スーパーバイク世界選手権のワールドチャンピオンになった
トロイ・ベイリスと私YASUが初めて会ったのが97年の
オーストラリア。立場や肩書きを変えながらサーキットという
磁場で同じ空気を吸い、色々なことを感じたり、話したり
していたこの十年のストーリー。

97年のオーストラリアGP。前の週のインドネシアで
転倒した沼田の代打でスズキの250cc急遽駆ることに
なったライダー。それがベイリスでした。

この年のオーストラリア選手権のSBKクラス二位という
成績のオージーはいきなりもらった話で準備などほとんど
ない中、卓越した才能と地の利をアドバンテージにして
予選で二列目をゲットするという好成績を収め。日曜の
午後でも世界の列強にひるむことなく攻撃的な走りを披露。
一気にオーストラリア国内だけでなく全世界の関係者と
レースファンの注目を浴びました。

一回のチャンスを活かして世界に行けるのではないか。
阿部や上田のように一気に世界への階段を駆け上がっていく
のではないかと思った人も多かったのでしょうが、彼には
欠けているものがありました。

メーカーとの強固な関係性とお金。そして、若さでした。

スズキのマシンでオーストラリア国内を走っていた当時の
彼でしたが、それほど浜松のメーカーとの間に強い結び
つきはなく、多くのライダーがお金持ちの子供で小さいころから
ミニバイクなどで走るような経済環境があったわけでもなく、
当時の彼はもう四捨五入すれば30でした。

いくつかの話が出てきては、お金やスポンサーのことが壁に
なり、つぶれていった彼に回ってきた話は98年シーズンを
ドゥカティでイギリスのSBKを走るという話でした。

国内選手権で高いレベルであり、各メーカーが人やモノを
かなりかけて戦うステージで彼は参戦二年目の99年に
タイトルを獲得します。

さぁ、いよいよ2000年シーズンは世界かと思っていた
彼にドゥカティ本社からもらったリクエストはアメリカで戦うというもの。

世界がだめならアメリカという場所でいい成績でお金と
名誉を得ようと彼がアメリカで戦う準備をしていた時に
起きたのが、当時のドゥカティのエースのフォガティの
事故でした。

アメリカに向いていた彼の体がボルゴパニガーレのドゥカティ
からの指令で日本で帝王の代打で走ることになりました。

しかし、この時のSUGOでのレースはミシュランタイヤの
マッチングがだめだめでひどい成績で終わりました。

彼の世界選手権での走りはこれでおしまいになってしまうのか
と思われていた頃、日本の後のイギリスでカダローラがこれまた
ファクトリーバイクでの走りとは思えない順位でレースを
終えました。

イタリアのバイクメーカーにとって重要なモンツァでの
レース。彼は再びファクトリーバイクを走らせるチャンスを
得ました。

このレースの木曜日に97年のオーストラリア以来の
再会を果たした我々。緊張感とやる気のミクスチャーが
彼の言葉と顔つきからひしひし伝わってきました。

この機会を逃したら、これから先どうなるのか、彼のレース人生
の中で重要なレースウィーク。彼は第一レース、第二レース
ともに四位という成績でドゥカティ首脳陣の信用を勝ち得ました。

二週間後のドイツのホッケンハイム。この時の我々の立ち位置
というのはドゥカティのファクトリーライダーとライバルチーム
の通訳ということでこのレースウィークを送りましたが、
彼はこの時に世界選手権での初優勝を奪いとりました。

悔しい反面、すごくうれしい気持ちだったのを覚えています。

そこからの彼はドゥカティのファクトリーライダーとして
メーカーやチームの期待に応える走りを見せて、翌年の
世界選手権参戦の契約を勝ち取りました。
(以降続く)

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