MotoGP日本グランプリどたばた日記その一
2014年10月10日 スポーツ 名古屋を深夜に出発して、5時半に東京駅近くのバス乗り場に到着。すぐに東京駅
まで出て、成田空港に向かう。
フランクフルト発のルフトハンザ航空は到着は朝八時ごろ。前後の時間帯に
ウィーン発のオーストリア航空があり、スイスインターナショナルも到着する。
かなり込み合っている成田空港である。
AGVヘルメットのマウリッツィオとダイネーゼのステーファノが到着。今回、木曜日到着
ということで、すでに来日している連中が多くて、あまり業界人を見かけない。まぁ、
ライダーブリーフィングというのがレースウィーク中の木曜日の16時ごろに行われる
ことが多いため、フライトのキャンセルや遅れなどが出てきたら大変なことになるの
だろうが、裏方でかなり仕事を済ませている連中は木曜日でもいいのだろう。
レンタカーに乗り込み、もてぎへと向かう。車中の話題というのは時節柄、先週の
F1の鈴鹿でのジュール・ビアンキのことになる。私は現場に行っていなかったし、
名古屋という言ってみれば地元であっても、FIAが出している情報以外はないの
わけで、中日新聞や中日スポーツでもイタリアのスポーツ紙でも入手できる話は
同じである。
二時間半ほどでもてぎに到着。最初に顔を合わせたのがオランダ人のフォトグラファー
のデビッド。国際電話に関する話をされて、お手伝いを快諾する。
その直後にダニーロ・ペトルッチの親父と顔を合わせる。彼とは99年のチームカッパ
アプリリア時代からの付き合いである。息子のダニーロ自体は来季からの二年の契約
がまとまり、プラマックドゥカティに移籍が決まったが、チームが特定のヘルメット
メーカーやライディングスーツのメーカーと契約していないため、日本のメーカー
関係者と交渉を持ちたい。その時の通訳を担当するのが他に誰もいないせいもあるが
私ということになるわけで、そのことについてうだうだ話す。
しばらくして、カルロ・ペルナット登場。まぁ、私がこんな風にパドックに入れるような
ことになったのも、私がビジネスホテルのフロントマン時代に花粉症から逃げるため
年末年始の出勤の代わりの休みをマレーシアグランプリ観戦に使い、この親父さん
と昔のクアラルンプールの空港で一緒になって、今よりはるかに下手だったイタリア語を
話し、ジャンミッシェル・バイル相手に片言のフランス語を使っていたからで、下手だから
話さないとか片言だから使わないという考えは成長を阻害するということから生まれた
つながりである。
お互いの立ち位置は変わったが、レースに関する思いや気持ちは同じであり、
マルコ・シモンチェッリの不在を悲しく思うのは変わらない。マルコ・シモンチェッリ
のロゴの入ったジャケットを着ている彼と日本のメディアに関して話しているところに
アンドレア・イアンノーネの父親が登場。チームアブルッツォ時代は払って乗るライダー
であり、彼も父親も母親も大変仕事をハードにしていたことを思い出す。
彼らと別れて歩いているとジョバンニ・ザマーニとパオロ・スカレーアとフランチェスコ・
グイドッティと顔を合わせる。話題は日本に台風が二週続けてくるのか、レースは
できるのかということから始まり、ドゥカティがここでどれだけ戦えるのか、日本の
ライダーでワイルドカード参戦する中須賀は速いのかなどという話である。
彼らと別れを告げて、親しいチームのパドックの位置や仮設オフィスの場所を
確認するために歩いていたところにダヴィデ・タルドッチと登場。私の好きなライダー
の一人にトロイ・ベイリスがいるのだが、彼の黄金時代とドゥカティの絶頂期というのは
ダヴィデの果たした役割は大きく、彼がドゥカティのロゴの入ったユニフォームで
パドックにいるというのはやはりうれしいものである。
私がバスで寝ている時間帯に私の携帯にSMSを送ってくれたABカーディオンの
マルティンにこちらからSMSを送ろうとするがどういうわけか送れないため、電話を
する。ピットの場所を教えてもらい、再会を喜ぶ。
何せ勉強するチャンスがないチェコ語である。名詞の格変化が七格ある言語
である。マレーシアで仕事をしていた時期にチェコ語を勉強したくてクアラルンプール
のチェコ大使館に思いをぶつけたら『このマレーシアにチェコ人は30人ほどしか
住んでいないからコミュニティがない。だからインターネットで勉強してくれ』と
突き放されてしまったが、インターネットでは上達しないような難しい言語がチェコ語
である。必死になって単語を探しながら話して、単語が出てこないときは英語で
話す私である。(私はドイツ語が話せないし、彼はイタリア語やフランス語が話せない)
まぁ、持っているものでこなすことばかりに慣れてしまうと何かをつかんだり、苦しみ
ながら強い押し出しで表現しようとか何かを掴み取ろうという努力をしなくなったりする
ので、こういうことを経験するのは私の脳みそが活性化されていいものだと思う。
その後、エルフ石油のジャックやジャーナリストのミッシェル・トゥルコと再会し、
今年の鈴鹿の八耐にランディ・ドゥピュニエが出場したときの話、彼の今後の
話などをしながら過ごし、マウリッツィオとステーファノの仕事の終了で車中の人と
なり、水戸へと移動。
さすがに疲れていてあまり移動したくないということでホテルの近くの駅ビルの
中の居酒屋でディナーである。魚を食べたいという二人と一緒に魚を多くメニュー
に入れている場所で食べるが、疲れていて食欲がないと言っていた二人であるが
メニューの写真の美しさを再び食欲を掻き立てるのだろう。ガツガツ食べていた。
さぁ、金曜日からいよいよ日本グランプリである。
まで出て、成田空港に向かう。
フランクフルト発のルフトハンザ航空は到着は朝八時ごろ。前後の時間帯に
ウィーン発のオーストリア航空があり、スイスインターナショナルも到着する。
かなり込み合っている成田空港である。
AGVヘルメットのマウリッツィオとダイネーゼのステーファノが到着。今回、木曜日到着
ということで、すでに来日している連中が多くて、あまり業界人を見かけない。まぁ、
ライダーブリーフィングというのがレースウィーク中の木曜日の16時ごろに行われる
ことが多いため、フライトのキャンセルや遅れなどが出てきたら大変なことになるの
だろうが、裏方でかなり仕事を済ませている連中は木曜日でもいいのだろう。
レンタカーに乗り込み、もてぎへと向かう。車中の話題というのは時節柄、先週の
F1の鈴鹿でのジュール・ビアンキのことになる。私は現場に行っていなかったし、
名古屋という言ってみれば地元であっても、FIAが出している情報以外はないの
わけで、中日新聞や中日スポーツでもイタリアのスポーツ紙でも入手できる話は
同じである。
二時間半ほどでもてぎに到着。最初に顔を合わせたのがオランダ人のフォトグラファー
のデビッド。国際電話に関する話をされて、お手伝いを快諾する。
その直後にダニーロ・ペトルッチの親父と顔を合わせる。彼とは99年のチームカッパ
アプリリア時代からの付き合いである。息子のダニーロ自体は来季からの二年の契約
がまとまり、プラマックドゥカティに移籍が決まったが、チームが特定のヘルメット
メーカーやライディングスーツのメーカーと契約していないため、日本のメーカー
関係者と交渉を持ちたい。その時の通訳を担当するのが他に誰もいないせいもあるが
私ということになるわけで、そのことについてうだうだ話す。
しばらくして、カルロ・ペルナット登場。まぁ、私がこんな風にパドックに入れるような
ことになったのも、私がビジネスホテルのフロントマン時代に花粉症から逃げるため
年末年始の出勤の代わりの休みをマレーシアグランプリ観戦に使い、この親父さん
と昔のクアラルンプールの空港で一緒になって、今よりはるかに下手だったイタリア語を
話し、ジャンミッシェル・バイル相手に片言のフランス語を使っていたからで、下手だから
話さないとか片言だから使わないという考えは成長を阻害するということから生まれた
つながりである。
お互いの立ち位置は変わったが、レースに関する思いや気持ちは同じであり、
マルコ・シモンチェッリの不在を悲しく思うのは変わらない。マルコ・シモンチェッリ
のロゴの入ったジャケットを着ている彼と日本のメディアに関して話しているところに
アンドレア・イアンノーネの父親が登場。チームアブルッツォ時代は払って乗るライダー
であり、彼も父親も母親も大変仕事をハードにしていたことを思い出す。
彼らと別れて歩いているとジョバンニ・ザマーニとパオロ・スカレーアとフランチェスコ・
グイドッティと顔を合わせる。話題は日本に台風が二週続けてくるのか、レースは
できるのかということから始まり、ドゥカティがここでどれだけ戦えるのか、日本の
ライダーでワイルドカード参戦する中須賀は速いのかなどという話である。
彼らと別れを告げて、親しいチームのパドックの位置や仮設オフィスの場所を
確認するために歩いていたところにダヴィデ・タルドッチと登場。私の好きなライダー
の一人にトロイ・ベイリスがいるのだが、彼の黄金時代とドゥカティの絶頂期というのは
ダヴィデの果たした役割は大きく、彼がドゥカティのロゴの入ったユニフォームで
パドックにいるというのはやはりうれしいものである。
私がバスで寝ている時間帯に私の携帯にSMSを送ってくれたABカーディオンの
マルティンにこちらからSMSを送ろうとするがどういうわけか送れないため、電話を
する。ピットの場所を教えてもらい、再会を喜ぶ。
何せ勉強するチャンスがないチェコ語である。名詞の格変化が七格ある言語
である。マレーシアで仕事をしていた時期にチェコ語を勉強したくてクアラルンプール
のチェコ大使館に思いをぶつけたら『このマレーシアにチェコ人は30人ほどしか
住んでいないからコミュニティがない。だからインターネットで勉強してくれ』と
突き放されてしまったが、インターネットでは上達しないような難しい言語がチェコ語
である。必死になって単語を探しながら話して、単語が出てこないときは英語で
話す私である。(私はドイツ語が話せないし、彼はイタリア語やフランス語が話せない)
まぁ、持っているものでこなすことばかりに慣れてしまうと何かをつかんだり、苦しみ
ながら強い押し出しで表現しようとか何かを掴み取ろうという努力をしなくなったりする
ので、こういうことを経験するのは私の脳みそが活性化されていいものだと思う。
その後、エルフ石油のジャックやジャーナリストのミッシェル・トゥルコと再会し、
今年の鈴鹿の八耐にランディ・ドゥピュニエが出場したときの話、彼の今後の
話などをしながら過ごし、マウリッツィオとステーファノの仕事の終了で車中の人と
なり、水戸へと移動。
さすがに疲れていてあまり移動したくないということでホテルの近くの駅ビルの
中の居酒屋でディナーである。魚を食べたいという二人と一緒に魚を多くメニュー
に入れている場所で食べるが、疲れていて食欲がないと言っていた二人であるが
メニューの写真の美しさを再び食欲を掻き立てるのだろう。ガツガツ食べていた。
さぁ、金曜日からいよいよ日本グランプリである。
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