すでに様々なメディアで取り上げられているように
仰木彬氏がベッドの上での戦いを制することができず、
お亡くなりになりました。
一野球ファンでしかない私ですが、心より哀悼の意を
表します。
仰木彬氏の現役時代については、何も印象がない私ですが、
指導者としての彼の姿には様々な刺激を受けました。
プレイヤーを辞めて、コーチの立場として野球に関わり、
近鉄バッファローズの低迷から、内部昇格という形で
監督業をはじめたのが、彼の野球監督としてのキャリアの
始まりだと記憶しています。
この時は近鉄が最下位に沈んでいる時に近鉄のスタープレイヤー
に指揮を任せるのはまずいので、チームの土台作りのために
チーム事情に詳しい仰木氏を監督にして、登り調子になった
時にかつてリーグ優勝した時の近鉄のスタープレイヤーに
チームを任せようと親会社および球団フロントは考えたのでは
ないかと私は推察しました。
チームのことを理解している地味な実務者というのが彼に
関する印象でした。
しかし、この男は西武ライオンズ黄金時代で、前年最下位の
チームを率いて、見事な戦いをしていきます。
地味な実務者は実はとんでもない戦略家であり、政治家であり
(政治家の前にバルカンをつけてもいいかと思う)、野心家
であり、現実主義者の指導者でありました。
そして、強い西武ライオンズとすさまじいバトルを繰り広げ
あの伝説的な88年の10・19の川崎球場のダブルヘッダー
が生まれました。
惜しくも引き分けでリーグ優勝を逃した翌年。今度は
西武、オリックス、近鉄の三つ巴の争いとなり、西武球場での
ダブルヘッダー二試合をブライアントの一試合三発。
吉井のパーフェクトリリーフで先勝し、二試合目はいてまえ
打線の大爆発で制し、次のホームでの阿波野のベストピッチで
リーグ優勝を果たし、凄まじい長いスパンの大河ドラマの
敗者と勝者を経験しました。
その後、95年には阪神淡路大震災の傷跡が生々しい
神戸を本拠地とするオリックスブルーウェーブの監督として
被災地神戸にリーグ優勝をもたらした。
この年のシーズン前には日本シリーズはON対決待望論が
沸き立つ中、仰木のOと野村のNの日本シリーズを戦う。
さらにその翌年には再びリーグ優勝を果たし、待望にして
結果的には唯一の日本一を果たした。
彼のもとで鈴木一朗は一軍と二軍を行ったり来たりだった
イチローという名前で世に出て、日本を代表する選手から
メジャーリーガーへ。
野茂がプロ野球選手としての活動をスタートさせたのも
近鉄の仰木政権時代からであった。
私は通訳したり、こうして文章を書いたり、コーディネーター
業をすることもあれば、イタリア語を教えることもありますが、
指導者、教育者としてある意味参考にさせていただいている
のが仰木さんでした。
人いいところを伸ばす、チームがうまく機能するために
変化をためらわない。独創的であることがいいことで、
人にあった方法論を考える。
野茂の投げ方、イチローの打ち方に口を出さずに見守る、
結果がでるのを待つということの重要性や対戦相手やチーム
の状況に応じてオーダーや守備位置を大胆にシフトしてしまう
など、物事の進め方ややり方など、モノを教える立場に
立った時に参考になったことは多かったですね。
仰木マジックという言葉がありますが、実はマジシャンでは
なく、ものすごい戦略家、現実家にして研究家だったと
思います。
前年五位と最下位のチームからできた合併チームを率いると
いうのは大変な激務であったと思いますが、与えられたカードを
使ってプレーオフ争いをして四位でシーズンを終えた彼は
素晴らしい仕事をしたと思います。
まだまだ彼の姿を見たかった。進化し深化する彼の野球を
見たかったのですが、それはかなわぬこととなってしまいました。
仰木彬氏がベッドの上での戦いを制することができず、
お亡くなりになりました。
一野球ファンでしかない私ですが、心より哀悼の意を
表します。
仰木彬氏の現役時代については、何も印象がない私ですが、
指導者としての彼の姿には様々な刺激を受けました。
プレイヤーを辞めて、コーチの立場として野球に関わり、
近鉄バッファローズの低迷から、内部昇格という形で
監督業をはじめたのが、彼の野球監督としてのキャリアの
始まりだと記憶しています。
この時は近鉄が最下位に沈んでいる時に近鉄のスタープレイヤー
に指揮を任せるのはまずいので、チームの土台作りのために
チーム事情に詳しい仰木氏を監督にして、登り調子になった
時にかつてリーグ優勝した時の近鉄のスタープレイヤーに
チームを任せようと親会社および球団フロントは考えたのでは
ないかと私は推察しました。
チームのことを理解している地味な実務者というのが彼に
関する印象でした。
しかし、この男は西武ライオンズ黄金時代で、前年最下位の
チームを率いて、見事な戦いをしていきます。
地味な実務者は実はとんでもない戦略家であり、政治家であり
(政治家の前にバルカンをつけてもいいかと思う)、野心家
であり、現実主義者の指導者でありました。
そして、強い西武ライオンズとすさまじいバトルを繰り広げ
あの伝説的な88年の10・19の川崎球場のダブルヘッダー
が生まれました。
惜しくも引き分けでリーグ優勝を逃した翌年。今度は
西武、オリックス、近鉄の三つ巴の争いとなり、西武球場での
ダブルヘッダー二試合をブライアントの一試合三発。
吉井のパーフェクトリリーフで先勝し、二試合目はいてまえ
打線の大爆発で制し、次のホームでの阿波野のベストピッチで
リーグ優勝を果たし、凄まじい長いスパンの大河ドラマの
敗者と勝者を経験しました。
その後、95年には阪神淡路大震災の傷跡が生々しい
神戸を本拠地とするオリックスブルーウェーブの監督として
被災地神戸にリーグ優勝をもたらした。
この年のシーズン前には日本シリーズはON対決待望論が
沸き立つ中、仰木のOと野村のNの日本シリーズを戦う。
さらにその翌年には再びリーグ優勝を果たし、待望にして
結果的には唯一の日本一を果たした。
彼のもとで鈴木一朗は一軍と二軍を行ったり来たりだった
イチローという名前で世に出て、日本を代表する選手から
メジャーリーガーへ。
野茂がプロ野球選手としての活動をスタートさせたのも
近鉄の仰木政権時代からであった。
私は通訳したり、こうして文章を書いたり、コーディネーター
業をすることもあれば、イタリア語を教えることもありますが、
指導者、教育者としてある意味参考にさせていただいている
のが仰木さんでした。
人いいところを伸ばす、チームがうまく機能するために
変化をためらわない。独創的であることがいいことで、
人にあった方法論を考える。
野茂の投げ方、イチローの打ち方に口を出さずに見守る、
結果がでるのを待つということの重要性や対戦相手やチーム
の状況に応じてオーダーや守備位置を大胆にシフトしてしまう
など、物事の進め方ややり方など、モノを教える立場に
立った時に参考になったことは多かったですね。
仰木マジックという言葉がありますが、実はマジシャンでは
なく、ものすごい戦略家、現実家にして研究家だったと
思います。
前年五位と最下位のチームからできた合併チームを率いると
いうのは大変な激務であったと思いますが、与えられたカードを
使ってプレーオフ争いをして四位でシーズンを終えた彼は
素晴らしい仕事をしたと思います。
まだまだ彼の姿を見たかった。進化し深化する彼の野球を
見たかったのですが、それはかなわぬこととなってしまいました。
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