ケナン・ソフォーグルのスーパースポート世界選手権の五度目のワールドタイトル獲得を喜ぶ。
2016年10月24日 スポーツ イモラでタイトルを決めることができなかったケナン・ソフォーグルですが、
ヘレス・デ・ラ・フロンテラで五度目の世界選手権を決めました。時期が時期だけに
彼のキャリアの分岐点となったレースのことを思い出していました。
パスポートはトルコ。住んでいるのはドイツ。そういったこともあって、彼が世界格式
のレースの舞台に入ってきた時に彼はヤマハジャーマニーでR1というバイクで
ストック1000選手権で戦っていました。
ライダー本人の勢いもあり、マシンの戦闘力も高く、チームのレベルも他のチーム
よりも秀でていて、彼がストック1000選手権の主人公の一人になり、タイトルが手の
届くところで最終戦のフランスのマニクールに乗り込んで来ました。
予選も好調、他のチームのライダーは遥か後方であり、チームメイトのディディエ・
ファンケーミューレンもついていくのが精いっぱいという状況。もう、タイトルは彼の
手のひらにありました。
そして、最終戦の最終ラップ。彼はトップを快走して、残りは最終コーナーを
立ち上がってチェッカーを受けるだけでした。
しかし、その彼は最終コーナーをオーバースピードで入り、コースアウト。
転ぶことはなかったのですが、彼のすぐそばをチームメイトであり、ランキング二位
だったベルギー人が抜き去って行き、彼が優勝して、タイトルは彼のものに
なりました。
まぁ、この時に思ったのはディディエ・ファンケーミューレンにとってはとんでもない
棚ボタ。しかし、同時に思ったのは棚ボタはボタ餅が落ちてくる場所に適切な
準備をして、落ちてくるのを待って手を広げていなければ手に入れることはできない。
彼にとってタイトルは単なるラッキーではなくて、それまでの成績や走りなどを
見て十分に値するものだと理解していました。
鮮やかに勝者と敗者が別れた最終戦の表彰台。二位になり、タイトルをほぼ
確実にしながら失った彼にトルコ人の観客が国旗を投げたり、声をかけても
何も反応できなかったケナン・ソフォーグル。あの姿を私は現場で見ていましたが
これはひょっとしたら彼のキャリアの危機に直面したのではないかと思いました。
その彼が忘れられないレースのデータを読み、何度も映像を見たという話を
後に聞きました。
ヤマハジャーマニーでのストック1000選手権参戦という形からテン・カーテホンダ
でCBR600を走らせてスーパースポート世界選手権に出走。一年目の前半はかなり
苦しみましたが、同僚のセバスチャン・シャーペンティエから多くのことを学び、
後半はこのカテゴリーでもトップライダーの一人に成長し、翌年は前半から世界の
列強を蹴散らして、このクラスで初めてのワールドタイトルを獲得。タイトル決定の
イギリスのブランズハッチには多くのトルコ人が駆けつけ、世界選手権のレースで
あんなにトルコ国旗が振られる様子を世界中のレースファンが初めて見ました。
レースシーズンが終わり、ドイツからトルコに帰国した彼を出迎えたレースファンの
数や熱狂ぶりを見て、彼は感激で涙を流しました。
その後、浮き沈みがありましたが、ホンダでスーパースポート世界選手権の
タイトルを奪い、さらにカワサキでも昨年チャンピオンになり、そして、今年も
最後に苦しみましたが、チャンピオンを獲得した。
この時期にチャンピオンを獲得したから強く思うのですが、彼の五度目のタイトルの
全ての始まりはあの2004年の後悔しても後悔しきれないあの最終戦の最終ラップの
最終コーナーがあったからではないか。レース界では成功体験よりも失敗体験の
方が教科書になるのですが、彼があのレースのデータを解析して、映像を見まくって
同じミスは二度しない、こんな思いは一度だけでいいという彼の強い思いが走りに
繋がり、彼の求めるものをかつてはホンダやテン・カーテ、その後、カワサキや
バンニ・ロレンツィーニ。この二年はマヌエル・プチェッティが応えてきたから
成立したものでしょう。
彼のチャンピオン獲得を見て大きなミステイクやとんでもない失敗がライダーを
成長させたり、二度とつまらないミスをしない人、間違いから学ぶ人が世界チャンピオン
になるのだろうなと思い、あの2004年のマニクールの最終ラップの悲劇と今年の
ヘレス・デ・ラ・フロンテラの栄光と喜びに満ちた最終ラップが私の頭の中で
リフレインしています。
ヘレス・デ・ラ・フロンテラで五度目の世界選手権を決めました。時期が時期だけに
彼のキャリアの分岐点となったレースのことを思い出していました。
パスポートはトルコ。住んでいるのはドイツ。そういったこともあって、彼が世界格式
のレースの舞台に入ってきた時に彼はヤマハジャーマニーでR1というバイクで
ストック1000選手権で戦っていました。
ライダー本人の勢いもあり、マシンの戦闘力も高く、チームのレベルも他のチーム
よりも秀でていて、彼がストック1000選手権の主人公の一人になり、タイトルが手の
届くところで最終戦のフランスのマニクールに乗り込んで来ました。
予選も好調、他のチームのライダーは遥か後方であり、チームメイトのディディエ・
ファンケーミューレンもついていくのが精いっぱいという状況。もう、タイトルは彼の
手のひらにありました。
そして、最終戦の最終ラップ。彼はトップを快走して、残りは最終コーナーを
立ち上がってチェッカーを受けるだけでした。
しかし、その彼は最終コーナーをオーバースピードで入り、コースアウト。
転ぶことはなかったのですが、彼のすぐそばをチームメイトであり、ランキング二位
だったベルギー人が抜き去って行き、彼が優勝して、タイトルは彼のものに
なりました。
まぁ、この時に思ったのはディディエ・ファンケーミューレンにとってはとんでもない
棚ボタ。しかし、同時に思ったのは棚ボタはボタ餅が落ちてくる場所に適切な
準備をして、落ちてくるのを待って手を広げていなければ手に入れることはできない。
彼にとってタイトルは単なるラッキーではなくて、それまでの成績や走りなどを
見て十分に値するものだと理解していました。
鮮やかに勝者と敗者が別れた最終戦の表彰台。二位になり、タイトルをほぼ
確実にしながら失った彼にトルコ人の観客が国旗を投げたり、声をかけても
何も反応できなかったケナン・ソフォーグル。あの姿を私は現場で見ていましたが
これはひょっとしたら彼のキャリアの危機に直面したのではないかと思いました。
その彼が忘れられないレースのデータを読み、何度も映像を見たという話を
後に聞きました。
ヤマハジャーマニーでのストック1000選手権参戦という形からテン・カーテホンダ
でCBR600を走らせてスーパースポート世界選手権に出走。一年目の前半はかなり
苦しみましたが、同僚のセバスチャン・シャーペンティエから多くのことを学び、
後半はこのカテゴリーでもトップライダーの一人に成長し、翌年は前半から世界の
列強を蹴散らして、このクラスで初めてのワールドタイトルを獲得。タイトル決定の
イギリスのブランズハッチには多くのトルコ人が駆けつけ、世界選手権のレースで
あんなにトルコ国旗が振られる様子を世界中のレースファンが初めて見ました。
レースシーズンが終わり、ドイツからトルコに帰国した彼を出迎えたレースファンの
数や熱狂ぶりを見て、彼は感激で涙を流しました。
その後、浮き沈みがありましたが、ホンダでスーパースポート世界選手権の
タイトルを奪い、さらにカワサキでも昨年チャンピオンになり、そして、今年も
最後に苦しみましたが、チャンピオンを獲得した。
この時期にチャンピオンを獲得したから強く思うのですが、彼の五度目のタイトルの
全ての始まりはあの2004年の後悔しても後悔しきれないあの最終戦の最終ラップの
最終コーナーがあったからではないか。レース界では成功体験よりも失敗体験の
方が教科書になるのですが、彼があのレースのデータを解析して、映像を見まくって
同じミスは二度しない、こんな思いは一度だけでいいという彼の強い思いが走りに
繋がり、彼の求めるものをかつてはホンダやテン・カーテ、その後、カワサキや
バンニ・ロレンツィーニ。この二年はマヌエル・プチェッティが応えてきたから
成立したものでしょう。
彼のチャンピオン獲得を見て大きなミステイクやとんでもない失敗がライダーを
成長させたり、二度とつまらないミスをしない人、間違いから学ぶ人が世界チャンピオン
になるのだろうなと思い、あの2004年のマニクールの最終ラップの悲劇と今年の
ヘレス・デ・ラ・フロンテラの栄光と喜びに満ちた最終ラップが私の頭の中で
リフレインしています。
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