品は残り、多くの映画ファンが世界中
で素晴らしいシーンや良質の脚本などを語り合うように彼が残してくれた
本を持ってきたことによって、楽しい時間が過ごせるというのは
天国でフォトグラファーとしてきっと喜んでくれていると思う。
(彼への追悼ブログはこちらhttps://yasumarzo.diarynote.jp/200509272231330000/

 彼が亡くなった後のグランプリで彼に対してレース前に黙祷があった時に
国際映像は違うサーキットの場所を映していたが、若いライダーや関係者
は知らなくても、ある年代以上の人たちは彼の業績や人柄を偲びながら
彼との永遠の別れを惜しみました。

その後、シャークヘルメットの連中と会ったり、nolanヘルメットのスタッフ
とうだうだ話して過ごしているところにこれまた長い付き合いのエルフオイル
のジャンジャック・ユトゥールが登場。長い付き合いで今年の鈴鹿八耐で
会えなかった人たちと会えて楽しい時間を過ごしました。

 モウリス・ビュラの残した偉大な写真集や作品の素晴らしさを感じたり、
再会を喜んだりした木曜日のもてぎでした。

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