今年のMotoGPクラスを制して七度目のワールドタイトルを
獲得したイタリアを、そして世界を代表するバイクライダーで
あるヴァレンティーノ・ロッシ。その彼をある時は身近に、
そしてある時は遠い場所で見ていた私が思う彼のベスト
シーズンとは。

96年の鈴鹿。あどけない顔に独特のヘアスタイルの少年
がやってきました。彼の名前はヴァレンティーノ・ロッシ。
この世界選手権デビューシーズンでアプリリアの125CCの
バイクを走らせていた少年はまだ日本では無名の存在でした。
そして、ヨーロッパ諸国でも今のような人気者ではなかった
彼ですが、業界的な評価はものすごく高いものがあり、
彼の周りにはマウロ・ノッチョリ(当時の所属チームのチーフ
エンジニア)、ジャンピエロ・サッキ(同じくチームマネー
ジャー)、カルロ・ペルナット(アプリリアのレーシング
コーディネーター)がいました。

この面子が揃っているところにアプリリアのやる気と
高い期待度が伺えたのですが、今ほど忙しくもなく、
大きな額のビジネスをしていなかったので、普通に
私は話すことができましたね。

当時の私はイタリア語は今ほど話せなくて、コンジュンティーボ
やコンディツィオナーレを使えなかったレベルでしたが、
日本人の私がイタリア語を話すと喜んで相手をしてくれました。

そんな私がカメラを持って、写真撮影を頼んだ時に返ってきた
言葉というのは

『写真を撮るって私と一緒にか。それとも父と一緒にか。』と
いうものでした。

そう96年という時代ではかつてライダーをやっていた
グラッツィアーノ・ロッシの子供が世界にやってきた
ヴァレンティーノ・ロッシという立ち位置でした。

今ではヴァレンティーノ・ロッシの親父がかつてライダーを
やっていたグラッツィアーノ・ロッシであると認知度になって
いますが、当時はまだまだ写真を求めると、どっちと写真を
撮りたいんだとたずねるような状況でした。

そんな彼の他のライダーとまったく違うラインを取る
走りに驚かされた一年を見た後、97年の春を迎えました。
彼にとって世界選手権二年目となりました。

アプリリアからのサポートは分厚くなり、マシンのカラーリング
も変更。そして、私の知っているメカニックが軍団を組んで
迎えた97年シーズン。

ライバルは何人かいましたが、最大のライバルはホンダの
マシンを駆る上田昇でした。

メーカーからの期待とサポートを受けて走る若きイタリア人と
シーズン前のごたごたから色々お金や人、モノを持ち込んで
走る日本人。

まったく対照的な二人が素晴らしい戦いを世界のサーキットで
繰り広げた一年でした。

125という排気量で、あまりマシンの優劣が他のカテゴリー
に比べて大きくないクラスで、コンマ一秒でも速く走る
ために頭と体を使う二人。

若さとベテランの戦いであり、お互いの持っているモノが
違う中で激しいバトルを繰り広げた彼らは勝つために必要な
ものを求め、使い、走り、ゴールを目指しました。

メーカーやマテリアルが違う中で、ライバルより速く早く走ろう
と考える中で、五感が研ぎ澄まされ、理解力が大きくなり、
認知力が高まった。そして、欲が強くなり、野望が大きくなった
のではないか。

初めてヨーロッパでレースを見始めた私は今ほど忙しくなかった
ヴァレンティーノを見て、そう感じました。

この年、チェコのブルノでヴァレンティーノは初めての
世界タイトルを獲得しましたが、他のメーカーのマシンを
操り、素晴らしい走りをした上田昇との競り合いの中で
色々なものを学んだ気がします。そして、自分を倒すために
大変な努力と行動力と体力、知力を使った上田昇との間に
友情が芽生えました。

パドック内で聞いた話ですが、毎回のように優勝争いをして
チャンピオンを争った上田を翌年のアプリリアのエース
ライダーに推薦し、彼に世界王者になって欲しいとヴァレン
ティーノが進言したという話がありました。

かつてのF1が面白かった時はウィリアムズの乗るピケ、マンセル
とマクラーレンTAGポルシェのプロストとか、マクラーレン
ホンダのセナ対フェッラーリのプロスト、マクラーレン
メルセデスのハッキネン対フェッラーリのシューマッハーと
いうような違う道具やチームのライバルが道具の優劣を
どう同列に持っていくかとか、持っているアドバンテージを
どう武器にするのかなどといったものから派生する
ドライバーの頭脳戦があったり、ディスアドバンテージを
ひっくり返すための戦術があったり、パイロット自身の
研究や努力がさらに高いステージでのバトルに進化し、
それを見ている側が楽しむというところがありました。

おそらくヴァレンティーノ・ロッシというライダーは
素晴らしいライダーだと思うのですが、ここ三年に関して
考えるとライバル不在で、一人で自分が考え、作り、
搾り出したヤマハのマシンで一人旅をしているように
思えます。

となると、彼のライディングスキルをそのまま繰り出せる
マシンを開発すればいいだけで、それで優勝し、タイトルを
獲得できるとなると前述のような他のメーカーのマシンを
操る高いレベルのライダーとの対決がなく、頭脳戦や
戦術を駆使することも考えることもなくタイトル街道を
驀進することができる。

ひょっとしたらそのことがモチベーションの低下や他のカテ
ゴリーへの転向を考えるきっかけになってしまうのではないかと
思いますね。

97年のヴァレンティーノは上田をどう倒すか、
どうすれば速く走れるのか、どうやってタイムを縮めることが
できるのかをホンダのマシンを走らせる日本人を横目に
見ながら、エンジニアリングスタッフにタクトを振って
サーキットという舞台でオペラを上演していたように
思えます。そして、そのオペラは極上のライブ感と満足感が
あったものであり、演者の成長を生み出し、観客の興奮を
呼び、メーカーやスポンサーに満足感を与え、関わった
すべての人がエクスタシーを得たものだったと思います。

あの頃のヴァレンティーノは走るのが本当に楽しそうで、
面白さが伝わってきて、私のような一介の素浪人にも
色々なことを話してくれた。今ほど稼ぐことはできなかった
(それでも125のライダーなのに、お金を持ち込むことなく
最初から稼いで走っていた)が色々なモノを学び、理解し、
楽しんだ上で世界チャンピオンとなった。

ヴァレンティーノのベストシーズンは97年だったと
思う私です。

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