この時期になるとヤロスラブ・フーレシュとの日々を思い出します。
彼が自ら命を絶ってもう14年なのか、まだ14年なのか、色々な思いが
よぎります。

 以前、チェコにいた時に強く感じたのは彼の高い知名度でした。

 レースを見ない、興味がないという人でもフーレシュの顔を見ればどんな
キャリアを送っていて、どういう名前なのかを知っている人がほとんどで
彼の活動に直接、間接的に関わっていけばスポンサード企業としてのメリット
の高さを感じることが多かったですね。

 ピアディーナを食べるのが好きでランブルスコワインを飲む私からすると
彼がイタルジェットというボローニャのメーカーでヨーロッパ選手権を
実戦テストを兼ねて戦いながらマシンを熟成させていき、いくつかの
世界選手権のレースを他のメーカーとの比較対象を求めてワイルドカード
参戦して、翌年戦ったシーズンは小さなメーカーの大きな挑戦を感じることが
あり、スーパーバイク世界選手権のビモータの『フィリップアイランドの奇跡』
のようなレースが生まれたらと希望を抱きながら、割に近い距離で見ていました。(あのレースの回顧ブログはこちら。http://yasumarzo.diarynote.jp/201602201001022720/)

 あの年のフーレシュのチームメイトとはタイム的にも成績的にもそれほど
差がありませんでした。イタルジェットの125のバイクを走らせていたのが
レオン・ハスラム。その後のライダー人生はチェコ人が不運に見舞われ、
イギリス人は実力のアップを果たしながら、世界タイトルを争い、チーム
体制に恵まれなかった時期からは国内選手権の中で一番レベルが高いと
考えられているイギリス選手権のトップライダーとして活躍しています。

 イタルジェットを離れてチームマッテオーニと契約してアプリリアのバイク
で戦った時期に彼には優勝するチャンスがありました。

 その中の一つが鈴鹿でのレース。残念ながら彼はチャンスを転倒という
形で終えてしまいました。
https://www.youtube.com/watch?v=bXuTDKJXG0M&t=634s
9:21ぐらいに私が彼とともにグリッドにいる姿が見られます)

 そして、ドニントンパークでトップグループで走っていながら最終コーナー
で転倒。またしても絶好のチャンスを逃し、その後、他のチームやカテゴリー
で走ることになりましたが、中段グループで走るのが精一杯でもがき苦しんで
いました。

 契約がまとまらずにどのカテゴリーで走ることになるのか。どこで彼の
走りを見ることができるのかと思っていたところで彼と彼のマネージャーの
アンディがまとめた話が世界耐久選手権でヤマハオーストリアでR1を走る
というもの。

 当時の彼の状況下で考えられる上で最良の話だなと思い、鈴鹿八耐で
会えることを楽しみにしていたのですが、ブルノのテストで転んで全治
三ヶ月の怪我。

 そして、その後入ってきたのは彼が自殺して、亡くなったという情報
でした。

 あれから14年というか、まだ14年というか判断するのは難しいのですが
彼とのいい思いでも悪い記憶も私の中に残っています。

 彼の存在がチェコのレーシングシーンに大きな影響を与えたのは間違い
ありません。

 彼がいなかったら、チェコからライダーが世界選手権に出てくるのも相当
難しかったと思いますし、チェコからチームが参戦するということも
困難を伴ったと思います。

 私がチェコ人のライダー、メカニック、チームスタッフといったレース
関係者といい関係性を有しているのは彼と生前いい関係を持っていたから
だと思います。

 人間関係ですから、近い時もあれば離れている時間もありましたが、私と
彼とが濃厚な時間を送ったのも事実です。

 チェコ人ライダー、ドイツ人マネージャー、日本人ブロガー兼通訳が
イタリア語でうだうだ話していた時のことをこの時期になると思い出します。

 彼の残していったものを思いながら、ビールを飲んで彼のことを振り返る
一日にしたいと思っています。 

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