私がサーキットの中に足を入れるようになって
一番早く打ち解けて仲良くなったライダーが彼、
ドリアーノ・ロンボニです。

今回は彼との出会いから書くことにします。

レースを単に客の立場として見に行っていた時期。
あるきっかけから当時のアプリリアのチームのスタッフ
からパスを出していただき、パドックの中に入る
ことができました。

当時の私のイタリア語というのは、コンジュンティーボ
もコンディツィオナーレも話せずにとりあえず現在形の
簡単な言葉だけが話せる状態だったのですが、業界の
人でイタリア人と見るや話し掛けていた私を面白がって
こうしてパスを出していただけることになりました。

その年の世界グランプリの250ccクラスは多くの日本人
が出走していて、鈴鹿の日本GPもあわや表彰台を日本人
ライダーが独占かと思えるようなレースでした。

それを最終ラップのシケインでオーバーテイクして三位に
入り阻んだのがドリアーノ・ロンボニでした。

人と人が出会うときに、初めて会ったのに何故だか昔から
の友達のように感じることがあったりしますが、まさに
私と彼とはそんな空気を感じました。

ぐだぐだ話をして、写真の撮影も快く応じてくれました。

その翌年はちょっとした手違いでパスが手に入らず、
再会は翌々年になりました。

彼はアプリリアの500ccで最高峰クラスへ参戦し、
私はそろそろ会社を辞めてイタリアに行きたいなと
思っていた時期のこと。その年の鈴鹿でコーナーリング
はいいが、エンジン性能の面では非力と評価されていた
アプリリアの二気筒で何と予選一列目をゲットした彼に
近づいて、祝福の言葉を口にして、翌日のレースを楽しみ
にしていました。

その後の彼ですが、アプリリアの500でいいところを
見せながらも転んだり、怪我から復帰して無理がたたって
再び手首を痛めたりということの繰り返しのシーズンと
なってしまいました。

今のようにネットが普及していない時代。情報はレース
専門誌とジャパンタイムズなどの外国語新聞、そして
丸善などの洋書売り場で目にする外国の雑誌ぐらいでした。

その記事を読んでいると、怪我が理由で引退するのでは
ないかというものが多く、とても心配になりました。

電話を掛けようかと思いながら「辞めることにした。」
と言われたら激励も何もないわけで、結局何の連絡も
取らずにオフシーズンを送りました。

翌年の鈴鹿、彼は怪我の回復が進まず、代役はグラミー二
でした。彼はヘレスからの復帰となりました。

私は会社を辞め、五月にヨーロッパへ。そしてオーストリア
に飛びました。

お世話になっているフランス人にパスを出していただき、
サーキットの中に、しばらく動き回っていたらスクーター
に乗ったドリアーノと会いました。鈴鹿で会っていないので
一年二ヶ月ぶりの再会です。

話し始めて5分ほどでいつもの空気感を感じましたね。
そこに当時ガールフレンドだったアリアーナもやって来て
何やかんやと話し込んでいるうちに寒かったのですが
気持ちは暖かくなってきました。

オーストリアの後、フランスで予選でいいところを見せるが
なかなか決勝ではうまくいかないことが多かったのですが
オランダの決勝。雨で二ヒート制になったレースで彼は
みせてくれました。

他の多くのライダーと違いタイヤでギャンブルをして
それを当てた彼はレース後半、他のライダーよりも
3秒以上も速いラップタイムを連発。そして最高峰クラス
で初の、そしてそれはアプリリアにとっても
初めての表彰台をゲットしました。

彼の苦しい時、怪我でつらい時期、引退ではないかと
ささやかれた時期にずっと一緒だったアリアーナが
表彰台の前で泣いていました。それを見ていて私も
胸が熱くなり涙がこぼれてきました。アプリリアの
カルロ・ペルナットは満面の笑みでべネツィアの
本社に携帯で電話していました。

私も表彰台の前に行き、アリアーナに祝福のキスをして
メカニックやダンロップのスタッフと共に喜びを
分かち合いました。私の涙はドリアーノがシャンパンで
吹き飛ばしてきれました。

我々のことを知らない人は何でイタリア人ライダーが
イタリア製のマシンで三位になって日本人が一緒に喜んで
いるのかわからなかったでしょうが、私たちには
強い友情が存在し、彼のキャリア初の500ccクラス
の表彰台で喜びが爆発しました。何とも美しく
うれしい瞬間でした。

その後の彼と私の付き合いや関係に関してはまた
書いてみたいと思います。

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