いつかは書きたいと思っていたのが、レジス・ラコニのライダー人生のことであり、
その大きな分岐点となった1997年のことでした。あれから20年、記憶が薄れながらも
逆に思いが募ったりするなかで、書き残したいことが彼の輝いたシーズンのことでした。

初めてあったのが95年の鈴鹿でのこと。当時の共通の友人からフランス選手権を
制し、ヨーロッパ選手権でもチャンピオンとなって世界にやってきたキレた走りの
ルーキーがいると紹介されて初めて顔を合わせたのが最初でした。

 95年は彼が輝くことができず、翌96年の後半にプライベーターの中で目立つ走りを
したり、ダスティなサーキットで多くのライダーが手を焼くブラジルで勢いを感じさせる
ライディングを見せて、フランス人業界関係者の見立てが正しいことを証明することが
できた。

 そして、その彼がどのカテゴリーでどのマシンを走らせるのかというところで
与えられた環境の中で選んだ判断は500ccクラスでテクマスグランプリに所属して
ホンダV2という市販マシンでダンロップタイヤの供給を受けて戦うというものでした。

 プレシーズンテストを終えて、開幕戦のマレーシアのシャーラム。ツィスティな
サーキットでホンダの2気筒を走らせて、パワーの無さをコーナーリング性能と
彼の勇敢な走りで健闘を見せて、鈴鹿というロングストレートがあり、ハイスピード
コーナー、ロースピードコーナーがある非常にマシンのトータルの戦闘力が
必要とするサーキットにやって来ました。

 我が友エルベ・ポンシャラル(TECH3代表)と話していたところにやってきたのが
レジス・ラコニ。そこからしばらく話をすることができました。

 当時の記憶が薄らいでいることもありますが、はっきり覚えているのは、私の
フランス語は今よりも下手であり、当時のレジスはフランス語のみだったことですね。
今の我々を知っている人にはわかりづらいことかもしれません。
しかし、明快な真実は確実にあり、下手でもフランス人に必死になってフランス語で
話そうとするとレース業界関係者のフランス人は日本語が非常に特別な言語で
日本人がフランス語を話すのは相当大変なことという理解があるから、非常に
シンパシーを感じてくれるということ。そして、当時のレジス・ラコニはイタリア語も英語
も話せなかったということですね。

 テクマスグランプリという小さなチーム。しかし、イタリアの小さなチームのように
日本人の私にはまったく見たことも聞いたこともまい、国内市場だけがマーケティング
対象のイタリアの中小企業のロゴがステッカーが貼ってあるということではなく、
世界的な大企業がスポンサードしていてチームの規模は小さいが大変目立っている。
これはチームがかなり頑張って小さいながらも大きな予算を得たのだろうと思って
いたが、カラーリングも美しくて国際的な企業のスポンサードは確かに得ているが
獲得できた資金は見た目から感じるほどではなくて、少ない額であったということ。

 また、チームはここまで250ccをやってきて、500ccは初体験であること、ライダーも
このカテゴリーが初めてであり、経験不足は否めないこと。色々な意味で厳しい
戦いだったが、昨年の秋から春先まで話が進んでいく中で他のカテゴリーにスイッチ
するようなことはできない中で小さいチームの大きな挑戦が始まったわけで
チームの不沈は何よりもレジス・ラコニの走りにかかっていることと少数派である
ダンロップがミシュランに対して性能的にどれだけ近づくことができるかどうかが
鍵になっていることを理解する。

 世界の列強に限られた予算の小さなチームが市販マシンと少数派のタイヤで
このカテゴリーではルーキーとなるライダーが戦う。無謀な挑戦にも思えるが
レジス・ラコニというライダーならいいシーズンが送れるだろうという判断のもとで
参戦計画が進み、思ったほどではないが何とかシーズンを過ごせる予算を確保して
開幕のマレーシアを戦い、鈴鹿に乗り込んで来たという流れであった。

 春の温かい光を浴びながら木曜日の鈴鹿サーキットのパドックで彼とそんな
話をして、春先の変わりやすい鈴鹿山麓の天気をまともに感じた金曜日の
鈴鹿サーキット。

 レインコンディションが宣告された鈴鹿で世界のスターライダー達が走ることを止
めたり、天候の回復を待っている中で、日曜日が雨になったらマシンパワーや
チーム力が縮まるからビッグチャンスであり、その状況を臨みながら、マシンセット
アップとタイヤチョイスを考えながら、信じられない走りをしていたのが
テクマスグランプリで55番をつけていたレジス・ラコニでした。

 テレビモニターの先頭に彼の名前とタイムが表示され、そのタイムがどんどん
更新される。

 信じられない一方で彼の実力を知っている人からすると納得できるタイムと順位。
セッション開始30分以上経過しても彼はトップタイムでした。

 チームスタッフもダンロップのエンジニアも満足気に映像とタイムモニターを
見ながら過ごす一時間。

 残念ながらセッション後半に彼のタイムをファクトリーチームのワークスライダーが
抜いていき、彼の初日トップということにはならなかったのですが、5番手タイムで
予選初日を終えることになった。

 お祭り騒ぎのチームのピット。ある意味、ここから彼の出世街道は始まりました。

 ドライコンディションとなった土曜日。そして、日曜日。

 ロングストレートのある鈴鹿サーキットで彼は4気筒のバイクにパワーで劣勢になる
のは当然のことですが、高速コーナーのスピードと低速コーナーでの走りで負けること
なく堂々と戦いを挑みました。

 結果、スズキのピーター・ゴダードとモデナスのジャンミッシェル・バイルに先行
しての12位という結果。この結果は与えられたマシンとタイヤ、環境を考えると
非常に大健闘といっていい結果でした。

 しかし、レース後のラコニは『上手くいけば10位もあり得た。』と話してくれました。

 多くのライダー(とりわけ経験を積めば積むほど)マシンやタイヤ、チーム体制など
から考えられるタイムや順位が予想できて、この環境だったらこれぐらいのタイムや
順位に落ち着くだろうと思ってしまいがちなのですが、レジスは満足している
チームやダンロップのエンジニアとは違いさらにいい成績を望んでいました。

 世界選手権で走ることで満たされていない姿と雨のとんでもない速さ。
1997年の鈴鹿で私は彼のそんな姿を見ることができ、彼に対する興味を深めて
まいりました。

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