クロアチアのザグレブに行ったときの話しとその後
2004年11月3日 スポーツイタリアで勉強した後、ハンガリーのブタペストに温泉に
浸かりに行こうと思っていた私。
それだったら、それまで行ったことのないスロヴェニアと
クロアチアの方に行ってから、ハンガリーに入ろうかと
思い、鉄道で行きました。
スロヴェニアのリュブリアーナからクロアチアのザグレブに
入り、街中を歩いて驚きましたね。
大体ヨーロッパの町というのは、かなり一つのカラーというか
古い町並みだったり、新しく出来たビジネスエリアは新しい
高層ビルが立ち並ぶというようにはっきりと一つのカラーに
染まっているのですが、ここはばらばらでした。
(98年当時)
これはどう考えても、90年台前半のユーゴスラヴィアという
民族や宗教がばらばらで、そして経済の格差の激しい
バルカン半島の統一されていた国で、チトー亡き後、
血で血を争う内戦の影響であることは間違いないことでした。
古くからある建物の隣に立ち入り禁止の札がつけられて
さら地になってしまっているところ、(これは不発弾など
の処理がまだ済んでいないということだったようです。)
その隣が建て替えられて新しい建物になっている所と町
としての統一感が全くない町というのが私がクロアチア
の首都のザグレブに持った印象でした。
そんな国から出てきたテニスプレイヤーというのが
ゴーラン・イバニセビッチであり、その後、マリオ・
アンチッチでした。
世界の警察官を自認しながら、石油産出国でなく、
アメリカの経済利益とは無縁のバルカン半島に対して
ほとんど何もコミットしなかったアメリカ。
そのアメリカのデビスカップチームを地元に迎えて
ワールドグループの戦いを行い、アメリカチームを
ぶち破ったクロアチア。その勝利が決まったときに
会場は、そして、クロアチアでテレビで観戦していた
多くの家庭で、場所でとんでもない盛り上がりを
見せたようです。
プラハの春の翌年のアイスホッケー世界選手権で
決勝で当時のチェコスロバキアがソ連と戦い、
優勝した時にとんでもない大騒ぎになったことがあったと
聞きましたが、その時のようなことになったのかなと
いう印象を受けた私でした。
浸かりに行こうと思っていた私。
それだったら、それまで行ったことのないスロヴェニアと
クロアチアの方に行ってから、ハンガリーに入ろうかと
思い、鉄道で行きました。
スロヴェニアのリュブリアーナからクロアチアのザグレブに
入り、街中を歩いて驚きましたね。
大体ヨーロッパの町というのは、かなり一つのカラーというか
古い町並みだったり、新しく出来たビジネスエリアは新しい
高層ビルが立ち並ぶというようにはっきりと一つのカラーに
染まっているのですが、ここはばらばらでした。
(98年当時)
これはどう考えても、90年台前半のユーゴスラヴィアという
民族や宗教がばらばらで、そして経済の格差の激しい
バルカン半島の統一されていた国で、チトー亡き後、
血で血を争う内戦の影響であることは間違いないことでした。
古くからある建物の隣に立ち入り禁止の札がつけられて
さら地になってしまっているところ、(これは不発弾など
の処理がまだ済んでいないということだったようです。)
その隣が建て替えられて新しい建物になっている所と町
としての統一感が全くない町というのが私がクロアチア
の首都のザグレブに持った印象でした。
そんな国から出てきたテニスプレイヤーというのが
ゴーラン・イバニセビッチであり、その後、マリオ・
アンチッチでした。
世界の警察官を自認しながら、石油産出国でなく、
アメリカの経済利益とは無縁のバルカン半島に対して
ほとんど何もコミットしなかったアメリカ。
そのアメリカのデビスカップチームを地元に迎えて
ワールドグループの戦いを行い、アメリカチームを
ぶち破ったクロアチア。その勝利が決まったときに
会場は、そして、クロアチアでテレビで観戦していた
多くの家庭で、場所でとんでもない盛り上がりを
見せたようです。
プラハの春の翌年のアイスホッケー世界選手権で
決勝で当時のチェコスロバキアがソ連と戦い、
優勝した時にとんでもない大騒ぎになったことがあったと
聞きましたが、その時のようなことになったのかなと
いう印象を受けた私でした。
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