イタリアという国ではF1の人気は高い。そして、あの国が特殊なのはほかの国では
自国のドライバーというものがテレビ視聴率やサーキットの観客動員数、スポンサーの
量とつながるのだが、イタリアという国においては話が異なってくることである。

 イタリアという国ではF1というものは90%がフェッラーリであり、残りの10%がイタリア人
ドライバーを意味する。

 このことに同意する人は多いのだが、イタリアのテレビ局のLa7のファブリッツィオ・
カリアはこれに異を唱えて、95%がスクーデリアであり、残りの5%がイタリア人ドライバー
であると言っていました。

 一般大衆やF1ファンにおいての認識はやはりフェッラーリがすべての始まりで
あるというものですね。

 そして、かつてのフェッラーリ。現在のフィアットはどうなのかというと彼らは自チーム
のことが重要であり、そのチームが勝つためにはドライバーの国籍には特にこだわらない
姿勢を貫いている。

 かつてのホンダと日本人ドライバーやメルセデスのヤングドライバー育成計画、
エルフ石油とフランス人ドライバーのスカラーシップというような若い自国のドライバー
を育てるというような姿勢というものはマラネッロには存在しないと考えていい。

 そうなると、イタリア人ドライバーはほかのチームでドライブするということになるが
今のF1はテストドライブすら相当のお金を持ってこないといけないわけで、かなり
難しいものがある。

 ヤルノ・トゥルーリがいなくなるとイタリア人がF1世界選手権からいなくなってしまう
ということになるが、イタリアのメディアや自動車産業も残念ではあるが、それよりも
フェッラーリの復活と反撃を願っているわけで、熱烈な運動やデモには発展しない。

 フィアットとイタリアのメディア、F1ファンというものの考えに物事は具現化するわけで
イタリア人ドライバーゼロというのはイタリアを覆っているフェッラーリ一極集中主義の
具体例だと思う私である。

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