加藤大治郎の鈴鹿の悲劇を思い出す。
2005年4月12日 スポーツ大治郎が亡くなってすぐに私の祖母が最期の時を迎えて、
つらい気持ちと忙しかった時期がありました。
先日、親戚が集まって三回忌を行い、あの時期のことを
思い起こしました。まぁ、このスケジュールになったのは
春休み期間中が出席者にとって何かと都合がいいわけで、我が家
の場合はこうなったのですが大治郎を失った加藤家の方々も同じ
ようなセレモニーを送るのか、共に働いたり戦ってきた人達は
どのような気持ちを有しているのかななどと考えたりしました。
250ccで世界チャンプになり、MotoGPクラスでも可能性を
感じさせてくれたライダーであり、ロッシに迫ることができる
才能を感じさせてくれたライダーですが、残念ながら鈴鹿の
シケインでライダー生命を終えてしまいました。
以前にも私はこのブログで触れたことがあるのですが、一番
ショックだったのは残念ながら命の重みの違いを感じたことですね。
あるいは年月によって救命医療の体制や動きに違いが出たこと
でしょうか。
かつて500CCクラスで走っていたプライベーターのイタリア人の
コラード・カタラーノというライダーがホッケンハイムという
ロングストレートと高速コーナー(とりわけオストカーブ)と
シケインを繋いだレイアウトのサーキットでとんでもない事故を
起こしました。
その時はすぐにセッションはストップし、救急車が事故現場に
乗りこみ、その時出来うる限りの処置をして、すぐに近隣の大都市
であるマンハイムにヘリコプターで直行し、緊急手術を受けました。
コスタ先生と彼のスタッフは初期段階でかなり危険な状態である
ことを悟り、彼の家族には最悪のケースも十分ありうることを
伝えながら時間との戦いに入り、イタリア人と現地のドイツの
医師、医療スタッフが懸命の努力をし、このイタリア人ライダーの
精神力と体力に望みを掛けて奇跡が起こることを願いました。
このイタリア人は最悪の状態をくぐり抜けて、障害は残った
ものの今も生存しています。
これは緊急医療で大きな要因である、時間との戦いを制することが
できて、転倒したポイントでできる限りのことを施すことができ、
そこからヘリコプターでマンハイムという大きな都市に移動して
その時に必要なこと、やらなければいけないことをできる限り
早くしたことで起きた奇跡的な復活劇でした。
ところが鈴鹿の時はどうだったでしょうか。
プライベーターのイタリア人が転んだ時には赤旗で他のライダー
の走行はすぐに止めさせました。世界チャンプの事故ポイントでは
赤旗は振られずにレースは続行されました。
カタラーノは彼の事故を起こした地点で救命医療を受けました。
大治郎は担架に乗せられただけでした。
ホッケンハイムではすぐにヘリコプターでマンハイムに運ばれ
ました。鈴鹿では後続車が通過したのを確認してから担架で
救急車に乗せられて、その後ヘリコプターで四日市に移動といる
経過をたどりました。
人が命を取りとめる上で時間というのは大切な要素です。
しかしながらあの時の鈴鹿ではレースが続行されて、そのことで
その時に一秒を争ってしなければいけないことをできない状況
になっていたような気がします。
日本という国は忙しいところで、物事の流れが早くて、物事が
風化するのが早いと思うのですが、忘れてはいけないものや
教訓とするべきことが過去の出来事に存在すると思います。
SBKのブランズハッチでの赤旗二回とか雨が降ってきたときの
2ヒート制、昨年のオランダのアッセンでのユーロスーパーストッ
クで残念ながら私が知っていたライダーが亡くなってしまいまし
たが、残された家族や関係者、スタッフなどもレースをストップして
医療関係者ができる限りのこと事故現場で行い、すぐに近隣の
大都市に搬送して救命活動にあたるのを目の当たりにするのと、
瀕死の状態なのにレースを続行して、後続のライダーが通りすぎて
から救急車に担架で運ばれるのでは思いが違って当然だと思います。
加藤大治郎が戦っていたMotoGPではなく、SBKの方がこういったこと
をしていて、MotoGPではドライレースで中途で雨が降ってきても
中断しない方向でスケジュールをこなそうとしている姿を見ている
と一体、安全性というものをどう考えているのか疑問ですね。
中国人が日系企業や大使館にしたことは誉められたことではない
のですが、怒る時や自分の気持ちを表わすことは大切だと思いま
すね。とりわけそれが人の生死に関わってくることの場合は。
4月のこの時期、レースの安全のこと、緊急医療に関することを
考えるようにしたいと思っています。それが私なりのあの事件に
対する考えです。以前書いたことと被っていることがありますが、
この四月という時期にリアルに思うことが今日書いたことです。
つらい気持ちと忙しかった時期がありました。
先日、親戚が集まって三回忌を行い、あの時期のことを
思い起こしました。まぁ、このスケジュールになったのは
春休み期間中が出席者にとって何かと都合がいいわけで、我が家
の場合はこうなったのですが大治郎を失った加藤家の方々も同じ
ようなセレモニーを送るのか、共に働いたり戦ってきた人達は
どのような気持ちを有しているのかななどと考えたりしました。
250ccで世界チャンプになり、MotoGPクラスでも可能性を
感じさせてくれたライダーであり、ロッシに迫ることができる
才能を感じさせてくれたライダーですが、残念ながら鈴鹿の
シケインでライダー生命を終えてしまいました。
以前にも私はこのブログで触れたことがあるのですが、一番
ショックだったのは残念ながら命の重みの違いを感じたことですね。
あるいは年月によって救命医療の体制や動きに違いが出たこと
でしょうか。
かつて500CCクラスで走っていたプライベーターのイタリア人の
コラード・カタラーノというライダーがホッケンハイムという
ロングストレートと高速コーナー(とりわけオストカーブ)と
シケインを繋いだレイアウトのサーキットでとんでもない事故を
起こしました。
その時はすぐにセッションはストップし、救急車が事故現場に
乗りこみ、その時出来うる限りの処置をして、すぐに近隣の大都市
であるマンハイムにヘリコプターで直行し、緊急手術を受けました。
コスタ先生と彼のスタッフは初期段階でかなり危険な状態である
ことを悟り、彼の家族には最悪のケースも十分ありうることを
伝えながら時間との戦いに入り、イタリア人と現地のドイツの
医師、医療スタッフが懸命の努力をし、このイタリア人ライダーの
精神力と体力に望みを掛けて奇跡が起こることを願いました。
このイタリア人は最悪の状態をくぐり抜けて、障害は残った
ものの今も生存しています。
これは緊急医療で大きな要因である、時間との戦いを制することが
できて、転倒したポイントでできる限りのことを施すことができ、
そこからヘリコプターでマンハイムという大きな都市に移動して
その時に必要なこと、やらなければいけないことをできる限り
早くしたことで起きた奇跡的な復活劇でした。
ところが鈴鹿の時はどうだったでしょうか。
プライベーターのイタリア人が転んだ時には赤旗で他のライダー
の走行はすぐに止めさせました。世界チャンプの事故ポイントでは
赤旗は振られずにレースは続行されました。
カタラーノは彼の事故を起こした地点で救命医療を受けました。
大治郎は担架に乗せられただけでした。
ホッケンハイムではすぐにヘリコプターでマンハイムに運ばれ
ました。鈴鹿では後続車が通過したのを確認してから担架で
救急車に乗せられて、その後ヘリコプターで四日市に移動といる
経過をたどりました。
人が命を取りとめる上で時間というのは大切な要素です。
しかしながらあの時の鈴鹿ではレースが続行されて、そのことで
その時に一秒を争ってしなければいけないことをできない状況
になっていたような気がします。
日本という国は忙しいところで、物事の流れが早くて、物事が
風化するのが早いと思うのですが、忘れてはいけないものや
教訓とするべきことが過去の出来事に存在すると思います。
SBKのブランズハッチでの赤旗二回とか雨が降ってきたときの
2ヒート制、昨年のオランダのアッセンでのユーロスーパーストッ
クで残念ながら私が知っていたライダーが亡くなってしまいまし
たが、残された家族や関係者、スタッフなどもレースをストップして
医療関係者ができる限りのこと事故現場で行い、すぐに近隣の
大都市に搬送して救命活動にあたるのを目の当たりにするのと、
瀕死の状態なのにレースを続行して、後続のライダーが通りすぎて
から救急車に担架で運ばれるのでは思いが違って当然だと思います。
加藤大治郎が戦っていたMotoGPではなく、SBKの方がこういったこと
をしていて、MotoGPではドライレースで中途で雨が降ってきても
中断しない方向でスケジュールをこなそうとしている姿を見ている
と一体、安全性というものをどう考えているのか疑問ですね。
中国人が日系企業や大使館にしたことは誉められたことではない
のですが、怒る時や自分の気持ちを表わすことは大切だと思いま
すね。とりわけそれが人の生死に関わってくることの場合は。
4月のこの時期、レースの安全のこと、緊急医療に関することを
考えるようにしたいと思っています。それが私なりのあの事件に
対する考えです。以前書いたことと被っていることがありますが、
この四月という時期にリアルに思うことが今日書いたことです。
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