イタリアのいないワールドカップ。
2018年6月6日 日常 私がイタリアに行って最初に思ったのは、この場所は国として一
まとまりがなくて、campanilismo(=郷土愛絶対主義)がナショナリズム
よりも圧倒的に強い。あるいはナショナリズムが通常は存在しないところ
であり、ワールドカップとオリンピックがないと一つの国家としての
まとまりを持ち得ないというものでした。
まぁ、その中央集権国家では感じられない強い郷土愛がイタリアにはあり、
文化、風習、料理、言語に強い地方色が感じられて、私にとっては素敵な
所だと思うのと同時にその郷土愛が我々のサッカーチームに注がれる。
そんな土壌がある中で、我々の町のサッカーチームと同じような言語を
使いながら、ある種外人であり、外的に思えるほかの町のチームとの戦いで
ある、セリエAの盛り上がりに繋がる。
そこに国営放送とベルルスコーニ系のチャンネルもあるが
ローカルチャンネルも根強く存在して、地方紙も多いところで、分厚く
放送するというのがイタリアのメディア状況なので、ワールドカップイヤー
でない時にナショナルチームの試合に対して、それほど関心が高まらないと
いうことになりますね。
本来ならイタリアが一つの国家としての意識を濃厚に感じて、イタリア国旗
が飾られるところが多くなり、普段歌わないイタリア国歌を歌うことが
多くなるワールドカップイヤーですが、イタリアが予選で敗退して、ロシア
に姿を見せない今年でイタリアに何をもたらすのかというと、内向きに
なりますね。
イタリアが当然のように本大会に出場するワールドカップイヤーは
政局が動くことは少ないか、なかったりするのですが、今年は大きな変化を
見せて、そこからイタリア国債のバリュー低下であったり、EU懐疑派が
支持率を伸ばしていて、国としてのまとまりを欠くような流れになって
いるのはイタリアのいないワールドカップイヤーだからという気がしますね。
まとまりがなくて、campanilismo(=郷土愛絶対主義)がナショナリズム
よりも圧倒的に強い。あるいはナショナリズムが通常は存在しないところ
であり、ワールドカップとオリンピックがないと一つの国家としての
まとまりを持ち得ないというものでした。
まぁ、その中央集権国家では感じられない強い郷土愛がイタリアにはあり、
文化、風習、料理、言語に強い地方色が感じられて、私にとっては素敵な
所だと思うのと同時にその郷土愛が我々のサッカーチームに注がれる。
そんな土壌がある中で、我々の町のサッカーチームと同じような言語を
使いながら、ある種外人であり、外的に思えるほかの町のチームとの戦いで
ある、セリエAの盛り上がりに繋がる。
そこに国営放送とベルルスコーニ系のチャンネルもあるが
ローカルチャンネルも根強く存在して、地方紙も多いところで、分厚く
放送するというのがイタリアのメディア状況なので、ワールドカップイヤー
でない時にナショナルチームの試合に対して、それほど関心が高まらないと
いうことになりますね。
本来ならイタリアが一つの国家としての意識を濃厚に感じて、イタリア国旗
が飾られるところが多くなり、普段歌わないイタリア国歌を歌うことが
多くなるワールドカップイヤーですが、イタリアが予選で敗退して、ロシア
に姿を見せない今年でイタリアに何をもたらすのかというと、内向きに
なりますね。
イタリアが当然のように本大会に出場するワールドカップイヤーは
政局が動くことは少ないか、なかったりするのですが、今年は大きな変化を
見せて、そこからイタリア国債のバリュー低下であったり、EU懐疑派が
支持率を伸ばしていて、国としてのまとまりを欠くような流れになって
いるのはイタリアのいないワールドカップイヤーだからという気がしますね。
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