我が愛しのライダー アルノー・ヴァンサン
2005年1月7日 スポーツ私の好きなライダーというのは何人かいますが、今回は
2002年の世界グランプリ125ccクラスチャンピオンの
アルノー・ヴァンサンについて書いてみようと思います。
私とアルノーとの初めての出会いは98年の鈴鹿でした。
前年のフランス選手権、ヨーロッパ選手権を好成績を
残し、世界の舞台にたどり着いた彼のことを実は私は
知りませんでした。
この年の開幕の舞台の鈴鹿サーキットに着き、当時の友人に
頼まれて白のTシャツにライダーのサインをできるだけ
入れてきて欲しいというリクエストに応えるためにTシャツと
マジックを持っていた時に目が合ったのがレジス・ラコニ
でした。彼の隣で話していたのが、私とは旧知の仲のウィリアム・
コスト。そして、見慣れない小柄な男がアルノーでした。
レジスやウィリアムにサインを頼むというのは何だか
気恥ずかしいものがありましたが、理由を話して、彼らに
サインをしてもらったら、この見慣れないフランス人も
サインをしてくれました。その時に彼がライダーであること
を知ったわけです。
まぁ、日本人がフランス語を話すというのは特別ですし、
レース業界のフランス人というのは日本人が外国語を話すこと
の大変さを知っているので、非常に印象に残ったようでした。
逆に彼から強い印象を受けたのは、その後、この98年のイタ
リアGPのムジェッロに行ったときのこと。彼は当時、
イタリアのAGVヘルメットを使っていたのですが、
よくこのイタリアヘルメットのレーシングサービスのテントに
やってきて、担当のマウリツィオ・ヴィターリ
(maurizio vitali。かつて125、250のライダー)にレース
のことやら、技術的なことを尋ねにやってくるのですが、これが
このフランス人はイタリア語を話していました。
これはちょっとしたサプライズでしたね。まぁ、私が
何でイタリア語を話せるのか聞いたところ、彼の口から
「イタリア語はこの業界では重要だし必要だと思うからね。」
という言葉が返ってきました。
また、彼は非常に勉強熱心でしたね。マウリツィオにムジェッロ
の走り方、攻略の方法などをイタリア語で聞いていたリ、
私に日本人や日本のメーカーと付き合う時にどうしたらいいのか
どういったことに留意した方がいいのかなども尋ねてきました。
ということでサイクルサウンズ誌において近藤氏が
02年の終わりに「フランス語しか話せない地味なフランス人」
などと書いていたのは大きな間違いです。私は彼のイタリア語
を98年にしんどい思いをして自腹をかなり切った時に
理解していました。パスが簡単に手に入って、会社の出張費で
サーキットに行ける状態でも物事を知ろうとしないとこんなミス
を犯し、さらに私が指摘しても直さないのは問題だと思います。
話がそれてしまいました。アルノーのことに戻ります。
アルノーのライダーしての資質に驚いたのがその年の
フランスGPの日曜日の朝の雨の中のウォームアップでした。
まさに雨に足元をすくわれるライダーが多いなか、この時の
アルノーと眞子君は特別でした。ウォームアップが終わり、
彼に祝福の言葉をかけると喜んでいましたね。そして、
雨は大好きだと話していました。
二年落ちのマシン。ダンロップのスタンダードタイヤ。
予算が厳しく、転んだらお金がかかって一大事という環境の
チーム。そんな中で時間があれば、速く走るために自分で
できることは全てやっているような印象を受けました。
そんな型落ちで特別ではないタイヤでありながら輝いて
みせたのがドイツのザクセンリンク。アルノーは予選こそ
よくなかったものの、周を重ねるに連れてどんどん順位を上げて、
レース終盤には何と三位を走行。そして、マルコ・メランドリの
転倒で大殊勲の二位。彼のキャリア初の表彰台となりました。
イタリアでこのレースをテレビで見ていたのですが、
これは私もうれしかったですね。道具を使うモータースポーツで
道具の良し悪しがかなり成績とリンクするこのスポーツで
二年落ちのバイクで何と二位。道具の重要性もあるが
マシン的にハンディを背負っていてもライダーの努力によって
好成績を収めることができることを見せてくれました。
シーズン当初はフランス人以外には知られていなかった彼が
関係者の間で評価を高めていく、それをリアルタイムで見ること
ができたのはうれしかったですね。私がイモラやバルセロナで
会った時も翌年のシーズンに向けた話し合いをし始めていたよ
うでした。
そんな彼の一年目のシーズンが終わり、彼はチームアスパーに
移籍となりました。かつて80cc、125ccクラスで世界タイトル
を獲ったホルへ・マルチネスが代表を務めるチームです。マシン
はアプリリア、タイヤはブリヂストン。アプリリアとの関係も
良好でエンジニアも本社レース部門からも来ていました。
勝てるチームに移った彼と再会したのは99年開幕戦の舞台。
マレーシアのセパンでした。
髪型を変えたアルノーと顔を合わせ、いつものように話して
いたところに見慣れないフランス人。アルノーがこのフランス人
を紹介してくれました。彼の名前はランディ・ドゥピュニエ。
この時から私はランディとも会えば話をするような仲になり
ました。
この時のマレーシア。アルノーはキャリア初となるポール
ポジションを得ました。タイムの出方もいい。自信を深めている
ようにも見えて、この週末、ようやく彼が初勝利を得るかと思い
ました。
翌日のレース。彼はトップグループで優勝争いをしていました。
チャンスがあるなという思いが強い願望になり、緊張感を
感じながらレースを見ていたところで目に入ってきたのが彼の
不可解な転倒でした。
最終コーナーでマシントラブルを感じさせないスピン。
とても残念でしたね。優勝は東君。二位がアルサモラ、三位に
スカルヴィーニ。再スタート後のアルノーは四位。
BSタイヤが1−3フィニッシュ。そして四位のアルノーという
開幕戦でした。
その翌週のもてぎ。予選一回目の彼は十位。その後、土曜、日曜
とずっと雨でウェットコンディションだったのですが、
フリー走行、二回目の予選、決勝朝のウォームアップと
全てトップタイム。白眉だったのが日曜の朝で、彼と2番手の
ライダーとのタイム差が1.6秒。これはもう半端でない
タイム。計時ミスじゃないかと思ったほどで雨の彼は手が
つけられないことを十二分に理解できました。
その、アルノー。一周目を慎重に走り、これから追い上げようと
したところで転倒。さらにもう再スタートして再び転倒。
勝てるレースを落としました。
次にやってきたチャンスがイタリアのムジェッロ。予選も
好調で、決勝も無駄のない走りでトップグループで走行し、
最終ラップで勝負に行けるかなと思ったところでハイサイド
しそうになり、勝てるレースを落としました。
その二週後のバルセロナ。彼はアルサモラとの競り合いに
なり、近づくが離されるという展開になったレースでスペイン人の
ミスにも助けられ初優勝を上げました。
何だか長かったというか、待ちくたびれたというか、初優勝の時
というのは特別な空気を感じるのですが、この時はすごくうれし
かったですね。表彰台の上で喜んでいるライダーとチームマネー
ジャー。彼らを見ているうちに涙が出てきました。
これ以降の話は時を改めて。早ければ明日にでも。
2002年の世界グランプリ125ccクラスチャンピオンの
アルノー・ヴァンサンについて書いてみようと思います。
私とアルノーとの初めての出会いは98年の鈴鹿でした。
前年のフランス選手権、ヨーロッパ選手権を好成績を
残し、世界の舞台にたどり着いた彼のことを実は私は
知りませんでした。
この年の開幕の舞台の鈴鹿サーキットに着き、当時の友人に
頼まれて白のTシャツにライダーのサインをできるだけ
入れてきて欲しいというリクエストに応えるためにTシャツと
マジックを持っていた時に目が合ったのがレジス・ラコニ
でした。彼の隣で話していたのが、私とは旧知の仲のウィリアム・
コスト。そして、見慣れない小柄な男がアルノーでした。
レジスやウィリアムにサインを頼むというのは何だか
気恥ずかしいものがありましたが、理由を話して、彼らに
サインをしてもらったら、この見慣れないフランス人も
サインをしてくれました。その時に彼がライダーであること
を知ったわけです。
まぁ、日本人がフランス語を話すというのは特別ですし、
レース業界のフランス人というのは日本人が外国語を話すこと
の大変さを知っているので、非常に印象に残ったようでした。
逆に彼から強い印象を受けたのは、その後、この98年のイタ
リアGPのムジェッロに行ったときのこと。彼は当時、
イタリアのAGVヘルメットを使っていたのですが、
よくこのイタリアヘルメットのレーシングサービスのテントに
やってきて、担当のマウリツィオ・ヴィターリ
(maurizio vitali。かつて125、250のライダー)にレース
のことやら、技術的なことを尋ねにやってくるのですが、これが
このフランス人はイタリア語を話していました。
これはちょっとしたサプライズでしたね。まぁ、私が
何でイタリア語を話せるのか聞いたところ、彼の口から
「イタリア語はこの業界では重要だし必要だと思うからね。」
という言葉が返ってきました。
また、彼は非常に勉強熱心でしたね。マウリツィオにムジェッロ
の走り方、攻略の方法などをイタリア語で聞いていたリ、
私に日本人や日本のメーカーと付き合う時にどうしたらいいのか
どういったことに留意した方がいいのかなども尋ねてきました。
ということでサイクルサウンズ誌において近藤氏が
02年の終わりに「フランス語しか話せない地味なフランス人」
などと書いていたのは大きな間違いです。私は彼のイタリア語
を98年にしんどい思いをして自腹をかなり切った時に
理解していました。パスが簡単に手に入って、会社の出張費で
サーキットに行ける状態でも物事を知ろうとしないとこんなミス
を犯し、さらに私が指摘しても直さないのは問題だと思います。
話がそれてしまいました。アルノーのことに戻ります。
アルノーのライダーしての資質に驚いたのがその年の
フランスGPの日曜日の朝の雨の中のウォームアップでした。
まさに雨に足元をすくわれるライダーが多いなか、この時の
アルノーと眞子君は特別でした。ウォームアップが終わり、
彼に祝福の言葉をかけると喜んでいましたね。そして、
雨は大好きだと話していました。
二年落ちのマシン。ダンロップのスタンダードタイヤ。
予算が厳しく、転んだらお金がかかって一大事という環境の
チーム。そんな中で時間があれば、速く走るために自分で
できることは全てやっているような印象を受けました。
そんな型落ちで特別ではないタイヤでありながら輝いて
みせたのがドイツのザクセンリンク。アルノーは予選こそ
よくなかったものの、周を重ねるに連れてどんどん順位を上げて、
レース終盤には何と三位を走行。そして、マルコ・メランドリの
転倒で大殊勲の二位。彼のキャリア初の表彰台となりました。
イタリアでこのレースをテレビで見ていたのですが、
これは私もうれしかったですね。道具を使うモータースポーツで
道具の良し悪しがかなり成績とリンクするこのスポーツで
二年落ちのバイクで何と二位。道具の重要性もあるが
マシン的にハンディを背負っていてもライダーの努力によって
好成績を収めることができることを見せてくれました。
シーズン当初はフランス人以外には知られていなかった彼が
関係者の間で評価を高めていく、それをリアルタイムで見ること
ができたのはうれしかったですね。私がイモラやバルセロナで
会った時も翌年のシーズンに向けた話し合いをし始めていたよ
うでした。
そんな彼の一年目のシーズンが終わり、彼はチームアスパーに
移籍となりました。かつて80cc、125ccクラスで世界タイトル
を獲ったホルへ・マルチネスが代表を務めるチームです。マシン
はアプリリア、タイヤはブリヂストン。アプリリアとの関係も
良好でエンジニアも本社レース部門からも来ていました。
勝てるチームに移った彼と再会したのは99年開幕戦の舞台。
マレーシアのセパンでした。
髪型を変えたアルノーと顔を合わせ、いつものように話して
いたところに見慣れないフランス人。アルノーがこのフランス人
を紹介してくれました。彼の名前はランディ・ドゥピュニエ。
この時から私はランディとも会えば話をするような仲になり
ました。
この時のマレーシア。アルノーはキャリア初となるポール
ポジションを得ました。タイムの出方もいい。自信を深めている
ようにも見えて、この週末、ようやく彼が初勝利を得るかと思い
ました。
翌日のレース。彼はトップグループで優勝争いをしていました。
チャンスがあるなという思いが強い願望になり、緊張感を
感じながらレースを見ていたところで目に入ってきたのが彼の
不可解な転倒でした。
最終コーナーでマシントラブルを感じさせないスピン。
とても残念でしたね。優勝は東君。二位がアルサモラ、三位に
スカルヴィーニ。再スタート後のアルノーは四位。
BSタイヤが1−3フィニッシュ。そして四位のアルノーという
開幕戦でした。
その翌週のもてぎ。予選一回目の彼は十位。その後、土曜、日曜
とずっと雨でウェットコンディションだったのですが、
フリー走行、二回目の予選、決勝朝のウォームアップと
全てトップタイム。白眉だったのが日曜の朝で、彼と2番手の
ライダーとのタイム差が1.6秒。これはもう半端でない
タイム。計時ミスじゃないかと思ったほどで雨の彼は手が
つけられないことを十二分に理解できました。
その、アルノー。一周目を慎重に走り、これから追い上げようと
したところで転倒。さらにもう再スタートして再び転倒。
勝てるレースを落としました。
次にやってきたチャンスがイタリアのムジェッロ。予選も
好調で、決勝も無駄のない走りでトップグループで走行し、
最終ラップで勝負に行けるかなと思ったところでハイサイド
しそうになり、勝てるレースを落としました。
その二週後のバルセロナ。彼はアルサモラとの競り合いに
なり、近づくが離されるという展開になったレースでスペイン人の
ミスにも助けられ初優勝を上げました。
何だか長かったというか、待ちくたびれたというか、初優勝の時
というのは特別な空気を感じるのですが、この時はすごくうれし
かったですね。表彰台の上で喜んでいるライダーとチームマネー
ジャー。彼らを見ているうちに涙が出てきました。
これ以降の話は時を改めて。早ければ明日にでも。
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