世界グランプリロードレースの125cc、250cc
クラスで戦っていたヤロスラブ・フーレシュが彼の
三十歳の誕生日に自殺をしました。
その後、私の願いはかなわず彼は病院で息を引き取り
ました。彼を追い詰めたものは何か、彼は何に苦しんで
いたのかを考えてみました。

私と彼とは97年に鈴鹿サーキットで初めて会いました。
チェコという国が私が好きなこと。彼がチェコ人である
こともあり、当初は英語で、その後はイタリア語で会えば
話をするような仲でした。

彼がイタルジェットというボローニャのスクーターメーカー
の開発および実戦ライダーとしてイタリア選手権や
ヨーロッパ選手権を戦ったのが99年。私はそのイタリア
選手権のレースが行われたウンブリアサーキットで会いました。
その時の彼というのはマシンの開発に喜びを感じ、メーカー
と直接仕事をすることに楽しんでいました。

その後、2000年にこのイタルジェットと共に
世界選手権に戻り戦いました。時に侮れない速さを見せて、
これから面白くなりそうだなと思わせたのですが、彼は彼の
考えるよりよい体制を求めてマッテオーニホンダに
移籍します。(チームスタッフは残留を希望し、一緒に
やりたがっていたのですが、結局は離れることに
なった。)

マッテオーニホンダというチームで01年125ccを戦った
後に同じチームに02年も残留するも、チームが
イタリアのアプリリアにマシンを変更し、マッテオーニ
アプリリアでの参戦という形になり開幕の鈴鹿サーキットに
やって来ました。

この時に私は彼に頼まれてスタート前のダミーグリッド上で
スポンサーのロゴの入ったウェアを着て、かさをさしてくれる
女性を探すように頼まれて、女友達を紹介し、彼と
彼のマネージャー、チームの代表のマッシモ・マッテオーニ、
チーフエンジニアと共に私と私の女友達がグリッド上で
スタート前に立っていました。当時の映像をお持ちの方は
何故イタリア色の強いチームにYasuと日本人がいるのか
不思議だったと思いますが、ことの次第はこんな理由から
でした。

そのレインコンディションで行われたレースはレース中盤から
彼はトップに立ち、彼のキャリア初優勝かと思わせたの
ですが、単独でクラッシュしてしまい、大きなチャンスを
逃してしまいました。
(でもってこの時に優勝したのが、優勝候補が転んで
チャンスを掴み取ったアルノー・ヴァンサンで、その後
彼はこの運を活かして、最終戦で世界チャンピオンとなった)

その後、彼は02年シーズン250ccに活動の場を変えて、
ドイツのチームでヤマハのマシンで走るも目立った成績を
収めることなくシーズンを終了しました。

03年シーズンの彼は同じヤマハクルツで参戦するも
シーズン途中、転倒による怪我で走るマシンを失います。

そこに救いの手を伸ばしたのがチェコのスポンサーで
成り立っているチームエリット。彼はホンダの250cc
のバイクを駆ることになりました。

もてぎで会った我々はいつものようにチェコ語で挨拶し、
イタリア語で会話していました。その時に交わしたのが
彼との最後の会話になるとは全く思わずに。

このチームエリットはチェコ人中心のスポンサー
及びチームでして、チェコでの知名度の高い
フーレシュを走らせることは偶発的な要因があった
とは言え喜んでいるようでした。

そんなこともあり、04年シーズン、彼は125ccクラス
の参戦をこのチームでするためにスポンサー周りをしたり、
様々な調整をしてきました。

ところが、この彼の希望というのは世界グランプリ
(MOTOGP)参戦に対して認可、許諾をIRTAによって
拒否されてしまいました。

問題となったのは彼の年齢でした。

IRTAとDORNAという団体はここ数年、MOTOGPのF1化を進めて
きました。そんな中、125,250、MOTOGPという
3クラスある中で125ccクラスというのを若年層
の登竜門的なクラスにしようというアイデアのもと
年齢制限を設けようと動いてきました。

私はこれに対して反対の立場をとっています。
世界選手権というのはあくまで世界ナンバーワンを
誰に決めるかということに対して、参戦に障壁を
求めるべきではないと思います。

来るもの拒まず去るもの追わずで入り口は広くして
エントリーしたい人間を受け入れ、そこで遅いライダーは
予選落ちしたり、決勝でも後ろの方を走るということで
実力を測る。それがあるべき姿だと思います。

ところがその参戦するというところで年齢という
モノサシで測られ若くないという理由でこのチェコ人の
参戦を拒否してしまいました。

これは個人的には間違っていると思うし、ある意味
人権を無視しているし、職業選択の自由を侵している
と思うのですが、許認可に関する権利を有している個人や
団体がライダーに参戦の認可を与えることがないので
フーレシュは違う可能性を探ることを余儀なくされました。

そこで彼はドイツ選手権のスーパーバイククラスを
カワサキで走る交渉を始めました。これは契約寸前まで
話が進みましたが、残念ながら本契約に至らず話が
流れてしまいました。

その後、彼は世界耐久選手権のオーストリアホンダチーム
と一緒に戦うことになり、私は鈴鹿の八耐で会えるなと
思い、ようやく彼の居場所が落ち着き、ほっとしました。

しかし、今度は彼がブルノで行われたテスト走行で転倒し、
全治三ヶ月の怪我をしてしまいました。

そして、しばらくして入ってきたニュースが彼が自殺をして
病院に運ばれたというものでした。

彼が病院に運ばれた時点で相当危険な状態であるというのは
いくつかのHPや報道で知りました。
彼の奇跡的な回復を願っていましたが、その私の願いは
かなわず、彼は天に召されました。

その時に思ったのは、今季のハードラックの数々というのは
一つの理由に集約できるものではないものの、少なくとも
MOTOGPの125ccクラスにエントリーが認められなかった
のが彼が死に至るまでの経過の導火線になったのではないか
というものでした。

歴史にもしをつけることは好きではないのですが、
彼がすんなり125ccクラスに参戦できていれば
活動の場を探すのに走り回る必要はなかったことでしょう。

ここ数年のMOTOGPというのはF1を目指す方向性が見えます。
そのことによっていいこともあったでしょう。
しかし、125クラスの年齢制限というアイデアが
一人のライダーの人生を狂わせた気がします。
その狂った先が彼の自殺に結びついた気がしてなりません。

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