前回に続いてアルノー・ヴァンサンのことを。
ただし、時は02年に移ります。

チームアスパーで初勝利を挙げた99年、二勝目を挙げた
2000年と順調に行くかに思えたが様々な要因が絡まり
尻すぼみに終わり、01年はホンダ系のチームで戦うも
雨のオランダとブラジルで目立った以外は見るべきところも
なく、シーズンオフは就職活動に明け暮れることとなりました。

イタルジェットやホンダ系、アプリリア系のチームと話し合いを
持つも、多くのチームがお金を持ちこめるライダーか若い
イタリア人やスペイン人を好み(これもスポンサー受けがいい
という理由なのですが)フランス人である彼はなかなか話が
まとまらず越年。開幕が近づいてきた二月にアプリリアを
使うイタリアのチームから「お金は払えない。用意できるのは
アプリリアのマシンとダンロップタイヤ、そして君のライディング
する機会だけ」と言ってくれた(つまり巨額の持参金やスポンサー
を求めなかった)チームで参戦できることとなりました。

再びデビューイヤーのような金銭的に苦しい状況になった
アルノーですが、何とかレースはできることになりました。

開幕の鈴鹿。レース序盤はシュティーブ・イェンクナーと
ヤロスラブ・フーレシュの激戦。しかし、イェンクナーが
緊急のピットインで脱落し、フーレシュの一人旅となったが
これがクラッシュして、リタイヤ。予選16番手の彼が雨の
コンディションで中盤から独走。終盤他のライダーに迫られた
ものの何とか振りきり2000年の南アフリカ以来の優勝と
なりました。

シーズン開幕前は失職の危機にあった彼にとっては信じられない
開幕戦でしたね。レース後、シャークヘルメットの仮設オフィス
でラコニとその時のラコニの彼女、シャークヘルメットの担当
者と共に寿司を食いながら喜びを分かち合った我々でした。

その後、南アフリカを制し、開幕ニ連勝。シーズン中盤に入って
も調子を落とすことなく、イギリス、ドイツと連勝し(125での
連勝記録というのはこの時以来ニレース連続優勝がいない)
ポルトガルも制し、日本にポイントリーダーで乗りこんで来ました。

タイトルはポッジャーリとの一騎打ち。タイトルの可能性が
高くなっているが彼は「最後までレースもシーズンもわからない。」

彼が80年代のシーズンの80ccクラスの最終戦の最終ラップの
最終コーナーで転んでタイトルをさらわれたライダーのことを
知っているのか聞きませんでしたが、慎重な彼の性格が
出たような答えでした。一方ライバルのポッジャーリはとにかく
勝つだけというディフェンディングチャンプでありながら
挑戦者のような話ぶりでした。

そんなアルノーはもてぎで優勝できるように思えながらマシントラ
ブルによって、残り二周で優勝争いからなだめるようにゴールし、
ポッジャーリを引き離すどころか接近を許しました。

その翌週のマレーシアではポッジャーリが転んで、後方に沈んだ
にも関わらず、トップ集団がゴールする前にチェッカードフラッグ
が振られて、ルール上、最終周の前の周のゴールライン通過時
が正式裁定となる不運で、勝ったアルノーですがポイント差を
広げることができず、オーストラリアではマシンが直線で伸びを
欠き四位が精一杯。タイトルは最終戦のスペインのヴァレンシア
に持ち越されました。

シーズン前は失業を覚悟したノーギャラで走る苦労人のフランス人
か、ディフェンディングチャンプで結構なお金をもらい、メーカー
から直接サポートを受けるサンマリノ人の王座防衛なるか、
全てはリカルドトルモサーキットで決まります。

雨が得意な両者に与えられた舞台は晴れあがったヴァレンシア。
プレッシャーがある中、アルノーは予選トップ。そして、スタート
直前からプレッシャーが抜け、不思議と晴れやかな気持ちで
走ることができた彼はトップ争いを展開。その一方、今一つ
マシンセッティングがしっくりこなかったらしいポッジャーリは
無理して走っていて無理がたたったのか、レース中盤コースアウト。

これで楽になったアルノーは優勝することも可能だったが
終盤無理な競り合いをすることなく二位キープで2000年
オリヴィエ・ジャックが250ccを決めて以来のフランス人
世界チャンピオンとなりました。

彼の泣き顔、祝福するヴァンサン・フィリップやシャークヘル
メットのクルー(ウィニングランでフランス国旗にシャークの
ロゴが入っていましたね)私も知っているチームスタッフを
見ていて私も涙が出てきました。私は残念ながら現場で見られ
なかったのですが、私もテレビで見ていて胸が熱くなりました。

あきらめが悪いことが美しいことを彼は私に教えてくれましたね。

なかなか地方選手権をやるにもお金がなくて、他のライダーの
ためにメカニックをやっていたこと。世界に来ても最初は
型落ちのマシンで弱小チームで走っていたこと。初優勝まで
遠かったこと。そして、失業の危機があり、走れることになった
もののノーギャラで走ることになったことなど、決して順風
ではなかった彼のレース人生ですが、人の苦しみや悲しみ、つらさ
しんどさを理解できる彼だからこそ、これほど感動を与えること
ができたのだと思います。

そんな彼がKTMとの話し合いに応じ、ゼッケン1で100万
ドルをもらって走ることになると知った時にようやく彼も
お金の面でも恵まれた状態で走れるなと思ったのですが、
そこから、しんどい日々が待っていました。

しかし、彼が決してあきらめることがないライダーだと信じて
います。昨年のシーズンでも雨のオランダの予選などでとんでもない
才能を見せてくれたように道具的にチームのレベル的に苦しく
とも光る瞬間を見せてくれること、そして決して希望の灯を
自ら消さないことを私は知っています。そんな彼は間違いなく
私の愛しのライダーであります。

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